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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
“眠る王国“マグナレオール
29/53

世界に手を伸ばす

この回は、この物語の“軸”となっています。


 隔絶室の空気が、音を立てて歪んだ。


 ぎしり、と何かが軋むような低い音が、空間そのものから響いてくる。

 空気と圧力と魔力が、同時に膨張した音。

 金属も、ガラスも悲鳴を上げている。


 教授のいる左側の区画は、もはや「部屋」と呼べる状態ではなかった。


 熱波が渦を巻き、

 圧が波打ち、

 酸素が薄まり、

 光が歪み、

 視界の端で、世界が何度も二重に揺れる。


 教授の顔が赤黒く変色し、

 全身から吹き出した汗が一瞬で蒸発し、

 肌はまるで沸騰したようにぐつぐつと脈打っていた。


「……っ、ぐ……!」


 喉から、言葉にならない音が漏れる。

 酸素が無い。

 肺が正常に動いているのかも、分からない。


 教授は必死に水晶を握り、

 第二層の構築で空気を引き寄せ続けている。

 だが、隔絶された空間では“自分が作った空気”を、自分で吸い尽くしていく。


 もう、残された時間はあと僅かだった。


 一方、仕切りの向こう――学生側の区画。


 装置の光に照らされ、

 空間はわずかに安定している。


 しかし、その安定こそが地獄だった。


 学生は両手を刻印に貼り付けたまま、

 魔力を流し続けている。


 止められない。


 学生の頬を涙が伝い、歯がガチガチと鳴り、喉から嗚咽が漏れる。


「や、やだ……やだ……助けて……」


 言葉にならない拒絶。


 装置はそれを見ない。


 装置は、ただ数値を読む。


 ――教授側:酸素、限界値近く。温度、致死域。圧力、不安定。

 ――学生側:軽度の不安定。だが回復可能。


 装置は優先順位を選び続ける。


 教授を切り捨て、

 学生側を維持する。


 “生命維持確率が高い方”へ。


 それが、

 この装置の正しさだった。


 教授の声は、もう意味を成していなかった。


 次の瞬間。


 教授の左目が、破裂した。


 顔の左半分が、鮮血に染まる。その血も、すぐに蒸発した。


 教授はもう、呻き声を上げることもできないでいる。


「………………」


 皮膚の表面が、熱でひび割れる。


 教授の肌が赤黒く腫れあがり、

 身体のあちこちが膨張していく。


 ――焼かれている。


 世界が、教授を焼いている。


 学生たちの悲鳴が、隔絶室の外で上がった。


「教授……!」

「いやぁぁああ……」

「嘘だろ……!」

「誰か……」


 誰も動けない。

 誰も入れない。


 初めて見る“本物の地獄“を前にして、行動できるものなどいない。


 その中で。


 私は、一歩前に出た。


 隔絶室の“境界”に手を伸ばす。


 空気が、膜のように張り付く感触。

 触れてはいけない。

 でも、触れる。


「……やめて」


 私は小さく呟いた。


 誰にでもない。

 装置でもない。


 世界に。


