セレストの独白
情息花は、何も語らない。
首元で静かに揺れながら、ただ静かに呼吸をしている。
触れられないのに、確かに存在しているという事実が私に寄り添っていた。
昨日のことを思い出すたび、胸の奥が少しだけ熱くなる。
それは恋だとか、そういう言葉で片付けてしまうには、まだ早い気がする。
でも、確実に言えるのは。
私はもう、以前の私ではない、ということだった。
だからこそ――
この国の“時間のズレ”が、気になって仕方がなかった。
*
朝。
王立大学の敷地に入ると、空気が変わる。
上層の朝は、いつも同じだ。
鐘の音。人の歩く速さ。会話の音量。
すべてが“適切”な範囲に収まっている。
下層で感じた、あの雑多な生活音を思い出すと、どうしても違和感が拭えなかった。
比較してしまったからだ。
比較できるものが、私の中に生まれてしまった。
私は歩きながら、昨日から頭の奥に引っかかっている感覚を、少しずつ言葉にしていく。
違和感に、向き合って行かなければいけない。
下層に行った時のこと。
上層では、夜だった。
でも、落下して辿り着いた下層は、昼だった。
そして宿を取った。
つまり、下層にも昼夜のサイクルがある。
翌日、下層を出たのは、体感では昼過ぎ。
なのに、上層へ戻った時、空はもう夜に近かった。
――時間が合わない。
最初は、感覚の問題だと思った。
落下という非日常のせいで、体内時計が狂ったのだと。
でも、それにしては――ずれ方が、あまりにも大きい。
わからない。
意図的なのか、そうなってしまったのか。
私は歩きながら、思考を組み立てる。
もし、下層と上層の時間が“完全に一致していない”としたら?
同じ昼夜を持っているように見せかけて、実際には、進み方が違う。
わずかに。
でも確実に。
それは何のため?
答えは、ひとつしか思いつかなかった。
――独立させるため。
下層を、上層から。
時間がずれていれば、完全な同期は起きない。
人の流れも、情報も、感情も、噛み合わなくなる。
逃げられない空間を作るには、壁はいらない。
時間をずらせばいい。それは想像よりもずっと、大きな障壁となる。
閉じ込めるなら、壁だけが手段とは限らない。
私は、無意識に首元の情息花へ指を伸ばしかけて、止めた。
触れられない花。
でも、確かにそこにある。
この国は、そういう“存在”を作るのが、あまりにも上手い。
――これで一つ目の違和感には、仮説を立てた。
まだある。
知らなければ、守れない。
無知は罪ではないが、生き残ることは難しい。
*
図書館の奥は、やはり静かだった。
時間の流れが違う。
――そう感じてしまうほどに。
足音が吸われ、声が遠ざかり、紙の擦れる音だけが残る。
ここは王立大学の中でも、資料を扱う人間だけが行き来する区画だった。
背の高い書架。
古文書用の保管箱。
床には魔法陣ではなく、運搬用の補強刻印。
私は、棚と棚の間を抜け、あの場所へ向かった。
セレストがいる場所。
彼女は、今日も帳簿を整理していた。
白手袋。無駄のない動き。視線は文字から離れない。
「……セレスト」
声をかけると、彼女はすぐに反応した。
振り向かない。ただ、ペン先だけが止まる。
「どうしました、リラ」
温度のない声。
でも、拒絶でもない。
私は一歩だけ距離を詰める。
少しでも、声が外へ漏れにくい場所へ。
「少し、聞きたいことがあって」
「内容によります」
その返しは、いつも通りだった。
「……ここに来てから、考えが途中で止まることが増えたように感じる」
まだ、断定はしない。
セレストは、ようやくこちらを見た。
眼鏡の奥の目が、わずかに細くなる。
「例えば?」
「言葉を選ばされている感じ。
選ばないと、どこかで引っかかる」
一拍。
彼女は帳簿を閉じ、棚に戻した。
その動作が、いつもより少しだけ遅い。
「……それは」
否定はされなかった。
「賢明な感覚だと思います」
肯定でもなかった。
「賢明な感覚……か」
「ええ」
「あのね、セレスト。……下層に、行ってきたよ」
「知ってしまったのですね」
私は、すぐには返さなかった。
セレストの言葉が、何を指しているのか――分かっていたから。
