意思の境界
扉を叩く音がした。
乾いた音だった。
強くもなく、弱くもない。
私は、一瞬だけ反応が遅れた。
思考が追いつかない。
こんな時間に、誰か来る理由を考えるより先に、胸の奥が嫌な形で跳ねた。
今は、誰にも見られたくない。
私は咄嗟に顔を伏せた。
目元が熱い。
喉の奥が詰まっている。
私は、ずっと泣いていた。
声は出ていない。
嗚咽もない。
ただ、止まらない。
理由を整理しようとすると、逆に何も分からなくなる。
セレストの声。
拒絶。
線を引かれた感覚。
裏切られた、と言い切るには違う。
守られた、と受け取るには痛すぎる。
だから、感情が行き場を失って、
ただ、涙だけが落ちていた。
机の上の紙は、そのままだ。
推理も、結論も、今は見たくない。
――もう一度、扉が叩かれた。
少し間を置いた音。
急かさない。
それでも、音は消えなかった。
私は、呼吸を整えようとして、失敗した。
吸うと、涙が増える。
……最悪。
目、腫れてる。
絶対。
足音の間隔。
扉の叩き方。
私は、扉を開ける前から分かっていた。
この前から、少しだけ、距離が変わった。
言葉にしていないけど、分かっている。
今、こんな顔を見せていい相手じゃない。
でも、追い返す余裕もない。
私は、ゆっくりと扉へ向かった。
取っ手に触れた瞬間、情息花が微かに温度を返す。
……やっぱり。来てる。
その事実に、胸がぎゅっと縮んだ。
扉を開ける。
シグが立っていた。
変わらない服装。
変わらない立ち方。
でも、その目が、私を見て、少しだけ柔らぐ。
――ああ。
見られた。
私は何も言えなかった。
言えないまま、視線を逸らす。
泣いていたのは、隠せない。
「……入ってもいいかい?」
私は、黙って頷いた。
シグはそれ以上何も言わずに、部屋に入る。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
私はまた椅子に座りこみ、俯いた。
涙は、止まらない。
シグは、すぐには近づかなかった。
距離を測るように、一拍置く。
それから、隣の椅子を引いた。
座る音。
何も言わない。
ただ、そこにいる。
私は、顔を上げられないまま、泣き続けた。
時間の感覚が、曖昧になる。
やがて、シグが静かに口を開く。
「理由は、分からない」
淡々と。
「でも……君、何かに怯えてる」
その一言で、胸の奥が崩れた。
私は、息を吸おうとして、できなかった。
涙が、溢れる。
シグは、それ以上言わない。
ただ、手を伸ばした。
指先が、私の手に触れる。
強く握らない。
引き寄せない。
離れないだけ。
私は、その温度に縋るように、しばらく泣き続けた。
シグは、何も言わなかった。
――それから、どれくらい経ったか分からない。
涙が少し落ち着いた頃、シグが静かに続けた。
「リラ」
「君は、頭がいい」
「それに、繊細だ。
……優しすぎるくらい」
私は、まだ何も言えない。
「だから、傷ついてしまう」
責めない声。
「この国は、何かを隠してる。
それは……間違いない事実だ」
否定しない。
肯定もしない。
「今の君には、この国を信じられないかもしれない」
私は、小さく肩を震わせた。
「でもね」
少し間を置いて。
「マグナレオールは……美しい国なんだよ」
押しつけじゃない。
感想としての言葉。
「今は、何も考えなくていい」
私は、やっと、浅く息を吐いた。
「一旦、休憩しよう」
その言葉に、胸の奥が少し緩む。
そして、シグは少しだけ視線を逸らして言った。
「……そうだ。今度の休日、時間をもらえないか?」
その瞬間。
私の思考が、ようやく動き出した。
「……休日?」
声が、かすれる。
「何を……?」
頭が、追いつかない。
「……どこへ?」
疑問が、順番を無視して溢れる。
シグは、少しだけ笑った。
「何もしなくていい」
「考えなくていい場所に行くだけだ」
落ち着いた声。
「君は今、考えすぎてる」
私は、ぼんやりと天井を見た。
……休む、って何だっけ。
「……私、変じゃない?」
ようやく出た言葉は、それだった。
シグは即答せず、少しだけ息を整えた。
「変じゃない」
少し考えてから。
「ちゃんと、綺麗だ」
私は、目を閉じた。
その言葉が、静かに胸に落ちた。
――怖いのに。
苦しいのに。
それでも私は、今その言葉で息ができる。