 私の中で、何かが“ひらく”。


 ……懐かしい。


 忘れていた。

 思い出した。


 昔。小さかった頃から、私は同じ感覚を知っていた。


 物事が、

 まだ起きていないのに、

 「起きる形」で見えてしまう感覚。


 意思を介さず、時の流れは残酷なまでに正確に進んでいく。それが最悪の結果であっても。


 私は、その時の流れを――調節することができる。


 ――第三層。


 判断。


 私は、はっきりとそれを思い出した。


 魔法を学ぶ前から。

 構築を知る前から。

 私は、ずっとここに触れていた。


 だから、今は分かる。


 装置は壊れていない。

 人間も悪くない。


 ただ――


 世界の選択が、間違っている。


 教授が死ぬ未来。

 学生が壊れる未来。

 装置が「正しい」と判断した未来。


 それらは私にとって、到底採用できるものではない。


 私は更に、一歩前へ出た。


 誰も、まだ気づかない。

 叫びも、警報も、まだ始まっていない。


 ただ、隔絶室の向こうで――教授の命が燃え尽きかけ、学生の手が震え、装置の刻印が冷たい光を増しているだけだ。


 大丈夫。まだ、間に合う。


 このまま何もしなければ、

 どちらかが死ぬ。


 どちらかが壊れる。


 それを、私は見過ごせない。


 私は、深く息を吸った。


 不思議なことに、胸は騒がなかった。

 恐怖はある。

 でもそれ以上に、懐かしい感覚があった。


 もう、遠い昔のことみたいだ。


 荒れ狂った濁流に男が飲み込まれたと思った時。

 世界が歪み、木箱が崩落に向かった、あの瞬間。


 私は、あの時と同じ場所に立っている。


 ずっと、怖くて、

 思い出さないようにしていた。


 忘れたふりをしていた。


 この力のことを。


 私の中で、何かが完全に目を覚ましていた。


 それは魔力ではない。

 図式でも、理論でもない。


 “救う”という意思から生まれた“何か“。


 私は、俯瞰した。


 教授の苦しむ空間。

 学生の怯えた空間。

 装置が冷静に振り分ける、無数の変数。


 すべてが、同時に、私の中に入ってくる。


 怖い。けど、逃げない。


 私は、静かに決めた。


 ――この力を、使う。


 目を逸らさない。

 自分が何をしているか、ちゃんと知ったまま。


 私は、心の奥で、扉を開く。


 長いあいだ、閉じていた場所。

 触れるだけで、世界が揺れる場所。


 ――そうだ。


 今も昔も。

 私が守りたいものは、何一つ変わっていない。


 私は、私が関わったすべての人を、幸せにしたい。


 英雄になりたいわけじゃない。

 正義を証明したいわけでもない。


 ただ――


 目の前で泣く人を、

 壊れそうな人を、

 「仕方がない」と切り捨てられる人を、

 私は見捨てたくない。


 それだけだ。


 この世の中は、いつも合理的だ。

 変数を並べて、

 確率を計算して、

 「より多くが救われる方」を選ぶ。


 でも、そこから零れ落ちた人間は、

 誰が救う?


 誰が、名前を呼んであげられる?


 誰が、

 「あなたの価値はゼロじゃない」と言う?