「……“知る”にも、いろいろあるわ」
視線を逸らさず、静かに続ける。
「何を、知ったと?」
セレストは、帳簿を閉じ、棚に戻した。
その動作が、いつもよりほんの少しだけ遅い。
「“監視されている”という事実を」
セレストは、初めて曖昧さを捨てた。
それは――ここまで来てしまった以上、否定はしない。という覚悟で。
「この国には、魔法監視網があります」
「発言、行動、魔力の使用。
すべてが、一定の精度で記録される仕組みです」
「……思考は?」
「完全ではありません。
ですが、思考が“行動や発言に近づいた瞬間”は、検知されます」
私は息を吐いた。
「だから、考えが途中で止まる感覚があった」
「ええ。それはあなたの防御本能から来たものでしょう」
セレストは否定しない。
「気づいていない人間ほど、無自覚に縛られます。
気づいた人間は――」
「……?」
「選べるようになる」
シグも言っていた。
“気づくことが、トリガーになる――“
「ただし」
セレストは続ける。
「選べる人間は、同時に“危険な存在”になります」
「セレストがそれを知ってるのは、過去に例があるから?」
私がそう言うと、彼女の視線が一瞬だけ揺れた。
「……ええ」
「優秀な人でした。
理解しようとしすぎた」
それ以上の言葉は、続かなかった。
「どうなったの」
セレストは答えない。
代わりに、保管箱の番号を指でなぞる。
「記録には、残っています」
その言葉で、全てが繋がった。
「……じゃあ」
私は慎重に続ける。
「今まで、セレストが“ちょうどいいタイミング”で止めてくれたのは」
「偶然ではありません」
静かな断言。
「ただ、私が判断を下しているわけではないです」
「え?」
「判断材料を、整理しているだけ」
彼女は棚の一つから薄い箱を取り出した。
――その動きが、ほんの一瞬だけ遅れる。
視線が、私の胸元をかすめた。
意識して見た、というよりも、反射に近い。
次の瞬間には、何事もなかったかのように目を伏せている。
だが、彼女の目の奥が揺れたことを、私は見逃さなかった。
中身は見えない。
「……知は、積み上げるものです。
秩序立てて、保存するもの」
その声は静かだった。
だが、箱を支える指に、わずかな力がこもっている。
「――使うものじゃない」
その言葉は、信念のように感じた。
譲らない、という意思。
「知を使って、誰かの未来を決める行為は」
一瞬、言葉が途切れる。
ほんの一瞬だったが、空気が張りつめた。
「……私は、それを“知の冒涜”だと思っています」
それは、怒りか。恐れか。
セレストは箱を棚に戻し、扉を閉めた。
閉める音が、やけに大きく響く。
「だから」
振り返らずに言った。
「私は、越えません。
越えないように、止めるだけです」
「……私も?」
思わず、声が零れた。
セレストは、そこで初めてこちらを見た。
ほんの少しだけ、表情が緩む。
その目は、“まだ引き返せる”と言っているように見えた。
「あなたは、まだ対象です」
「だからこそ、考えすぎないでください。
疑問を持つこと自体が、ここでは“記録”になります」
警告だった。
同時に――庇護でもあった。
私は、静かに頷いた。
*
図書館を出た後、私はしばらく歩いた。
頭の中で、点が線になっていく。
時間のズレ。
監視網。
下層の独立性。
全部、同じ方向を向いている。
マグナレオールは、自由を奪わない。
でも、自由を選ばせない。
そのために――
時間すら、設計している。
下層は、世界から切り離された空間。
でも、閉じ込めているわけじゃない。
“ここが世界だ”と思わせている。
それが、最も完成した形の支配。
私は、空を見上げた。
上層の空は、今日も完璧だった。
でも、もう騙されない。
――やっと、少しずつ見えてきた。
この国の違和感の輪郭が。
でも、下層が謎のすべてじゃない。
父が言っていた。
私とルシアの家は、守り手だったと。
そして、その秘密の多くが、マグナレオールに眠っている、と。
きっと、これはまだ――
もっと大きな秘密の、氷山の一角にすぎない。
*
図書館の奥が、再び静寂を取り戻した。
足音は消え、書架の影だけが残る。
