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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
“眠る王国“マグナレオール
24/53

比較と観測


 ――下層の人々は、ここが世界のすべてだと思っている。


 リラも恐らく、同じ結論に到達したのだろう。


 空は遠い。薄い。雲の流れはあるのに、遠景が微動だにしない。

 風は吹くのに、ずっと一定の温度を持つ。匂いはあるのに、揺らぎがない。


 作られた世界だ。

 なのに――人は満ちている。

 笑い声があり、生活があり、怒鳴り声すらある。ここには生活がある。


 完成している。それが最悪だった。


 破綻があれば疑える。

 貧しさがあれば怒れる。

 恐怖があれば抵抗できる。


 だがここは、生活として成立している。

 成立しているから、疑う理由がない。

 疑う理由がないから、疑う発想がない。


 発想がないから――世界の外側が存在しない。


 僕は噴水の縁に座ったまま、視線を下に落とした。

 水面の揺れが正しすぎる。偶然ではなく、規則の揺れだ。

 規則は美しい。だから人は安心する。


 安心は、枷になる。


 隣でリラが息を吐いた。


 彼女は――理解しようとする。

 この国の仕組みに、理解で触れようとする。


 その性質が危険だ。


 危険なのに、目が離せない。

 危険なのに、一緒に歩みたくなる。


 僕は自分の中のその衝動を、噛み潰した。


「……今日は、ここまでにしよう」


 僕が言うと、リラはゆっくりこちらを見た。


「え、もう?」


「情報が足りない。歩き回っても、同じものしか見えない気がする。……それに」


「それに?」


 言葉を選ぶ。


「……これ以上、観測を増やすと、君の方が耐えられない」


 リラは一瞬きょとんとして、それから笑った。


「何それ。理性の限界ってこと?」


「そう。理性の限界」


「じゃあ、宿を探さなきゃね。お腹も空いた」


「そうしよう」


 立ち上がる。

 足音が石畳に落ちる。

 下層の街は、音がちゃんと返ってくる。上層みたいに吸われない。


 音があるだけで、人間は安心する。

 生きている感覚が残るからだ。


 街を歩く。

 露店が並び、果実の匂いが混ざる。焼き物の焦げた香り。人の汗。


 それもまた、完成の一部に見えた。


 宿屋を見つけたのは、海へ向かう坂道の途中だった。

 石造りの小さな建物。入口の扉は擦れている。看板の文字は手書きだ。


 魔法で整えられていない。

 その不揃いが、逆に僕の胸を少し軽くした。


 中に入ると、古い木の匂いがした。湿気と、染み付いた煙草と、煮込みの匂い。

 主人は年配の男で、目が鋭い。だが敵意ではない。生活者の目だ。


「部屋は?」


「二つ」


 僕が言いかけた時、主人が確認するように言った。


「別々にするのか?」


 リラが振り向いた。

 その表情は疑問――ではなく、さっき落ちた人間がようやく掴んだ“反撃の権利”を思い出した顔だった。


「え。二部屋?」


 声は軽い。軽すぎる。

 意味が分からないふりじゃない。分かったうえで、わざと“そう聞こえる言い方”を選んでいる。


 僕は顔色を変えずに答えた。


「当然だよ」


 リラは口の端を上げた。

 勝ち誇る、というより――“落下の仕返し”を今ここで返せることが嬉しい、という表情。


「ふーん。そっちがそういう判断なんだ」


「何だ、その言い方は」


「別に?」


 別に、の語尾が少しだけ上がる。

 からかっている。

 そして――主人にも分かる程度に、ちょうどいい“誤解”を残している。


 僕は淡々と鍵を受け取り、話題を切り替えた。


「明日は大学が休みだろう。時間がある。……もう一日だけ、下層を歩こう」


「そっか。じゃあ、明日もいけるね」


「うん」


「……じゃあ今日の夜は、しっかり休まないと」


「そういうことだ」


 階段を上がる。木が軋む。

 上層の階段は静かすぎる。足音の気配すら消える。

 ここは違う。音がある。傷がある。人が住んでいる。


 部屋は狭い。寝台が一つ。机が一つ。窓が一つ。

 窓の外には、下層の空が見える。遠く、薄く、均一で、――それでも空だ。


 僕は荷物を置き、短く息を吐いた。


 不思議な焦燥が、胸の奥に残っている。

 街に入る前、じゃない。もっと前からだ。

 リラと下層に向けて動き始めた瞬間から、ずっと。


 何かが近い。

 見えない何かが、壁の向こうで呼吸している。


 僕はそれを“勘”と呼びたくなかった。

 勘は、ただの感情にされるからだ。


 僕は“比較”と呼ぶ。


 前回の下層と、今回の下層。

 同じ道、同じ匂い、同じ空。

 それでも、何かが違う。


 違いがある。

 違いがあるなら、原因がある。


 そして原因は――リラだ。


 自分の思考がそこへ向かうたび、僕は一度それを引き戻す。

 断定は危険だ。断定した瞬間、動きが決まる。決まった動きは、監視に拾われる。


 下層での情報は、まだ足りない。


 僕がそう自分に言い聞かせていると、扉が小さく叩かれた。


「そろそろ行こ!お腹すいた」


 リラの声。


「今行く」


 食堂へ降りる。


 暖かい。火の熱。人の息。食べ物の匂い。

 料理が運ばれてきた瞬間、僕はほっとした。魔法の臭いがしない。食材の匂いだ。


 リラも同じことを感じたらしい。

 彼女は椅子に座るなり、皿を覗き込み、目を少し細めた。


「……これ、ちゃんと“料理”だ」


「料理以外に何がある」


「上層の食事より……あたたかい気がする」


 彼女はスープを一口飲んだ。

 眉がほどける。


「……美味しい。落ち着く味」


「よかった」


 僕も口に運ぶ。塩味が少し強い。香草の匂い。焦げの匂いが微かに混じる。


 不揃いで、完璧ではない。それに無償に安心する。


 完璧が続くと、人は“自分の意思”を手放す。

 完璧に合わせることが、正解になるからだ。


 上層は、そういう国だ。

 下層も、そうなのかもしれない。


 ――なのに、料理は不揃い。


 なぜ?


