欠落した歴史
“正しさ”の形を見誤ってはいけない。
――ヴェルナは、いつもそういう言い方をした。
正しさは一つじゃない。
国には国の正しさがある。
人には人の正しさがある。
そして、それは往々にして――互いに噛み合わない。
私は、その教えが好きだった。
外交官補佐として動いている時、あの言葉は何度も私を救ったから。
けれど今は。
その教えが、私の中で別の形に変わり始めているのを感じる。
下層。
時間のズレ。
監視網。
排除された人間の存在。
私は、何かの入口に立っている。
だから、私は決めた。
“過去”から辿る。
下層の構造を理解するには、制度や地理より先に、歴史を知らなければいけない。
この国がいつからこうなったのか。
何を恐れて、どこまで徹底しているのか。
――知ることから始める。
それは、私の癖だ。
恐怖で息が浅くなる前に、情報で骨格を作る。
骨格ができれば、怖さは輪郭を持つ。
輪郭があれば、対処できる。
*
王立大学の図書館は、いつも通りの静けさを保っていた。
背の高い書架。
磨かれた床。
紙の匂い。
そして、整列した分類札。
私は“奥”へは行かなかった。
セレストのいる区画へ向かう前に、まずは一般閲覧の棚から確認するために。
――歴史。
王国史。
マグナレオール建国史。
大陸史。
魔法史。
技術史。
思想史。
頭の中で必要なカテゴリを並べ、棚を見上げる。
……ない。
正確には、“棚が用意されていない”。
歴史の棚がほんどなく、そして薄い。
薄すぎる。
例えば政治学や法学、魔法工学は、書架が二列三列と続いている。
同じ分厚い背表紙がずらりと並び、同じテーマが何冊も視点を変えて語られている。
なのに、歴史は。
数えるほどしかない。
私は指先で背表紙をなぞりながら、一冊、二冊と引き抜いた。
紙質が違う。
装丁が違う。
――他の本たちと、時代が違う。
全て、一様に古いのだ。
これは、“失われた”というより。
最初から、増やしていない。
ぞわりと背中を冷たいものが走った。
物事には必ず、意図がある。
歴史というのは、作ろうと思えばいくらでも作れる。
勝者の歴史でも、敗者の歴史でも。
英雄譚でも、年表でも、俗話でも。
国が国として存在するなら、必ず“語り”が生まれるはずだ。
なのに、語りがほとんど存在しない。
――偶然じゃない。
私は棚からいくつかの本を抱え、閲覧席へ移動した。
ページを開く。
王国史は、驚くほど淡々としていた。
事実だけが並ぶ。
そこに「なぜ」がない。
「どうしてそうなったのか」の説明がない。
大陸史は、さらに薄い。
国名が羅列されるだけ。
国と国の摩擦は、ぼかされている。
まるで――“余計な思考”を持たせないようにしている。
私は息を吐き、ページをめくる速度を早めた。
探しているのは、これじゃない。
下層に繋がる“歪み”の根。
監視網が生まれた理由。
時間のズレの起源。
魔法技術がここまで体系化された経緯。
そういうものが、どこかにあるはずだ。
でも、歴史書にはない。
私は、立ち上がった。
視線を巡らせ、分類札を見た。
歴史そのものが少ないなら、歴史を“別の名”で隠している可能性がある。
外交官補佐の時、私は何度もそれを見てきた。
禁忌は「禁忌」と書かれない。
機密は「機密」と名乗らない。
だから私は、方向を変えた。
魔法理論。
世界構造。
思想。
――“歴史の入口”になりうる場所。
背表紙を追う。
題名を拾う。
手に取る。
戻す。
また拾う。
そうして、ようやく二冊の題が目に留まった。
「意思が魔法に与える影響について」
「世界構造と歴史」
この二冊だけが、妙に“過去”の匂いを持っていた。
しかも、棚の奥。
目立たない場所に、まるで隠すように紛れ込んでいる。
私は二冊を抱え、閲覧席に戻った。
*
一冊目。
「意思が魔法に与える影響について」
開いた瞬間、私は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
内容は、思ったより整っていた。
理論の書き方が、古い。
けれど、筋が良い。
そして――読者に向けた導入が、妙に丁寧だった。