恋というのは、こういう時に最悪だと思った。
泣き腫らした目のこととか、
声がみっともなく掠れていることとか、
そんなことばかり気にしてしまう。
今はそれどころじゃないのに。
私は、ようやく少しだけ頷いた。
シグはそれ以上言わなかった。
手を握ったまま、ただ、そこにいた。
夜は、静かに終わった。
*
私は、ただの学生に戻ることを選んだ。
戻る、というより。
戻らないと壊れる。
机の上の紙を見た瞬間、昨日の結論が喉の奥に刺さった。
この国を、疑ったまま眠った。
それでも朝は来る。
顔を洗い、髪を整え、外套の襟を正した。
鏡の中の私は、まだ少し赤い目をしている。
でも――誰も気づかない程度に、戻してみせた。
息を吐く。
大丈夫。
私は外交官補佐だった。
感情が揺れても、仕事には出た。
――ここでは「仕事」じゃない。
でも、似ている。
出れば、隠せる。
動けば、考えすぎなくて済む。
だから私は教室へ向かった。
*
いつもの教室は、いつもの匂いがした。
紙とインク。
朝の乾いた空気。
誰かの香水の残り香。
学生たちは、いつもより少しだけ浮ついているように見えた。
それは期待でもあり、退屈からの逃避でもある。
今日のメインは「魔法科学工学応用Ⅱ」。
数ある講義の中でも、特に実習が多い。
私は席に着いた。
鞄の中に手を入れ、指先でペンの感触を確かめる。
落ち着け。
視線を前へ。
教授が入ってくる。
今日はいつもより早い。
白衣の裾が音を立て、教卓の前で止まった。
「本日の実習は、ここではない」
教室がざわめく。
「移動する。持ち物は最小限。筆記具だけでいい。
遅れるな。迷うな。勝手に触れるな。――以上」
短い命令。
私は背筋が冷えた。
迷うな。
勝手に触れるな。
……何の場所?
学生たちは「実験室だ」と囁き合い、興奮した声が増える。
でも私は、昨日の「忘れろ」というセレストの声を思い出してしまう。
奥へ行く。
隠された場所へ行く。
それだけで、嫌な予感がする。
私は立ち上がり、列に混じった。
移動は、想像より長かった。
大学の建物は整っている。
廊下は広く、床は磨かれ、窓から光が差す。
そこまではいつもと同じ。
でも、教授が曲がった先で空気が変わった。
窓が減る。
壁の素材が変わる。
石から白木へ、白木から金属へ。
足音が、少しだけ反響する。
学生たちは気づかない。
「秘密の実験室」への興奮で、感覚が鈍っている。
私は気づく。
私の第一層――感知が、勝手に拾ってしまう。
この通路は、見せるための通路じゃない。
使うための通路だ。
誰かが、頻繁に通っている。
それも、学生ではない足音で。
角を曲がる。
さらに曲がる。
階段を降りる。
そこは、地下だった。
空気が冷えている。
湿り気も多い。
そのはずなのに、匂いが薄い。
地下特有の空気の澱みが少ない。
私は唇を噛んだ。
ここは地下なのに、地下じゃない。
環境が「維持されている」。
背中がひやりとした。
――下層を連想させる。
その言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、私は自分の頭を叱った。
繋げるな。
今はまだ。
さらに歩く。
最後に、扉が出てきた。
扉は分厚い金属で、取っ手に小さな水晶が埋め込まれている。
教授がそこに触れると、水晶が淡く光った。
鍵が開く音。
扉が、ゆっくりと開いた。
中は――広かった。
*
そこは「実験室」という言葉では足りない。
天井が高い。
壁が厚い。
床には刻印が走っている。
そして、部屋の中央に――装置があった。
巨大な枠組み。
四角い輪郭を作るように柱が立ち、上部に格子状のフレームが組まれている。
その内側は、何もない空間に見える。
ただ、空間の境界が「揺れて」見えた。
目の錯覚じゃない。
空気が波打っている。
私は息を呑んだ。
隔絶。
この空間は、外の空気と繋がっていない。
そう直感が告げる。
学生たちが歓声に近い声を上げる。
「うわ……」
「これが……」
「本当にあるんだな」
教授は、咳払いを一つして、空気を締めた。
「静かに」
一瞬で、音が落ちる。
「これが本日の講義内容だ。
環境安定化・隔離制御小型装置――試作品だ」
教授が言った「試作品」という言葉に、学生たちがざわめく。
これが小型?