 疑問が湧いた瞬間、リラが唐突に言った。


「ねえ、シグ」


「ん?」


「ラグナではさ、ずっと敬語だったのに。今は違うよね」


 スプーンを持つ手が、一瞬止まる。

 胸の奥が、妙に熱くなる。


 動揺は見せない。

 動揺を見せた瞬間、彼女は“観測”する。彼女の観測は鋭い。


「必要がないからだよ」


「必要がない?」


「礼儀としての距離が必要な場面がある。ラグナは、そうだった」


 理屈は正しい。

 だがそれは、理由の半分。


 リラはにやりと笑った。

 僕が“正しい言葉”で逃げる時があると、彼女はもう知っている。


「ふーん。じゃあ、今は距離が必要ないんだ」


「……そう」


「そっかぁ」


 僕はパンをちぎって口に運ぶ。わざと視線を落とす。


「ねえ、シグ」


「……なに」


「あのさ」


 彼女は目を細めた。


「なんで、距離を縮めようとしてるの?」


 鋭く、危ない。

 言葉が危ない。意味が危ない。


 僕は声の温度を落として返す。


「縮めようとしている、という前提が間違いだ」


「嘘。さっき“必要ない”って言った」


「必要がないのと、縮めようとしているのは別」


 言い訳に聞こえる。

 自分でも分かる。


 リラは一瞬驚いた顔をしてから、笑った。


「でた。論理の盾」


「盾は大事だ」


「ふーん」


 彼女はスープをもう一口飲み、わざとらしく息を吐く。


「じゃあさ。敬語じゃないシグ、ちょっと可愛い」


 僕は咳き込みかけた。

 危うくスープを噴き出すところだった。


「……今のは、冗談だよな?」


「どうでしょう」


「やめろ」


「嫌」


 僕は自分の中の冷静さを、指輪をなぞる動作で固定した。

 癖だ。判断の前に、思考を一点に集める。


 リラがその動きを見て、また笑う。


「いま、癖が出たね」


「……リラ。明日も早い」


「敬語じゃないシグ、やっぱり可愛い」


「もう黙ってくれ」


「うん。黙る」


 黙らない目だ。


 僕はわざと冷たい声を作った。


「食事に集中しよう。君はすぐ余計な観測を増やす」


「だって、面白いんだもん」


 彼女は勝ち誇ったように笑う。

 僕は視線を逸らし、皿の肉を切った。


 この会話は危険だ。

 危険なのに、息がしやすい。


 下層の料理とリラの言葉が、僕の中の硬さを少しだけ緩める。


 食事を終え、廊下で別れる時、リラが扉の前で立ち止まった。


「ねえ、シグ」


「……どうした」


「ほんとに別部屋なの?」


 その問いに含まれている意図を、僕は測る。

 彼女はからかっている。だが半分は試している。距離を。


「当然だ」


「……ふーん」


「何か不満が?」


「別に?」


 また別にだ。


 僕は鍵を回しながら言った。


「明日は早い。寝坊しないように」


「命令?」


「助言だ」


「助言なら聞くわ」


 リラは満足げに頷き、自分の部屋へ入った。

 扉が閉まる。


 静寂。


 僕は息を吐き、額を指で押さえた。


 ――危ない。


 彼女は気づいていない。

 気づかせる気もない。


 だが僕の方が揺れる。


 この国は監視国家だ。

 感情すら観測される。


 僕は寝台に座り、紙とペンを取り出した。

 眠れない時、僕は書く。書いて思考を整理する。揺れを削る。


 下層の存在理由。

 重力反転。

 人工の空。

 生活の自然さ。

 完璧すぎる秩序。


 そして――人々の無邪気さ。


 恐れがないのではない。

 恐れの“使い方”が変わっている。


 魔法を恐れていない。

 だが魔法を持とうとしない。


 “危険だから専門家に任せる”

 “高度魔法は文化ではない”

 “持たない方が安全”

 “知らない方が平和”