 世界が、その人を救わないなら。


 世界が冷たく、正しく、残酷で。

 「それは仕方がない」と言うなら。


 ――その時は。


 世界の代わりに、私があなたを救う。


 それが、私の選択だ。


 それが、

 この力を持っている理由だ。



「……リラ?」


 誰かの声がした。


 学生たちが、こちらを見ている。

 誰かが、私の歩みに気づいた。


「おい、無理だ!」

「危険すぎる!あなたも……!」

「今、装置が――」


 叫び声が重なり始める。


 でも、その中に、別の色の声が混じった。


「……待って」

「……あの子……」


 恐れと、期待。

 わずかな希望。


 私を見ている目の中に、

 “もしかして”が生まれる。


 ――彼女なら。


 ――あの留学生なら。


 ――何か、できるんじゃないか。


「戻れ、リラ!」

「死ぬぞ!」

「やめろ!」


 止める声が飛ぶ。


 でも、誰も私の足を掴まない。


 掴めない。


 この空気の中で、

 みんなが心のどこかで願っている。


 ――彼女なら。


 私は、何も言わずに、さらに一歩を踏み出す。


 隔絶室の境界が、

 わずかに、歪む。


 もう、引き返せない場所だ。


 それでも私は、静かにそこに立つ。


 世界が、

 私の決断を、待っている。


 私は、境界に触れた。


 指先が、隔絶室の空気に沈む。

 水でも、光でもない。

 ――世界そのものの膜。


 瞬間。

 猛烈な熱波を浴びると共に――

 音が、消えた。


 学生たちの叫びも、

 教授の薄く張り付いた意識も、

 装置の唸りも。


 すべてが、引き延ばされる。


 世界が、息を止める。


 時間が、ゆっくりとほどけていく。


 空間が歪み、

 光が引き延ばされ、

 熱がまばらな線を書き、

 粒子が軌跡を描く。


 私は、その中を歩く。


 足元から、広がっていくように少しずつ時間が巻き戻っていく。

 教授の顔から、苦悶がわずかに薄れ、

 学生の震える手が、ほんの少し前の位置へ戻る。


 ――来た。


 この感覚。


 懐かしくて、

 怖くて、

 それでも、はっきり分かる。


 一度確定した未来が、巻き戻っている。――そうとしか思えない現象が、実際に起こっている。


 時間が更に、引き延ばされる。


 まだ、間に合う。

 二人とも、必ず助ける。

 その希望を、確実に掴める確信があった。


「……やっぱり、覚えてる」


 誰にも聞こえない声で呟いた。


 忘れたふりをしていただけだ。

 怖かったから、封じていただけだ。


 この力は、

 私の中で、ずっと待っていた。


 私は、装置を見た。


 冷たく、正確で、

 “最適解”だけを選ぶ、無機質な存在。


 マグナレオールの思想そのものを体現したような存在。


 私は、静かに問いかける。


「あなたは、誰を救うの?」


 答えはない。

 あるのは、変数と、優先順位だけ。


「それなら」


 私は、境界に手を当てたまま、言った。


「その判断は、間違ってる」


 世界が、さらに伸びる。


 光が、糸のように張り巡らされる。


「あなたが切り捨てる命を」


 私は、息を吸う。


「私が、代わりに助ける」


 合理の外に落ちた命を、私は拾う。

 たとえ私が合理から排除されても。


 ――周辺に漂う魔力を、私の身体へ全て集中させる。


 マグナレオールで学んだ、すべての理論。

 図式。

 流れ。

 干渉。

 安定化。

 同期。


 それらが、一斉に私の中で噛み合う。


 世界を読む。

 変数を読む。

 装置の判断の癖を読む。


 私は、時間を引き延ばしたまま、膨大な計算式に立ち向かう。

 徐々に、魔力の流れを書き換え始めた。


 隔絶室の中で、

 教授の片目の縁が、熱でただれ始めている。

 皮膚が、じゅっと音を立てて溶け、

 白衣の襟が焦げる。


「……あ……あ……!」


 学生の喉から、嗚咽が漏れる。

 彼の視界に、教授の変わり果てた姿が映る。


 悲鳴。

 パニック。

 涙。


 そのすべてが、

 引き延ばされた時間の中で、ゆっくりと崩れる。


 私は、目を逸らさない。


 これが、救うということだ。


 これが、選ぶということだ。


 私は、魔力を流し込む。


 装置の刻印に、

 隔絶室の境界に、

 世界の“計算式”に。


 温度を分割し、

 圧力を逃がし、

 酸素の優先順位を書き換える。


 ――両方が、生きられる形へ。


 私の魔力は、もはや一つの流れじゃない。

 数十、数百の細い線となって、

 同時に複数の事象を調整する。


 脳が焼ける。

 視界が白くなる。

 でも、止めない。


「……まだ……!」


 私は歯を食いしばる。


 救うというのは、簡単ではない。

 私はそれを知っている。


 それでも、私は選ぶ。


 私は、装置と向き合う。