私は装置を見つめる。
柱の表面に刻まれた符号。
水晶媒体の配置。
数式のような記号言語。
第二層――構築の塊。
技術だ。
魔法ではなく、技術としての魔法。
教授は淡々と説明を始めた。
「目的は単純だ。
外界で環境が崩れた時、最低限の生命維持条件を確保し、段階的に正常へ戻す。
……その訓練と検証を行う」
私は、心の中で言葉を反芻した。
外界で環境が崩れた時。
災害。
事故。
あるいは――戦争。
私は、外交官補佐としての記憶が勝手に動く。
マグナレオールは国交が少ない。
技術流出を嫌う。
他国への牽制が多い。
あの結論が、喉の奥を擦った。
災害?
それとも――戦争に備えているのか。
私はその推理に手を伸ばしかけて、引っ込めた。
今は、決めるな。
教授の声を聞く。
教授は一度、装置から視線を離し、学生たちを見渡した。
「まず、実験の前提を説明する」
床に刻まれた長方形の区画を指でなぞる。
「この区画は、外界から完全に隔絶されている。
空気、魔力、温度、圧力――すべてが独立して制御される」
教授の指は、区画の左右端で止まった。
「今日は二人一組で入る。
一方は、左側に立つ。意図的に環境を“崩す”撹乱の役。これは私が行おう。
もう一方は右側に立つ。装置と同期し、正常へ戻す役だ」
教室が、わずかにざわめく。
「環境を壊す、と言っても無茶はしない。
事前に設定された範囲内でのみ変化を与える。
想定は、地震、火災、魔力暴走を想定した――現実に起こりうる事象だ」
「だが」
教授は、即座に続けた。
「誰かが死ぬような実験はしない。
これは訓練であり、検証だ」
学生たちの肩から、少しだけ力が抜けるのが分かった。
――その中で。
私だけが、違和感を捨てきれずにいた。
「この装置は、人を認識しない。
『誰を助ける』という判断はしない。
ここが重要だ」
教授は指で装置の床面の刻印を示す。
「装置が扱うのは変数だけだ。
温度、気圧、酸素濃度、魔力密度、毒性値、湿度、光量。
それらを“生命維持の最低条件”へ近づけるために優先順位を組む」
学生の一人が手を挙げた。
「先生、もし複数の異常が同時に起きたら?
例えば酸素低下と温度上昇が同時に」
「優先は空気だ。
酸素と気圧。
生命維持の最低条件が崩れれば、次の段階へ行けないからな。
次に温度、次に毒性、次に湿度。
――段階的に正常へ戻す」
別の学生が続ける。
「じゃあ、もし魔力密度が急上昇したら?