 そういう価値観が、空気として染みている。


 それは教育で刷り込める。

 刷り込んだ結果、民衆は自分の檻を自分で守る。


 最も完成した支配だ。


 僕はペン先を止めた。


 ――明日、下層の核心に触れる。


 そう確信した。


 *


 翌朝。


 宿の食堂で簡単な朝食を取り、僕らは街へ出た。

 昨日より視線が増えた気がする。気のせいかもしれない。


 リラは昨日の疲れが少し抜けたらしい。歩き方が軽い。

 ただ、空を見上げる回数が増えている。


 彼女はもう気付いている。

 この世界が揺らぎを持たないことを。


「今日は、どうするの?」


「情報を集める。昨日は景色を見た。今日は――人を観測する」


「観測、ね」


 彼女は口の端を上げる。


「シグ、そういう言葉好きだよね」


「必要だからね」


 僕らは市場へ向かう。

 露店が並び、生活が溢れる。


 そして混ざるように、古い石柱が立っている。

 崩れた壁の残骸が、店の背後にそのまま残っている。

 遺跡と生活区画が自然に混在している。


 僕は石柱の表面に触れた。

 削れた紋様。古代語ではない。もっと古い、文字以前の刻み。

 触れた瞬間、指先が微かに痺れた。


 リラが覗き込む。


「これ、何だろう?」


「分からない。だが……造られた世界に必要なのか?それに、隠していない」


「うん。普通に置いてある」


 隠していない。

 撤去もしていない。


 生活に溶け込ませることで、危険性を中和している。

 危険は“当たり前”になると、危険ではなくなる。


 僕は周囲の大人を観測した。

 誰も気にしていない。


 僕らは露店の店主に声をかけた。

 中年の男。笑顔。よく日に焼けた腕。


「少し聞いても良いだろうか」


「何だい?」


「この辺りの遺跡は、いつからある?」


 男は肩をすくめた。


「いつからって……ずっとだろ。子どもの頃から」


「撤去しないのか?」


「何で撤去するんだ? 邪魔なら避けて歩く。それでいいだろ」


 邪魔なら避ける。

 それでいい。


 “それでいい”が、この国の合言葉だ。


 僕はさらに問う。


「もし、世界が想像より大きかったら。君は行くか?」


 男は笑った。


「この世界より? 想像もつかないな。好奇心で見るかもしれないが、行くことはない」


「行きたいと思わない?」


「思わないなあ。ここで十分だ」


 昨日の果実売りと同じ答え。

 違う人間が同じ結論を持っている。


 共通意識だ。

 内容は違っても、方向性が揃っている。


 リラが横から、慎重に言った。


「……外に出ないんですか?」


 男は不思議そうな顔をする。


「外?さっきから変な事を言う。ここが外だろ」


 リラは言葉を飲み込んだ。

 飲み込んだ判断は正しい。

 相手の前提を、安易に揺らすのは危険だ。


 前提を揺らす人間は、“危険思想の入り口”になるだろう。


 僕は礼を言って去った。


 歩きながら、リラが小声で言う。


「ねえ……」


「今は、言うな」


「……うん」


 彼女は察した。

 言葉にしない方がいいと。


 僕らは海沿いへ向かった。

 途中、石畳の道が緩やかに下り、潮の匂いが濃くなる。


 海は本物だろうか。

 再現であっても、この匂いの再現は過剰なほどだ。


 自然に感じるように作られている。


 海沿いの道に出た時、リラが立ち止まった。


「……綺麗」


 素直な声。

 彼女は恐れながらも、綺麗と言える。


「ねえ、シグ。昨日の店主が言ってた」


 リラは足元の小石を蹴りながら言った。


「ここで生まれて、ここで暮らして、ここで死ぬ。それで十分だって言葉」


「そう、言ってたね」


「……あれ、怖い」


 彼女は小さく言った。


「怖いのに、優しいんだよね」


「そうだね」