魔法には三つの層がある。
そう、書かれていた。
第一層――感知。
魔法的現象を“感じ取る”段階。
流れ。圧。温度の揺らぎ。違和感。可能性の偏り。
ほぼ全人類が持っているが、無自覚なことが多い。
直感や勘として処理される。
私は、ページをめくりながら思った。
……これ、知ってる。
マグナレオールに来たばかりの頃に、授業で教授が口にしていた内容そのままだった。
危険な道を避ける。
嫌な予感がして立ち止まる。
場の空気が変わる前に気づく。
私はそれを「考えが早いだけ」と処理してきた。
でも、文字にされると認識するしかない。
私は“感知”が鋭い。
次。
第二層――構築。
魔法を“形”として再現する段階。
魔法構文。
水晶媒体。
魔法陣。
数式。
記号言語。
制御器具。
個人差を排除し、誰が使っても同じ結果が出るようにする。
再現性、安全性、管理性。
魔法の工業化。技術化。
生活を支える魔法。
私は息を吐いた。
これも、知ってる。
ここはマグナレオールが体系化した領域。
留学生である私でも、用意された範囲内でなら問題なく扱える。
建築補助、環境制御、回復補助、記録・転写、移動補助。
私は、この第二層を学びに来たのだ。
学べば学ぶほど、“魔法は技術になる”と実感してきた。
そして。
ページの端に、三層目の見出しがあった。
第三層――判断。
魔法が及ぼす結果を“選ぶ”段階。
どの未来を採用するか。
どの結果を起こすか。
何を起こさないか。
私は、目を細めた。
――ここだ。
私が探していたものの匂いがする。
心臓が少し速くなる。
指先が、紙の端を強く押した。
ページをめくる。
……黒い。
黒い、というより、破られている。
欠損している。
ところどころ、乱暴に裂かれた痕がある。
インクで塗り潰したような痕ではない。
物理的に、消している。
私は、ページを前後にめくった。
同じ場所が、同じように失われている。
第三層に入った瞬間から、文章が途切れ、説明が飛び、結論だけが残る。
そして、その結論も途中で切られている。
老朽化でもない。
事故でもない。
保存状態は良い。
第一層と第二層のページは綺麗だ。
第三層の部分だけが、狙い撃ちされている。
私は、喉が鳴るのを感じた。
ここまで露骨にやる理由は、ひとつだ。
知られたくない。
魔法の基礎構造、第三層――判断。
魔法が及ぼす結果を選ぶ。
その方法、実例。
そして、そこに付随する“過去“の断片。
本来なら、そういうものが載っていたはずだ。
“知ってしまう”ということの重さ。
第三層は、その重さが桁違いだ。
魔法を、ただの技術ではなく――
絶対的な力へ変えてしまう真髄。
だから、消した。
誰が?何のために?
私の背中に、冷たい汗が浮いた。
二冊目へ行く前に、私は一度目を閉じた。
落ち着け。
結論を急ぐな。
でも、もう遅い。
私の中の“感知”が、警鐘を鳴らしている。
*
二冊目。
「世界構造と歴史」
これは、さらに不気味だった。
内容が、ない。
正確には、文章はある。
例え話もある。
世界はこういう状態になっている、という比喩もある。
けれど、核心がない。
世界がどう成り立ったか。
過去に何があったか。
どこで何が変わったか。
それらが、すべて“ぼんやり”している。
輪郭だけ。
色がない。
温度がない。
……まるで、子どもに向けた絵本だ。
私はページをめくるたび、苛立ちに近い感覚を覚えた。
こんなものが、学術書の棚に置かれている理由がわからない。
書いてあるのは、「世界は広い」「人は様々だ」「歴史は積み重なる」という、当たり前のことだけ。
当たり前のことだけを、当たり前の言葉で、当たり前の順番で語っている。
削った結果、当たり前だけが残った。
私は手のひらで額を押さえた。
ここまでくると、もう「たまたま」では説明できない。
歴史が無いのではない。
歴史を“語らない”のだ。
語らない理由が、ある。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
……一体、何をそこまで恐れてるの?
過去に、何があった?