人体に影響が出るレベルで」
「その場合も優先順位は変わらない。
魔力密度は毒性に近い扱いになる。
ただし、これも段階だ。
空気が確保されていれば、人はある程度耐えられる」
学生たちが頷く。
納得の空気が広がる。
教授は続ける。
「そして安全機構。
装置内で規定限界値を超える変動が起きた場合、中央に仕切りが降りる。
空間を二分し、隔離する。
片方の変動がもう片方へそれ以上伝播しないようにする」
学生が問う。
「仕切りが降りたら、撹乱役は環境がズレた空間に隔離されます。助かるんですか?」
教授は少しだけ眉を上げた。
「助かる、という言い方は曖昧だ。
ただし、最低限の生命維持条件は確保される設計だ。
――空気は死なない。
温度は耐えられる範囲に戻る。
気圧も崩れない」
誰かが笑って、空気が和む。
私は笑えなかった。
設計だ。
設計は、現実に勝てないことがある。
私は、嫌な予感がした。
こういう時、教授はいつも私を見た。
留学生という珍しさ。
反応の速さ。
第二層の吸収の速さ。
私は、今日、見られたくない。
――見られたくない理由が、私は自分で分かっている。
セレストの言葉。
「外の人間だから知れない」
「存在させない」
私は、これ以上「目立つ」と、何かが決定的になる気がした。
教授は案の定、私を見た。
「リラ。君が制御役をやれ」
教室の空気が動く。
期待と羨望と、少しの嫉妬。
私は、心臓が一度だけ大きく跳ねた。
――だめだ。
私は立ち上がった。
息を吸う。
声を平らにする。
「申し訳ありません。今日は、辞退させてください」
教室が静まる。
教授の眉がわずかに動いた。
「理由は?」
私は、用意していた。
「……自信がありません」
嘘ではない。
自信はある。
でも「結果」に自信がない。
教授は言う。
「君はここの学生の中で、最も二層が安定している。
装置も試作品とはいえ、万全だ。失敗はない」
失敗。
その言葉が、昨日の「排除」と繋がってしまう。
私は、首を横に振った。
「今日は、避けたいです」
言葉を選んだ。
理由を言わない。
言えるはずがない。
教授は一拍、私を見た。
その視線が、嫌だった。
評価の視線。
――この国は、人を変数で見る。
そういう悪い推理が、勝手に頭を動かす。
教授は、淡々と頷いた。
「分かった。では、代わりの者」
すんなりと引いた。
その「すんなり」に、私は逆に違和感を覚えた。
いつもなら、教授は押す。
ここでは押さない?
私が断ったことが、想定内だったみたいに。
――罠?
そんな考えが、頭をかすめる。
教授は、学生の一人を指名した。
上位の成績。
私に次いで吸収が速い。
彼は少しだけ目を輝かせ、そして、硬く頷いた。
私はその横顔を見て、胸が痛んだ。
ごめんなさい。
そう思った。
私はまだ「敵」を確定していないのに、
もうこの国の空気に、疑いの毒を混ぜてしまっている。
*
実習が始まった。
装置の内側――隔絶室へ入る前に、教授が確認する。
「繰り返す。
この空間は外界と隔絶されている。
空気も、温度も、音も、基本的には独立だ。
だから安全だ。
外には影響しない」
学生が手を挙げる。
「先生、もし隔絶室の中で爆発的な魔力反応が起きたら、外へ漏れますか?」
「漏れない。
漏れないように設計されている。
ただし、漏れないというのは“破れない”という意味ではない。
――だから、破るな」
笑いが起きる。
軽い緊張が和らぐ。
でも私は、その言い方が気になった。
破れないわけじゃない。
設計は、破れる。
教授が続ける。
「環境変動の撹乱は、段階で行う。
制御は、設定された図式に沿って行う。
だから、焦るな。
変数は変数だ。
私の命令を必ず守れ。
――人間の感情は、装置にとって誤差になる」
教授と学生――攪乱役と制御役は、装置の中、隔絶室へ入る。
私は外側から見守る位置に立った。
他の学生たちも、半円を作る。
隔絶室の境界は透明で、しかし触れれば硬い。
空間そのものが壁になっている。
私は、無意識に手を握った。
始まる。
教授が、攪乱の刻印へ指先を置く。
学生が、制御の刻印へ両手を置く。
教授が言う。
「第一段階。温度を上げる」
空間が、じわりと霞む。
隔絶室の内部の空気が揺れる。