 たった一人で。


「あなたは、間違えた」


 私は言う。


「人を、変数で見るから」


 魔力を、最後まで叩き込む。


「私は、人を名前で見る」


 ――世界が、唸った。


 装置が、リラの“計算式“に耐えられず、過負荷を起こす。


 装置のフレームが軋み、

 刻印が悲鳴のように光り、

 隔絶室の境界が、ひび割れる。


 そして――


 砕け散った。



 装置が、敗北した。


 制御が崩れ、

 空間が解放され、

 歪んだ変数が、一気に拡散する。


 教授の空間と、学生の空間が、

 “正しい”環境で再接続されていく。


 酸素が戻る。

 温度が下がる。

 圧が均される。


 教授は辛うじて息をしていた。

 ところどころが焼け爛れている重症だが、

 命はある。


 学生も、床に膝をつく。

 自分の体液でぐちゃぐちゃになりながら、

 確かに、呼吸をしている。



 私は、それを見届けて――


 膝から崩れるように、床へ倒れ込む。


 気力が尽きかけている。

 脳が焼き切れているかのような感覚。

 視界が暗くなっていく。


 床に倒れ込みながら、

 私は、ただ一つだけ思った。


 ――間に合った。


 そのまま、意識が遠のく。


 地下室には、今や異常な魔力波が渦巻いていた。


 警報が鳴り響いていた。


 甲高い音が、王立大学全体を貫く。


「魔力異常検知!」

「第三層反応!」

「監視網が――!」


 扉が叩き破られる。


 警備兵。

 他の教授たち。


「何が起きている!?」

「誰がやってる!?」

「何を――!?」


 彼らの視線が、一斉に私に向く。


 警報と、

 叫びと、

 誰かの足音の中で。


 私は、静かに、落ちていった。


 *


 王立大学の地下から放たれた魔力の衝撃は、

 建物を越え、街を越え、マグナレオール全体に薄く広がっていた。


 それは音でも、光でもない。

 数値にも記録される異常。


 それぞれが別の場所で“同時に“感じ取っていた。


 マレイアは、講義棟の廊下で足を止めた。


 学生たちがざわめき出すのと、警報が鳴り始めたのは、ほぼ同時だった。


 胸の奥が、きしんだ。


 理由は分からない。

 場所も分からない。

 ただ、はっきりしていることが一つだけある。


「……リラ……?」


 その名前が、勝手に浮かんだ。


 マレイアは自分でも驚いた。


 論理も根拠もないのに、

 彼女の中では、それ以外の可能性が消えていた。


 あの子が――危ない。


 胸が締め付けられる。


 マレイアは走り出した。

 警報の音に逆らって。

 何が起きたかも知らないまま。


 ただ、“そこに行かなければならない”とだけ確信して。


 *


 セレストは、窓のない執務室で、ゆっくりと目を閉じた。


 机の上の水晶が、微かに震えたのを感じた瞬間。


 魔力監視網が反応するより、ほんの一瞬早く。


 ――ああ。


 それだけで、すべてを理解した。


 起きた。

 起こしてしまった。


 予測していた最悪のひとつが、今、現実になった。


 セレストは目を開く。


 その瞳にあったのは驚きではなく、

 静かな、しかし決定的な確信だった。


「……やはり、あなたなのね」


 誰もいない部屋で、そう呟く。


 彼女の口元に、かすかな影が落ちる。


 それは笑みではなく、

 “次の段階に進んだ”ことを悟った人間の表情だった。


 *


 王立大学の最上階。

 厚い壁と結界に守られた執務室。


 ランストゥード卿は筆を止めた。


 ほんの一瞬、空気が変わった。


 それだけで十分だった。


 彼は、窓の外に目を向ける。

 遠く、実験棟の方角。


 何も見えない。

 何も聞こえない。


 それでも、彼は知った。


 ――何かが、越えた。


 境界を。

 許可を。

 そして、この国が定めた“枠”を。


 ランストゥード卿は、ゆっくりと息を吐く。


 まだ、誰の名前も口にしない。

 命令も出さない。


 ただ、その目だけが、鋭く細められた。


 狩りを始める前の、獣のように。


 *


 警報は鳴り続けている。


 王立大学の地下で倒れた一人の少女が、

 世界を揺らしたことを、まだ誰も正確には知らない。


 だが。


 もう、戻れない場所へ踏み込んだことだけは――

 この国の“要”たちが、同時に理解していた。

ここまで読んで頂き、ありがとうございます。


世界が正しいと決めた答えと、

自分が守りたい人のどちらを選ぶのか。


リラの“正しさ“は形を変えずに残るのか。


もし、あなたがこの場に立っていたら――

どんな選択をしましたか?


「リラの選択をどう感じたか」だけでも、

そっと教えてもらえると嬉しいです。

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