答えは、出ない。
でも、事実だけは突きつけられている。
この国は、国家規模で「意図的に」歴史を消している。
特に、魔法の第三層に触れる領域を。
私は二冊を閉じ、重ねて机に置いた。
紙が擦れる音が、やけに大きく聞こえた。
その時。
背後に、気配が立った。
*
「……読み終わりましたか」
声は、いつもより静かだった。
温度もない。
私は振り返った。
セレストが立っていた。
白手袋。
すっと伸びた背筋。
眼鏡の奥の目が、静かにこちらを見ている。
私は、ほっとしてしまった自分に気づいて、すぐにその感情を押し込めた。
……信じたい。
私が今、一番欲しいのは“味方”だ。
シグはいる。マレイアもいる。
でもセレストは、別だ。
彼女は、知の境界に立っている。
そして、私に一度だけ――曖昧さを捨てて“監視網”を明言した。
あれは、警告だった。
同時に、庇護でもあった。
だから私は、彼女を敵だと思いたくない。
「……セレスト。どうしたの?」
いつも通り。そう見えるように。
セレストは答えない。
二冊を見下ろし、それから私を見る。
「よく、見つけましたね」
褒めているのか、セレストの感情が全く分からない言い方。
「うん……これね。歴史の本を、探してたんだけど。
あまりにも……少なすぎる」
私は、言葉を続けた。
「消されたんじゃない。最初から、ほとんど作られていないように見える。
それって、不自然だよね?セレストもそう思ってるんでしょ?」
外交官補佐だった頃の私なら、もっと滑らかに言えた。
でも、今は違う。
私は学生で。
留学生で。
この国の“外”の人間で。
セレストは、ほんのわずかに目を細めた。
それは、ため息の代わりに見えた。
「不自然だと思うのは、あなたが“外“を知っているからです」
淡々とした声。
私は、その返しに胸の奥が痛んだ。
責められているわけじゃない。
でも、線を引かれた。
私は頭を振って、嫌な予感を振り払う。
「非公開には存在するの? 奥の区画に」
私は視線を逸らさず、食い下がった。
そうしないと、ここで終わってしまう。
セレストは、答えない。
答えないまま、少しだけ近づいた。
視線が、私の胸元をかすめる。
一瞬だけ。
反射のように。
私はその視線の意味を掴みきれないまま、喉が乾くのを感じた。
「セレスト。お願い。私は――」
「あなたは、この国の人間ではありません」
言葉は、短かった。
切り落とすようだった。
息ができなくなった気がした。
冷たい。
今までのセレストは、冷たいふりをしていた。
でも、今のそれは“冷たい”そのものだった。
「……それが、何の関係があるの?」
声が、少しだけ揺れた。
私はそれを誤魔化すように背筋を伸ばした。
セレストは私を見たまま、淡々と言った。
「関係はあります」
強く、言い切る。
「あなたは外から来た。だから――」
そこで言葉が一拍止まる。
止まった瞬間に、図書館の静けさが一層濃くなる。
「だから、知ることは許されない」
その言葉は、私の胸の奥に沈んだ。
……何、それ。
理由じゃない。
説明じゃない。
ただの拒絶だ。
そしてそれは、個人の拒絶ではなく、国家の拒絶に聞こえた。
私は、握っていた指先が白くなるのを感じた。
怒りではない。
恐怖でもない。
――絶望に近い。
「セレスト、あなたは……」
言いかけて、私は止まった。
“あなたは味方だと思っていた”
私は代わりに、別の言葉を選んだ。
「この前、話してくれた人。はっきりとは言わなかったけど、でも、その人は真実に近づきすぎて排除されたのよね?」
セレストの瞳が、ほんのわずかに揺れた。
揺れたのに、すぐに戻る。
氷みたいに。
「はい」
「……何が、その人の“罪“だったの?」
私は、祈るように聞いた。
答えが欲しいというより、セレストが人間に戻るきっかけが欲しかった。
でも、セレストは戻らない。
「あなたも、同じことになります」
それは、問いに対する答えではなかった。
脅しのようで、事実のようなもの。
「……私を止めるために言ってるの?」
「止めるために言っています」
即答だった。
そこに迷いがないのが、逆に怖い。
「……私を、守るために?」
私は、最後の希望を言葉にした。
セレストは、一拍だけ間を置いた。