「閉じ込めてるわけじゃない。殴ってない。脅してない。……それなのに、ここから出る発想がない」


 彼女は言葉を切る。

 口にすると危ないからだ。


「仕組みだ」


 リラが僕を見る。


「仕組み?」


「暴力ではなく、仕組みで人を動かす。……この国は、そのための国だろう」


 言った瞬間、僕は少しだけ後悔した。

 仕組みという言葉は、国家の核心に触れる。


 だがリラはその言葉を飲み込み、声を落とした。


「仕組み……」


 海風に溶けるような声。


 僕は歩調を速めた。


「行こう」


「うん」


 海沿いの街は別の顔をしている。

 潮風に晒された石壁。網を干す木枠。魚の匂い。笑い声。


 そして、目的の建物が見えた。


 海沿いの教会。


 下層のシンボル。

 誰もが集まり、ただそこに居る場所。

 宗教施設ではない。偶像も椅子も十字架もステンドグラスもない。


 “何もない教会”。


 僕は二度目の訪問になる。


 前回は何も見つけられなかった。

 ただ空間の異様さだけが残った。


 だが今回は違う。

 僕の横に、リラがいる。


 僕らは入口をくぐった。

 中はひんやりしている。潮の匂いが薄まり、石の匂いが濃くなる。


 何もない。

 誰のものでもない。

 誰のものでもないから、誰でも入れる。


 足音が反響する。


 リラは天井を見上げた。

 高い。海沿いなのに朽ちない。石が白いままだ。


「……ここ、変だね」


「ああ」


 僕は壁に手を当て、微弱な魔力を流した。

 反応が鈍い。拒絶ではない。吸い込まれるような抵抗。


 魔法を飲み込む素材。

 古い遺物。旧世界の残骸――その可能性が高い。


 僕はさらに奥へ進もうとした。


 その時。


 リラが立ち止まった。


「……シグ」


「どうした」


「……これ、見て」


 彼女が指差した壁を見た瞬間、僕の視界が凍った。


 壁に――紋章が浮かび上がっている。


 前回は、なかった。


 白い石の表面に薄い光が走る。

 線が絡み合い、円を描き、中心に意匠を結ぶ。


 王家の紋章ではない。

 官僚の印でもない。


 もっと古い、もっと根源的な、何かの記号。


 僕は一歩近づいた。

 光は揺れない。均一に発光している。


 まるで――起動したかのように。


 リラが息を呑む。


「これ……前にもあったの?」


「ない。……なかった」


 断言できる。

 僕はここに来たことがある。

 同じ壁を見た。

 その時、光はなかった。


 だからこれは“今”発生した。


 違いには必ず、原因がある。


 僕の視線が、リラへ向く。


 彼女は壁を見ている。触れようとしていない。魔法も流していない。


 なのに、紋章が出た。


 僕の思考が、一つの結論に向かう。


 ――彼女がいるからだ。


 だが、それを口にすることはできない。

 口にした瞬間、全てが決定的になる。

 決定的になる前に、僕は安全を確保しなければならない。


「触ったら……」


 リラが言いかけた。


「触るな!!」


 僕の声が鋭くなる。

 リラは驚いて手を引いた。


「……ごめん」


「いや……すまない。だけど、触るのは今じゃない」


 僕は観測を続ける。

 光の強度。揺らぎ。魔力の反応。

 どれも規則的だ。


 自然現象ではない。

 仕組みだろう。


 起動条件を満たした。

 そういう反応だ。


 僕は一歩下がり、深く息を吐いた。


「帰ろう」


 リラが目を見開く。


「え、でも……」


「今ここにいること自体が危ない。これ以上は踏み込むべきじゃない」


「でも、せっかく……」


「観測が増えれば増えるほど、監視が増える」


 リラの表情が引き締まった。

 彼女も理解している。ここは遊び場ではない。


「今は撤退だ。僕らはまだ何も解っていない。君のためでもある」