目に見えるほどの熱波。
学生が魔力を流す。
刻印が淡く光り、温度の上昇が鈍る。
教授が頷く。
「良い。
第二段階。湿度を落とす」
空気が乾く。
喉が渇くような錯覚。
学生は流し続け、制御が働く。
外から見ている学生たちが感嘆する。
「すげえ……」
「本当に安定してる」
「制御図式、思ったより滑らかだな」
教授が淡々と進める。
「第三段階。酸素濃度を落とす」
私は息を止めた。
酸素は、怖い。
温度より、湿度より、怖い。
隔絶室の内部で、教授が少しだけ肩を動かす。
呼吸が浅くなったように見える。
学生は焦らない。
流し続ける。
刻印が明滅し、酸素濃度の落ち方が緩やかになる。
教授は言う。
「良い。
今のは“傾き”だ。
崩壊ではない」
その言葉が、なぜか私を不安にした。
崩壊ではない。
崩壊は、起こりうる。
教授は次へ行く。
「第四段階。魔力密度を上げる」
隔絶室の空気の色が変わった気がした。
透明なはずなのに、わずかに光る。
学生の額に汗が浮かぶ。
でも、耐えている。
制御図式が働き、密度の上昇が抑えられる。
学生たちが「安全だ」と確信し始める空気。
教授の手順の滑らかさ。
装置の反応の正確さ。
誰もが思う。
――大丈夫だ。
私だけが、思わなかった。
私の感知が、嫌な揺らぎを拾う。
変数の“順番”が、少しだけおかしい。
教授が段階を上げるタイミング。
学生が制御図式へ流す量。
装置が反応する遅れ。
数字にすれば誤差。
体感では、歪み。
私は口を開けなかった。
言えない。
昨日、私は「外の人間」だと言われた。
今ここで「危ない」と言えば、私はまた線を引かれる。
そして、引かれる線が、今度はもっと決定的になる気がした。
教授が言う。
「第五段階。温度をもう一段階上げる」
隔絶室の内部が、さらに霞む。
教授の白衣の裾が揺れ、熱に揺らぐ。
学生の手が少しだけ震える。
その震えを誤魔化すように、学生は“補正”を入れた。
本来、図式は崩れても“順番”だけは守らなければならない。
だが彼は、順番を飛ばした。
少しの誤差。
一呼吸分。
瞬間、隔絶室の内部の温度が、ひと息で跳ね上がった。
教授の顔色が変わる。
「落ち着け。
図式を守れ」
教授の声が、少しだけ強くなる。
学生は頷く。
頷くが、目が焦っている。
魔力を流す。
増やす。
減らす。
……迷いが出た。
迷いが出た瞬間、図式が滑らかさを失う。
装置は、滑らかさの欠損を“異常”として拾う。
私は見た。
隔絶室の床の刻印が、ひとつ、別の色で光った。
――安全機構。
仕切りが作動する合図。
教授が気づく。
「止めろ」
教授が言う。
「今は止めていい。
“傾き”で終わる。
大丈夫だ。手を離せ」
止めていい。
その言葉は正しい。
止めれば、ここで終わる。
でも学生は止めなかった。
止められなかった。
なぜ?
恐怖ではない。
もっと単純だ。
分からない。
止めた瞬間、環境がどう動くのか。
図式が途中で切れた時、装置はどう判断するのか。
自分の流した魔力が、どんな形で残るのか。
分からないから、止められない。
人間の怖さは、ここだ。
知らないことに、確信を持てない。
学生は必死に流し続けた。
必死に、修正し続けた。
その修正が、さらにずれを生む。
隔絶室の内部で、空気が波打つ。
熱だけじゃない。
圧が変わる。
呼吸が重くなる。
教授が一歩下がった。
自分の体で、異常を確かめた。
「……仕切りが落ちる」
教授の声が低くなる。
そして、その瞬間。
隔絶室の天井から、白い板が落ちてきた。
音もなく。
速く。
迷いなく。
空間が二つに分かれる。
左側に教授。
右側に学生。
仕切りが落ちた瞬間、私の背中に冷たい汗が走った。
隔絶。
分離。
これで終わるはずだ。
教授も、学生も、そう思ったはずだ。
隔絶は成功した――はずだった。
だが、仕切りが落ちたことで、揺らいだ変数が“左側に閉じ込められた”。
逃げ場を失った熱と圧が、一気に教授側へ偏る。
教授側の空間が、先に“崩れ始めた”。
温度が異常値まで跳ね上がり、
空気が薄くなる。
教授が咄嗟に自力の魔法を構築する。
第二層。
手元に水晶を取り出し、短い構文で空気を維持する。
教授は耐える。
耐えながら、学生へ叫んだ。
「止めろ!止めていい!