その一拍が、私には永遠みたいに長く感じた。
「守るためです」
そう言ったのに。
次の言葉が、私の心を切り落とした。
「――この国を、守るために」
私は目を見開いた。
「……え?」
セレストは、淡々と続ける。
「あなたが触れれば、この国の秩序が揺れます。
秩序が揺れれば、必ず“処理”が起きます」
“処理”。
「私は――」
セレストが言葉を切る。
「私は、あなたに“判断”をさせたくない」
判断。
セレストもまた、何かを恐れている。
そして――そこへ私が近づくのを、明確に拒絶している。
国を守るため。
秩序を守るため。
つまり。
セレストは国家側だ。
私は喉の奥が震えた。
「……セレスト。私は、あなたを敵だと思いたくない」
やっと、言えた。
それは、弱さだった。
でも、ここだけは弱くてもいいと思った。
セレストは私を見た。
その目は、驚くほど澄んでいた。
そして、澄んでいるからこそ――冷たかった。
「思う思わないは、あなたの自由です」
自由。
その言葉が、皮肉に聞こえた。
「ただ、結果は変わりません」
セレストは、二冊のうち「意思が魔法に与える影響について」を指先で軽く押した。
「その先は、存在しません」
「……存在しない?」
「存在させない」
私は、息を吸った。
吸ったはずなのに、肺が満たされない。
セレストは、もう私を見ていない。
必要なことだけ言って、終わらせるつもりだ。
「あなたは外の人間です」
もう一度、線を引く。
「だから、あなたは“知る”資格がない」
資格。
それは、国が国民に与える言葉だ。
個人が友人に使う言葉じゃない。
私は、言葉を失った。
セレストは踵を返した。
白手袋の指先が、静かに揺れる。
そして去り際、最後に一言だけ落とした。
「……あなたが生き残りたいなら、忘れなさい」
忘れなさい。
それは、命令に聞こえた。
私は椅子に座ったまま、動けなかった。
信じたかった。
疑いたくなかった。
好きだからこそ、敵だと思いたくなかった。
でも。
私の“感知”が、はっきり告げている。
――今のセレストは、国家の匂いがする。
*
歩き慣れたはずの道が、やけに長く感じた。
夕方の空は今日も、綺麗だった。
整いすぎているほど、完璧だった。
それが怖い。
下層の雑多な音。
乱れた生活。
それでも、生きている感じ。
上層は整いすぎている。
整っているというより、整えられている。
誰かの意思で“適切”に固定されている。
私は自室の扉を閉め、背中でそれを支えた。
息を吐いた瞬間、足元が少しふらつく。
……私、何を期待してたんだろう。
セレストが、私のために真実を見せてくれると?
私が外の人間なのに?
甘い。
外交官補佐として働いていた頃の私なら、そんな期待はしない。
なのに今の私は、期待してしまった。
友達だと、思っていた。
期待していたから、傷ついた。
私は机に手をつき、額を押さえた。
情息花が胸元で静かに揺れる。
触れられない花の光が、薄く揺らぐ。
そこに呼吸がある。
距離を越えて、生がある。
なのに私は、ひどく孤独だった。
私は椅子に座り、目を閉じた。
思考を整える。
感情を切り離す。
外交官補佐の頃の自分を、呼び戻す。
事実を並べる。
推理を組み立てる。
結論を出す。
――そうしないと、私はこの国に飲まれる。
私は、紙を取り出した。
書かないと整理できない。
ひとつ、線を引く。
【事実】
・歴史の本は、最初からほとんど作られていない
・魔法の三層構造のうち、第三層“判断”に関する研究は欠損している
・魔法を技術として昇華したことがマグナレオールの真髄である
・世界構造と歴史は、核心が抜け落ちている
・この国には監視網がある
・この国には隔離された“下層“がある
・真実に近づきすぎた者は排除される
・セレストは「外の人間だから知れない」と言った
・セレストは「この国を守るため」と言った
書いて、改めて思う。
――これは、国家が意図的にやっている。
次。
外交官補佐として既に知っていること。
【外交の事実】
・マグナレオールは国交が極端に少ない
・外部との交流は限定的
・魔法技術は世界に浸透していない
・技術流出を嫌う
・他国への牽制が多い
私はペン先を止めた。
……これ、何に見える?