リラが去った後は、いつもこうだ。
理解を始めた者が立ち去った場所には、独特の余熱が残る。
思考の痕跡。
問いの残響。
そして、それを嗅ぎ取ろうとする“仕組み”の微細な振動。
私は、白手袋を外さぬまま棚の前に立っていた。
――やはり、早い。
私は、彼女――リラを、評価していた。
聡明で、慎重で、臆病だった。
でも、今は。
彼女は、まだ踏み込んでいない。
だが、境界の存在そのものには、ほぼ辿り着いているだろう。
魔法監視網。
下層の歪さ、意図的な設計。
いずれも、表層の現象にすぎない。
“観測できる異常”だ。
そこから彼女が導く仮説。
――時間をずらすことで、空間を閉じる。
物理的な壁ではなく、
認識と同期を断ち切る構造。
逃げ場のない隔離。
そこまで考えられているだろう。
あの思考速度なら、自然な帰結だ。
だが。
まだ、届いていない。届くはずがない。
下層に満ちている、膜。
構造でも制度でもないもの。
――共通意識。
あの場所に暮らす人々が、言葉にせず共有している感覚。
“贖罪“
それが何に対するものか。
なぜ必要なのか。
誰が課したのか。
その答えは、まだ遠い。
だからこそ、危うい。
私は棚の一つから、古い帳簿を抜き取った。
革張り。年季の入った背表紙。
分類:理論魔導・思考干渉
状態:処理済
ページは開かない。
中身を見る必要はない。
内容は、知っている。
――理解しようとしすぎた人だった。
知性があり、誠実で、問いを恐れなかった。
そして何より、“知ること”を善だと信じていた。
警告は、した。
境界も、示した。
それでも――止まらなかった。
結果は、記録の通りだ。
名は伏せられ、痕跡は整理され、存在は「処理」された。
指が、帳簿の背にわずかに食い込む。
怒り、後悔。
それよりも、ただ、恐れた。
もし、あの時。
自分も一緒に踏み込んでいたら。
もし、知を“使って”止めていたら。
今でも隣で、笑っていてくれたのだろうか。
――答えは、何度考えても同じだ。
だから、越えない。
だから、使わない。
だから、止める。
知を守るために。
そして、知によってまた誰かを失う自分にならないために。
私は、静かに息を吐いた。
リラは、まだ対象だ。
制度上も。
記録上も。
そして――猶予の範囲内にいる。
だから、まだ警告はしないつもりだった。
だがその意志は、彼女の胸元に光る情息花によって大きく揺らいだ。
呼吸を共有する魔導具。
距離を越えて、生を“感じる”仕組み。
あれは、美しい。
同時に、致命的に危険だ。
なぜなら――
生を感じるということは、終わりを引き受けるということだから。
だからこそ、私は異例の言葉を使った。
曖昧さを捨て、遠回しをやめた。
制度のためではない。
秩序のためでもない。
――個人的な恐れに、近いもの。
自分の胸元にそっと触れる。
今、そこには何もない。
書架の影から一歩踏み出し、奥の扉へ向かう。
鍵はすでに解錠されていた。
この時間。
この経路。
この沈黙。
すべて、許可された動き。
――ここから先は、思考を切り替えなければいけない。
私は、扉の前に立った。
扉は分厚い白木で、取っ手に小さな水晶が埋め込まれている。
それに触れた瞬間、微かに温度を返した。
まるで「誰が来たか」を覚えているみたいに。
報告は必要だ。
リラがどこまで見えているか。
どこまで触れてしまったか。
そして――
まだ、引き返せるかどうか。
部屋に入る直前、私は一瞬だけ窓の外を見た。
完璧に整えられた空。
疑う余地のない秩序。
だからこそ、この国は危険なのだ。
背を向け、扉を閉める。
私は、誰も裏切らない。
同時に、誰の味方でもない。
ただ一つの肩書きが、それを許している。
――王立大学・高等魔法技術研究所
記録管理責任者補佐
知を使わないために。
越えさせないために。
今日もまた、境界に立つ。
それが、セレストの選んだ道だった。
ブックマーク、評価、コメント、お待ちしてます。
夜の現在地、という名前でXも更新しています。
作中では触れない設定をつぶやいたりもしていくので、もし良ければフォローお願いいたします。