「……うん」


 返事は素直だった。


 僕らは教会を出た。

 外の光が眩しい。海風が冷たい。人の声が戻る。


 だが僕の中は熱いままだ。


 前回にはなかった紋章。


 つまり――今回、何かが変わった。


 僕らが下層に来たことが、世界を動かした。

 その可能性を否定できない。


 そしてその中心にいるのは、リラだ。


 僕は歩きながら意識的に呼吸を整える。

 表情を変えない。焦りを見せない。


 リラは横で唇を噛んでいる。

 彼女も何かを感じている。だが言葉にしていない。


 それでいい。

 言葉にすると、捕まる。


 宿へ戻り、荷物をまとめ、上層へ戻る準備をする。

 落下口へ向かう道を歩きながら、リラがふと呟いた。


「ねえ、シグ」


「なんだ」


「下層の人たち……みんな、妙に同じ空気だった」


 同じ空気。

 表情じゃない。方向性だ。


「……同じ何かを、背負ってるみたいだった」


 僕の足が一瞬止まった。


 リラが続ける。


「でも誰も“何があったか”は言わない。言えないのか、知らないのか……ただ、“背負う感覚”だけを抱えてる。そんな気がした」


 内容なき感覚。

 それが共有されている。


 それは重要だ。

 重要であるほど、危ない。


「ねえ。あれは一体、何?」


 僕は答えを持たない。

 だから答え方を選ぶ。


「重要だ」


「うん」


「内容がないのに感覚だけが共有されている。……意図的に残されたものかもしれない」


「意図的……」


 リラは震えるように息を吐く。


「怖いね」


「ああ」


 僕らは落下口へ入り、再び“下”を選んだ。

 重力変換点を越える瞬間、リラは一瞬だけ息を詰めたが、あの時のように声を上げることはなかった。


 恐怖が消えたわけじゃない。

 ただ――それよりも考えるべきことが、明らかに増えていた。


 帰還の過程で僕は一度も“紋章”の話をしなかった。

 リラも言わなかった。


 それが互いの合意だった。


 上層に戻ると、空気が変わる。

 冷たい。薄い。整いすぎている。

 街灯の光が均一で、人の歩幅が揃っている。


 大学へ向かう。

 休みの日の大学は静かすぎるほどに静かだ。


 僕は廊下を歩きながら周囲の気配を観測した。

 視線。足音。空気の流れ。


 僕らは図書館の裏手、目立たない小部屋に入る。

 扉を閉め、施錠し、遮音の簡易領域魔法を起動した。


 リラが息を吐く。


「……疲れた」


「色々、あったからね」


「ねえ、シグ」


「なに?」


「さっきから、言わないね」


 言えない。

 言うと危ない。


 リラは静かに言った。


「私、気づいてるよ。図式の中の、紋章」


 背筋が冷える。

 だが顔には出さない。


「……気づいているなら、なおさら言うな」


「うん。でも共有は必要でしょ」


 正しい。

 だがその正しさは、生存と一致しないことがある。


「声に出さずに共有する方法がある」


 僕は外套の内ポケットから小さな板を取り出した。

 薄い黒板のような見た目。表面が滑らかになっている。


「思考転写板」


「……なにそれ」


「言葉を使わずに会話できる。手で文字を書き、それを相手の記憶に焼き付ける。書いた文字は数秒で消える。残らない」


「便利すぎる」


「だからタブーに近い」


 リラは眉を上げた。


「タブー?」


「発言は監視される。だが発言しなければ検知されにくい。……これは抜け道だ」


 リラは、すぐには返さなかった。

 眉をわずかに寄せ、板ではなく、空間そのものを見る。


「……やっぱり」


 低い声。


「私たち、ずっと――見られてる、ってこと?」


 問いというより、確認だった。


「そうだ」


 リラは一度、目を伏せる。

 今まで感じていた違和感が、ひとつの形に収束していくのが分かる。