今は止めろ!」
仕切りの向こうで、学生の目が揺れる。
学生は止めたい。
止めていいと言われた。
でも、止めた瞬間の“未知”が怖い。
学生は手を離せない。
手を止めるために必要なのは、理解だ。
でも今、理解する余裕がない。
学生は魔力を流し続ける。
その結果、学生側の空間が――わずかに傾く。
教授側ほどではない。
でも、確実に悪化する。
装置は人を見ない。
装置は変数を見る。
装置は冷静に判断する。
教授側は既に“空気維持の限界”へ近い。
だが、教授側には“自力の構築”が存在する。
変数だけを見れば、教授側は「まだ持つ」。
学生側は、わずかな傾き。
だが、制御が暴れている。
変数の揺れが増えている。
装置は優先順位を組み直す。
――空気。
――気圧。
――酸素。
装置の光が、教授側から学生側へ移った。
私は息を止めた。
装置が学生側を“先に整え始めた”。
教授側が置き去りになる。
教授は気づく。
自力の構築に魔力を注ぎながら、教授の表情が変わる。
焦りが、怒りが、恐れが混じる。
「……馬鹿が……!」
教授の声が歪む。
熱と圧で、声が裂ける。
教授は分かっている。
このままでは、自分の空間が先に限界を迎える。
学生を止めなければ、自身の安全が保証できない。
だが責めれば、学生は更なるパニックに陥るだろう。
教授は怒りを飲み込み、言い方を変えた。
「いいか、もう魔力を流すな。
魔力を止めれば装置が戻してくれる。
――止めろ!!」
学生の目が揺れる。
揺れて、揺れて、揺れて。
学生は唇を動かす。
何か言おうとする。
でも声が出ない。
学生の中で何かが折れかけている。
分からない。教授の言っている言葉が理解できない。
怖い。
止めたら、どうなる。
止めたら、教授が。
止めたら、自分が。
私は見ていられなかった。
隔絶室の外側で、学生たちが騒ぎ始める。
「仕切りさえ発動すれば……安全なんじゃ……」
「教授、あれ……」
「どうするんだ……」
誰かが助けを呼ぼうとする。
しかしここは王立大学の奥深く。そして地下室だ。
私は、装置の刻印の光を見た。
光は、冷静だった。
人間の焦りを、誤差として捨てている。
――その冷静さが、怖い。
私の胸の奥で、昨日の結論が勝手に形を持つ。
この国は、人を変数で見る。
この国は、未来を選ばせない。
この国は、判断を封じる。
そして今。
装置が判断している。
「最も生命維持条件を満たしやすい方」へ優先を移す。
教授が切り捨てられる。
切り捨てられるのに、誰も悪意を持っていない。
それが、いちばん恐ろしい。
教授は耐えている。
耐えているが、顔が赤い。
息が苦しい。
汗が蒸発し、白衣の袖が肌に張り付いている。
――時間の問題だった。
学生側は装置が整え始め、少しだけ安定する。
その安定が、学生をさらに混乱させる。
今、止めればいいのか。
止めない方がいいのか。
自分が止めたせいでまた傾くのではないか。
自分が止めた瞬間、装置が教授側へ戻るのか。
戻らないのか。
分からない。
分からない、が、止まれない。
学生は、泣きそうな顔で魔力を流し続けた。
教授の声が、かすれる。
「……止め……ろ……」
私は、指先が冷たくなるのを感じた。
今ここで、私が動かなければ――。
でも、動けば私は「見られる」。
装置の仕組みを理解する者として。
第三層へ触れる者として。
国家の監視網へ引っかかる者として。
私は昨日、誓った。
これ以上マグナレオールに知られたくない、と。
でも。
目の前で人が死ぬ。
教授が死ぬ。
学生が壊れる。
私は、選べないはずだった。
選べないのに、私の中の何かが静かに言った。
――選べ。
判断しろ。
私は、息を吸った。
世界が、息を止めた気がした。
そして私は、一歩だけ前へ出た。
手を伸ばす。
装置ではない。
隔絶室でもない。
その“境界”へ。
私は、心の中で言葉を結ぶ。
助ける。
二人とも。
今この瞬間、ここで。
ブックマーク、評価、コメント、お待ちしてます。
夜の現在地、という名前でXも更新しています。
作中では触れない設定をつぶやいたりもしていくので、もし良ければフォローお願いいたします。