答えは、嫌でも浮かぶ。
優位性の独占。
支配の準備。
他国に渡さない。
外を入れない。
内を固める。
そして――下層。
下層は、上層から切り離されている。
時間がずれている。
完全に同期できない。
情報も、人も、感情も噛み合わない。
檻だ。
閉じ込めている。
私は唇を噛んだ。
……いや。
待って。
私は、シグと一度だけ話した。
“守っている可能性”もある、と。
下層を閉じ込めているのではなく、何かから守っている。
そういう直感の方が正しいかもしれない、と。
でも――。
セレストの言葉が、頭の中で冷たく響く。
「あなたは、この国の人間ではない」
「だから、知ることはできない」
「この国を守るため」
「忘れなさい」
守っている?
誰を?
何から?
私は、その問いを握り潰した。
今の私は、守っているという解釈を選べない。
選べないほど、セレストの冷たさが刺さっている。
私は紙を眺め、結論へと頭を動かす。
マグナレオールは、力を独占している。
歴史を持たせないのは、過去の責任を曖昧にするため。
第三層“判断”を消すのは、それが魔法を極めることに直結するからだ。そしてそれを、マグナレオールの優位性とするため。
下層を切り離すのは、支配のため。
外部との国交を断つのは、力の流出を防ぐため。
以上の事柄。そして、「凶作」の時代。
――準備をしている。来る“決断“に向けて。
そんな馬鹿な、と笑いたい。
でも、笑えない。
歴史が無い。
意図的な情報の削除。
監視網の存在。
排除。
外の人間は、知ることができない。
これらを繋げれば、自然にそこへ行き着く。
だから怖い。
私はふと、ヴェルナの顔を思い出した。
あの落ち着いた声。
柔らかい目。
「正しさは一つじゃない」と言った人。
今の私には、その言葉が怖くて仕方がない。
――マグナレオールには、マグナレオールの正しさがある。
それは、他国を抑え込む正しさ。
情報を握る正しさ。
歴史を消す正しさ。
未来を選ばせない正しさ。
そしてそれは、私の正しさではない。
正しさが違う国は、相容れない。
外交官補佐として何度も見た。
交渉はできても、理解はできない。
線引きはできても、同じ地平には立てない。
私は、息を吐いた。
これは、現実だ。
この国にいる限り、私は――逃げられない。
下層に落ちた時、私は“穴”を恐れた。
でも今は違う。
穴よりも怖いのは、
穴が“意図を持って用意されていた”のではないか、という可能性だ。
私は立ち上がり、窓の外を見た。
完璧な空。
完璧な朝。
完璧な秩序。
それが、私には“鎧”に見えた。
外からの攻撃を防ぐ鎧。
そして同時に、内側を閉じ込める牢。
確かなものがあると、人は安心する。
安心すると、油断する。
この国は、その仕組みを作るのが上手い。
存在する支配を、存在していないように見せる。
私は唇を噛み、心の中で繰り返した。
落ち着け。
崩れるな。
誤魔化すな。
そして、最後に――自分に言い聞かせるための言葉を、胸の奥から引きずり出した。
ヴェルナの教えを、もう一度握り直すために。
“正しさ”の形を見誤ってはいけない。
この国は、何かを恐れている。
それに触れようとする者は──排除されるだろう。
出した結論が、自分の中で固まっていく。
それでも私は、セレストの冷たさが“演技”であってほしいと願ってしまう。
そうでなければ、私はもう、誰も信じられない。
父の声が、ふいに思い出される。
「行くなら、帰ってこい。死ぬな」
私はその言葉を、今さらになって握りしめた。
帰り道が、まだ残っているかも分からないのに。
ブックマーク、評価、コメント、お待ちしてます。
夜の現在地、という名前でXも更新しています。
作中では触れない設定をつぶやいたりもしていくので、もし良ければフォローお願いいたします。




