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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
始まりの国
3/19

心の余白

3話です。ご記憶くださいますように。

 城下町の夜は、昼とは違う顔をしている。


 露店の呼び声は消え、代わりに灯りが増える。

 家々の窓から漏れる光が石畳を柔らかく照らし、人の気配を静かに包み込む。


 私は外套を腕に掛けたまま、家の扉を閉めた。


 今日も、少し遅くなった。


 中へ入ると、灯りをつける前に靴を脱ぐ。

 靴下の片方まで脱いだところで止まり、少し考えてから靴を揃えた。


 机の上には、まとめきれなかった書類が積まれている。

 内容は頭に入っている。整理が追いついていないだけだ。


 椅子に腰掛け、息を吐く。


 静かだ。


 城下町に住んでいるはずなのに、この部屋は不思議と音が届かない。

 考え事をするには、向いている場所だった。


 西の動き。

 北の沈黙。

 南の様子見。


 均衡は、まだ保たれている。

 けれど、ほんのわずかに、重心がずれている感覚があった。


「……明日は、休みか」


 そう呟いて、私は書類から目を離した。


 *


「また、あの小娘か」


 低く吐き捨てるような声が、静かな部屋に落ちた。


「最近、何かと口を挟んでくる」

「若い者が、少し無礼ではないか?」


 机を囲む数人の男たちは、口々に同意の言葉を重ねる。


「判断が早すぎる」

「慎重さが足りない」

「経験が伴っていない」


 その中心に座る男が、鼻を鳴らした。


 「フンッ……」


 男の名は、エリオ・カーディスという。


 名門の家に生まれ、正規の道を歩み、努力と実績を積み上げてきた。

 若くして要職に就いたこともある。

 だが、その先で、二人の存在に行く手を阻まれた。


 宰務官であるアデル・グランハルト。

 そして――リラ・ヴェルノア。


「偶然だと言うには、続きすぎている」


 エリオは静かに言った。


「間違ってはいない。

 だが、正しいからといって、危うくないとは限らない」


 誰かが、ゆっくりと頷く。


「確かに……」

「若すぎるのは事実だ」

「責任の重さを、分かっているのか?」


 同調の気配が、部屋に満ちていく。


 エリオは立ち上がり、窓の外を見た。

 城下町の灯りが、遠くに揺れている。


 数秒の沈黙の後、エリオが呟く。


「北の国は、恵まれていますね」


「魔法、ですか」

「攻撃ではなく、生活を支える技術だと聞く」

「知識としては知っているが……使える者はいないだろう」


 エリオは小さく笑った。


「便利な力ほど、持たぬ者には脅威になる」


 その言葉に、空気が引き締まる。


「……あの補佐官が、そこに興味を持たなければいいが」


 エリオは答えなかった。

 ただ、もう一度だけ鼻を鳴らした。


 *


 翌日。


 目を覚ましたのは、いつもより少し遅い時間だった。

 時計を見て、思わず口元が緩む。


 ――遅刻の心配がない朝って、こんなに平和だったかしら。


 起き上がって、軽く伸びをする。

 急ぐ必要がないというだけで、頭の奥に余白ができる。


 目的もなく、外套を羽織り、城下町へ出た。


 市場は昼前の賑わいを見せていた。

 果物の籠、布の色、人の声。

 どこからか、甘い匂いが漂ってくる。


 視線が、勝手に果物へ吸い寄せられる。


 ――あれ、絶対に美味しい。

 見た目がもう、甘いって顔をしている。


 だが今日は通り過ぎた。

 今日は、別の楽しみを優先する。


 パン屋の前で、今度こそ足が止まった。


 香ばしい匂い。

 これはもう、理性の管轄外だ。


「これと……それも!」


 言い終えてから、手元を見る。


 二つある。


 紙袋を受け取り、店の外に出てから一拍置いた。


「……これは、完全に計算ミスね」


 たったの二個で満足できると思った私が甘かった。

 というか、最初から無理だった。


 自分でそう結論づけて、少し笑う。


「まあ、今日は休みだし」


 こういう日は、修正しないという判断も正解に含まれる。


 川沿いの道を歩きながら、紙袋を開く。


 表面には薄くチーズが塗られ、炙られている。

 指で触れると、ほんのり温かく、かり、と音がしそうな硬さ。


 一口かじる。


 外はさくりとして、香ばしい。

 その直後、内側から柔らかな甘さが広がった。


 思わず声が漏れる。

「相変わらず、最高……」


 中に詰められているのは、乳脂肪の多いクリーム。


 ――これ、やっぱり好き。


 急いで食べると怒られる味だ。

 噛むたびに、ちゃんと幸せが増える。


 白い髪が風に揺れるのも、今日は気にならなかった。

