心の余白
3話です。ご記憶くださいますように。
城下町の夜は、昼とは違う顔をしている。
露店の呼び声は消え、代わりに灯りが増える。
家々の窓から漏れる光が石畳を柔らかく照らし、人の気配を静かに包み込む。
私は外套を腕に掛けたまま、家の扉を閉めた。
今日も、少し遅くなった。
中へ入ると、灯りをつける前に靴を脱ぐ。
靴下の片方まで脱いだところで止まり、少し考えてから靴を揃えた。
机の上には、まとめきれなかった書類が積まれている。
内容は頭に入っている。整理が追いついていないだけだ。
椅子に腰掛け、息を吐く。
静かだ。
城下町に住んでいるはずなのに、この部屋は不思議と音が届かない。
考え事をするには、向いている場所だった。
西の動き。
北の沈黙。
南の様子見。
均衡は、まだ保たれている。
けれど、ほんのわずかに、重心がずれている感覚があった。
「……明日は、休みか」
そう呟いて、私は書類から目を離した。
*
「また、あの小娘か」
低く吐き捨てるような声が、静かな部屋に落ちた。
「最近、何かと口を挟んでくる」
「若い者が、少し無礼ではないか?」
机を囲む数人の男たちは、口々に同意の言葉を重ねる。
「判断が早すぎる」
「慎重さが足りない」
「経験が伴っていない」
その中心に座る男が、鼻を鳴らした。
「フンッ……」
男の名は、エリオ・カーディスという。
名門の家に生まれ、正規の道を歩み、努力と実績を積み上げてきた。
若くして要職に就いたこともある。
だが、その先で、二人の存在に行く手を阻まれた。
宰務官であるアデル・グランハルト。
そして――リラ・ヴェルノア。
「偶然だと言うには、続きすぎている」
エリオは静かに言った。
「間違ってはいない。
だが、正しいからといって、危うくないとは限らない」
誰かが、ゆっくりと頷く。
「確かに……」
「若すぎるのは事実だ」
「責任の重さを、分かっているのか?」
同調の気配が、部屋に満ちていく。
エリオは立ち上がり、窓の外を見た。
城下町の灯りが、遠くに揺れている。
数秒の沈黙の後、エリオが呟く。
「北の国は、恵まれていますね」
「魔法、ですか」
「攻撃ではなく、生活を支える技術だと聞く」
「知識としては知っているが……使える者はいないだろう」
エリオは小さく笑った。
「便利な力ほど、持たぬ者には脅威になる」
その言葉に、空気が引き締まる。
「……あの補佐官が、そこに興味を持たなければいいが」
エリオは答えなかった。
ただ、もう一度だけ鼻を鳴らした。
*
翌日。
目を覚ましたのは、いつもより少し遅い時間だった。
時計を見て、思わず口元が緩む。
――遅刻の心配がない朝って、こんなに平和だったかしら。
起き上がって、軽く伸びをする。
急ぐ必要がないというだけで、頭の奥に余白ができる。
目的もなく、外套を羽織り、城下町へ出た。
市場は昼前の賑わいを見せていた。
果物の籠、布の色、人の声。
どこからか、甘い匂いが漂ってくる。
視線が、勝手に果物へ吸い寄せられる。
――あれ、絶対に美味しい。
見た目がもう、甘いって顔をしている。
だが今日は通り過ぎた。
今日は、別の楽しみを優先する。
パン屋の前で、今度こそ足が止まった。
香ばしい匂い。
これはもう、理性の管轄外だ。
「これと……それも!」
言い終えてから、手元を見る。
二つある。
紙袋を受け取り、店の外に出てから一拍置いた。
「……これは、完全に計算ミスね」
たったの二個で満足できると思った私が甘かった。
というか、最初から無理だった。
自分でそう結論づけて、少し笑う。
「まあ、今日は休みだし」
こういう日は、修正しないという判断も正解に含まれる。
川沿いの道を歩きながら、紙袋を開く。
表面には薄くチーズが塗られ、炙られている。
指で触れると、ほんのり温かく、かり、と音がしそうな硬さ。
一口かじる。
外はさくりとして、香ばしい。
その直後、内側から柔らかな甘さが広がった。
思わず声が漏れる。
「相変わらず、最高……」
中に詰められているのは、乳脂肪の多いクリーム。
――これ、やっぱり好き。
急いで食べると怒られる味だ。
噛むたびに、ちゃんと幸せが増える。
白い髪が風に揺れるのも、今日は気にならなかった。