「……そっか」


 小さく息を吐く。


「気のせいじゃなかったんだ。

 言葉を選ばされてる感じも、考えが途中で止まる感じも」


 それから、ようやく板を見る。


「……それで、その“抜け道“を作ったのは――誰?」


 僕は答えず、板の端を指で叩いた。


「書いて。君が先に。君の観測を僕に渡してほしい」


 リラは一瞬迷い、すぐ頷く。

 ペンを取り、板に書く。


 ──『教会の紋章。前からあった?私たちが入った瞬間、“起動”したみたいだった』


 文字が淡く光り、僕の視界の奥へ滑り込む。

 記憶として刻まれる。


 数秒後、文字は消えた。


 僕が書く。


 ──『前回訪問した時、紋章はなかった。つまり今回新たに発生したんだ。条件が満たされた。原因は“君がいること”の可能性が高い」


 リラの瞳が揺れる。

 彼女はすぐに反応せず、板を見つめたまま呼吸する。


 ──『私がトリガー?何かが私に反応してるってことだよね』


 ──『分からない。だけど、油断するな』


 リラが覚悟の顔をする。


 ──『下層の人たちの共通した感覚。内容がない。感覚だけが共有されてる。あれは重要なことに感じる』


 ──『恐らく、重要だろう。触れすぎると危ない。疑問を持つこと自体がリスクになる』


 ──『そうね。それと――上層にも監視があるの?』


 僕は迷わず書く。


 ──『ある。国全体に張り巡らされている。

 一定以上の思考・発言・魔力・干渉度を検知。未登録の魔法・免許外の使用は記録。軽度の生活魔法は許可。高出力・異常は処罰。下層も同じだ』


 リラの顔色が変わる。


 ──『じゃあ、私が上層で感じていた“息苦しさ”は……』


 ──『仕組みだ。君の感覚は正しい』


 リラは目を伏せ、数秒黙る。

 それから板に書く。


 ──『私たちが下層に行ったことも……?』


 ──『記録されている』


 リラが顔を上げる。

 目が問いかける。


 どうして分かるの?と。


 ──『マグナレオールは監視国家だ。

 君が気づいていなくても、君の移動は残る。僕が君の行動を把握していたのもそれだ。』


 リラの唇がきゅっと結ばれる。


 ──『……じゃあ、これからどうするの?』


 ──『互いの安全を保証し合う必要がある。君が危険になる可能性がある。僕も危険になる。だから単独行動は避ける。情報は共有する。記録を減らす工夫をする。』


 リラは頷き、最後に書いた。


 ──『もう一人では引き返せないんだね』


その文字が浮かんだ瞬間、僕の中で何かが動いた気がした。


 一緒に背負うしかない。

 今の僕らには、それしかない。


 文字が消える。

 沈黙が残る。


 僕は声を抑えて言った。


「……次は、準備だ」


 リラは小さく笑った。

 昨日の悪戯っぽい笑みとは違う。


「魔導具、作るんでしょ」


 その瞬間、僕は眉を寄せる。


「言うな」


「……あ」


 リラは口を押さえた。


 この国は、僕らを見ている。

 下層に行ったことも、教会に入ったことも、何かが起動したことも。

 全てが記録されている。


 僕がリラの行動を把握していたのも、同じ仕組みの上にある。


 ――つまり。


 僕は最初から、この国の“仕組み”の一部だった。


 それを認めた瞬間、胸の奥が冷えた。

 だが同時に、逃げ道も見えた。


 仕組みには、必ず隙間がある。

 隙間があれば、観測できる。


 観測できる限り――まだ、終わらない。


 僕は心の中で言った。


 君を守る。

 それは感情じゃない。

 必要な判断だ。


 そう言い聞かせながら、僕は次の段取りを組み始めた。


 僕らは踏み込んでしまった。


 もう、戻れない。

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