 視線を感じても、今日は見なかったことにする。


 今日は、楽しむ日だ。


 そのまま歩いていると、甘い匂いが鼻をくすぐった。


 足が止まる。


 いや、止まらされた。


 小さな菓子店だった。


 棚を見た瞬間、思考が止まる。


 ――白い。


 圧倒的に白い。


 中央に申し訳程度の生地。

 その上に、堂々と盛られたクリームの山。


 明らかに多い。

 多すぎる。


 ――でも、それが欠点になる理由は、どこにも見当たらない。


「……最高じゃない」


 一瞬だけ理性が顔を出したが、説得力に欠けた。


「これと……それもください」


 店主が一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに微笑んだ。


 すぐに席に着き、一口。


 舌に乗ったのは、まず白。


 ふわふわしているのに、もっちりしていて、

 軽いのに、確かな重みがある。


「……待って」


 甘い。

 でも、甘さだけじゃない。


 すぐ後から、舌の奥に微かな渋みが残る。


 ――これ、下にいる。


 クリームの下に、加工された赤色の果実。

 そのままなら、好みが分かれる味。


 渋みを消しているんじゃない。

 打ち消して、均して、その上で引き上げている。


 少しでも少なければ、果実が勝つ。

 多すぎても、ただ重くなる。


 この量、この質感、この温度。


「……天才だわ」


 思わず呟いていた。


 あるのは、白。

 白がすべてを包み込んで、味を一つにしている。

 これを“やりすぎ”で終わらせないのは、相当な腕だ。


 もう一口。


 やっぱり、止まらない。


……クリーム、多すぎない?


 一瞬そう思って、すぐに否定する。


 これがいい。


 多いからいい。

 多いから、安心する。


「……好き」


 結論は、それだけだった。


 気づけば、皿はもう白くない。


 ――これは、絶対に。


 誰かに話したくなるやつだ。


 私は立ち上がる。


 行き先は、もう決まっていた。


 *


 店の前まで来て、私は一度だけ深呼吸をした。


 ――よし。


 扉を開けるなり、私は言った。


「ルシア、聞いて」


「ごきげんよう」


 いつも通りの声。

 落ち着いていて、少しだけ眠たげ。


「今日ね、すっごいデザートを見つけたの」


 カウンターに身を乗り出す。


「まず見た目が完全に白すぎなの。

 それにクリーム、明らかに多すぎるの」


 ルシアは、カップを拭きながら言った。


「多すぎると、逆に安心するでしょう」


「そう! それでね――」


 言葉が、途中で止まった。


 ……今。


 私が言おうとしたこと。


 まったく同じだった。


「……」


 ルシアが顔を上げる。


「なに?」


「……今、私が言おうとしたこと、そのまま言った」


 少しの間。


 それから、ルシアは小さく笑った。


「でしょうね」


「……なにが?」


「その顔」


 意味が分からない。


「で?」


 ルシアは、何でもないことのように続ける。


「どうだった?」


「どうだったって……」


 私は言葉を探す。


「渋みのある素材をね、全部包み込んでて。

 消してるんじゃなくて、引き上げてるの」


 自分でも分かる。

 語気が強い。


「クリームの量も、質感も、温度も、全部ちょうどよくて。

 …少しでもズレたら崩れるのに、完璧だった」


 最後は独り言のようになってしまった言葉に、ルシアが肩をすくめた。


「私が作ったのよ、あれ」


「……え?」


「試作品だけどね」


 あまりにもさらっと言うから、一瞬理解が追いつかない。


「……待って」


「なに?」


「今の話、全部聞いてた?」


「聞いてたわ」


「じゃあ」


 私は一拍置いて、言った。


「なんで、私が好きだって分かってたの」


 ルシアは少しだけ考える素振りをしてから、答えた。


「分かるでしょう」


「分からない」


「じゃあ、分からないままでいいわ」


 ずるい。


「……すごい」


 それだけ言うと、ルシアは満足そうに頷いた。


「でしょう?」


 その顔が、少しだけ誇らしげに見えた。


「名前は?」


「まだないわ」


「決めなさいよ」


「嫌よ」


「なぜ?」


 ルシアは、カップを差し出す。


「いつか、また作るから。

その時に、名前を付けるわ。」


「絶対だからね」


「約束はしないわ」


「……そこはするところでしょ」


 小さく笑って、私は店を出る。


 外の空気が、少し冷たい。


 胸の奥に、説明できない感情が残っている。


 満ち足りた気分のまま、足取りは、少しだけ弾んでいた。

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