視線を感じても、今日は見なかったことにする。
今日は、楽しむ日だ。
そのまま歩いていると、甘い匂いが鼻をくすぐった。
足が止まる。
いや、止まらされた。
小さな菓子店だった。
棚を見た瞬間、思考が止まる。
――白い。
圧倒的に白い。
中央に申し訳程度の生地。
その上に、堂々と盛られたクリームの山。
明らかに多い。
多すぎる。
――でも、それが欠点になる理由は、どこにも見当たらない。
「……最高じゃない」
一瞬だけ理性が顔を出したが、説得力に欠けた。
「これと……それもください」
店主が一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに微笑んだ。
すぐに席に着き、一口。
舌に乗ったのは、まず白。
ふわふわしているのに、もっちりしていて、
軽いのに、確かな重みがある。
「……待って」
甘い。
でも、甘さだけじゃない。
すぐ後から、舌の奥に微かな渋みが残る。
――これ、下にいる。
クリームの下に、加工された赤色の果実。
そのままなら、好みが分かれる味。
渋みを消しているんじゃない。
打ち消して、均して、その上で引き上げている。
少しでも少なければ、果実が勝つ。
多すぎても、ただ重くなる。
この量、この質感、この温度。
「……天才だわ」
思わず呟いていた。
あるのは、白。
白がすべてを包み込んで、味を一つにしている。
これを“やりすぎ”で終わらせないのは、相当な腕だ。
もう一口。
やっぱり、止まらない。
……クリーム、多すぎない?
一瞬そう思って、すぐに否定する。
これがいい。
多いからいい。
多いから、安心する。
「……好き」
結論は、それだけだった。
気づけば、皿はもう白くない。
――これは、絶対に。
誰かに話したくなるやつだ。
私は立ち上がる。
行き先は、もう決まっていた。
*
店の前まで来て、私は一度だけ深呼吸をした。
――よし。
扉を開けるなり、私は言った。
「ルシア、聞いて」
「ごきげんよう」
いつも通りの声。
落ち着いていて、少しだけ眠たげ。
「今日ね、すっごいデザートを見つけたの」
カウンターに身を乗り出す。
「まず見た目が完全に白すぎなの。
それにクリーム、明らかに多すぎるの」
ルシアは、カップを拭きながら言った。
「多すぎると、逆に安心するでしょう」
「そう! それでね――」
言葉が、途中で止まった。
……今。
私が言おうとしたこと。
まったく同じだった。
「……」
ルシアが顔を上げる。
「なに?」
「……今、私が言おうとしたこと、そのまま言った」
少しの間。
それから、ルシアは小さく笑った。
「でしょうね」
「……なにが?」
「その顔」
意味が分からない。
「で?」
ルシアは、何でもないことのように続ける。
「どうだった?」
「どうだったって……」
私は言葉を探す。
「渋みのある素材をね、全部包み込んでて。
消してるんじゃなくて、引き上げてるの」
自分でも分かる。
語気が強い。
「クリームの量も、質感も、温度も、全部ちょうどよくて。
…少しでもズレたら崩れるのに、完璧だった」
最後は独り言のようになってしまった言葉に、ルシアが肩をすくめた。
「私が作ったのよ、あれ」
「……え?」
「試作品だけどね」
あまりにもさらっと言うから、一瞬理解が追いつかない。
「……待って」
「なに?」
「今の話、全部聞いてた?」
「聞いてたわ」
「じゃあ」
私は一拍置いて、言った。
「なんで、私が好きだって分かってたの」
ルシアは少しだけ考える素振りをしてから、答えた。
「分かるでしょう」
「分からない」
「じゃあ、分からないままでいいわ」
ずるい。
「……すごい」
それだけ言うと、ルシアは満足そうに頷いた。
「でしょう?」
その顔が、少しだけ誇らしげに見えた。
「名前は?」
「まだないわ」
「決めなさいよ」
「嫌よ」
「なぜ?」
ルシアは、カップを差し出す。
「いつか、また作るから。
その時に、名前を付けるわ。」
「絶対だからね」
「約束はしないわ」
「……そこはするところでしょ」
小さく笑って、私は店を出る。
外の空気が、少し冷たい。
胸の奥に、説明できない感情が残っている。
満ち足りた気分のまま、足取りは、少しだけ弾んでいた。




