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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
“眠る王国“マグナレオール
23/52

感覚と混乱

なぜ、正月はこんなにも過ぎ去るのが早いのでしょうか。


 落ちる、という感覚は、思っていたよりも早くやってきた。


 足を離した瞬間、重力が容赦なく私を掴んだ。

 身体はまだ見えない地面に向かって落下し、内臓が遅れて追いついてくる。喉の奥から声にならない息が漏れ、視界が一瞬で狭まる。


 ――無理、無理無理無理無理!!


 頭が理解するより先に、身体が拒否する。

 高所恐怖症という言葉は、生ぬるい。これは恐怖というより、本能だ。落ちる=死ぬ、という単純で強烈な思考が、理性を蹴散らして暴れ回る。


 風が、顔を打つ。

 耳元で空気が裂ける音がする。視界の端で、水晶の壁が一気に上へ遠ざかっていく。


「っ……!!」


 声を出そうとして、失敗した。

 口を開けた瞬間、空気が喉に叩き込まれる。息ができない。肺が圧される。


 ――やだ、やだ、やだ!!


 怖い。

 ただただ、怖い。


 思考は崩壊していた。

 重力方向変更? 授業? 理論?

 そんなもの、今はどうでもいい。


 私は、落ちている。


 マグナレオールの“下”へ。


 どれくらい落ちたのか、分からない。途中でシグが声をかけてくれたような気もするけど、はっきりとは分からない。

 時間感覚は、とうに壊れていた。


 けれど――


 不意に。


 落下の速度が、変わった。


「……え?」


 急激な加速ではない。

 むしろ、逆。


 身体を下に引っ張る力が、少しだけ弱くなる。

 風の音が変わる。耳鳴りのようだった音が、次第に柔らかくなってくる。


 ――あれ?


 私は、恐怖で強張ったまま、必死に目を開いた。


 暗い。

 けれど、完全な闇ではない。


 下――だと思っていた方向に、淡い光がある。

 洞窟のような空間。巨大な筒状の空洞が、下へ……いや、どっちだろう?


 速度が、落ちている。

 落下しているはずなのに、身体が“浮いている”ような錯覚すらある。


 ――思ってたより……安全……?


 その時だった。


「何してる!!」


 シグの声が、鋭く空気を切った。


「すぐに“下”を認識しろ!!」


「……え?」


 理解が、追いつかない。


「今のままだと、重力に弾かれる!!」


 弾かれる、という言葉の意味を考える前に。


 ――世界が、反転した。


 正確には、私の感覚が反転した。


 下だと思っていた方向から、急激に引き剥がされる。

 身体が、空中で一瞬だけ“止まり”――


 次の瞬間。


 私は、“空”に向かって落ち始めた。


「――――っ!!?」


 叫び声が、今度こそ出た。

 出た瞬間、今度は背中側に風が叩きつけられる。


 ――嘘でしょ。


 さっきまで、ほとんど浮いているみたいだったのに。

 いや、私が落ちている“方向”が、変わったのか。


 頭が追いつかない。

 視界がぐるりと回り、身体の向きが分からなくなる。


「リラ!!」


 シグの声。


 次の瞬間、衝撃。


 強く、抱きしめられる。


 身体を引き寄せられ、回転が緩やかになる。

 世界が、少しだけ安定する。


「落ち着いて。一緒に!」


 彼の声は、落ち着いていた。

 いや、落ち着かせようとしている、と言った方が正しい。


「上と下の認識を入れ替えるんだ。今感じてる方向が“下”だと思って!」


「む、無理……!」


「無理でもやれ! 考えるな!!」


 理不尽だ。

 でも、理性が理不尽さを感じる前に、私は必死で言葉にしがみついた。


 感じてる方向。

 引っ張られている方向。

 今、身体が落ちていく“こっち”。


 ――これが、下。


 無理矢理に。しかし、強く認識した瞬間。


 身体の内側で、流れる線の方向が変わる感覚。何かが、切り替わった。


 重力が、固定される。

 世界が、落ち着く。


 私は、シグの首にしがみついたまま、荒い呼吸を繰り返した。

 心臓が、まだ暴れている。


「……っ、は……っ……」


「よし」


 短い声。

 それだけで、少しだけ安心する。


「……死ぬかと思った……」


「恐らくだけど、大丈夫だよ。永遠に落ち続けることになるだろうけどね」


 私は荒い息のまま、シグを睨んだ。

 睨んだつもりだったけれど、実際には視界がまだぐらついていて、ちゃんと睨めていたかは怪しい。


「ねえ……」


「うん」


「相手に同じ恐怖感を味わわせる魔法って、ないのかしら」


 自分でも驚くほど、声が低かった。

 ばっちり、棘も含めた。


 シグは一瞬だけ考えるような間を置いてから、淡々と答えた。


「あるよ」


「あるの!?」


「でも今は勧めない。君の集中力がさらに散る」


「……理性的すぎて、ちょっと嫌」


 私は舌打ちしかけて、そこでふと気づいた。


 ――近い。


 近すぎる。


 さっきまでの混乱で気づかなかったけれど、シグとの距離が異常に近い。

 ほとんど、宙に浮いたまま抱えられているような状態だ。


 私は視線を下げ、次に上げた。


「……それより」


「ん?」


「シグ。なんで、浮いてるの?」


 落ちてきたはずなのに、彼は安定しすぎている。

 足場がないのに、姿勢が崩れず、浮いているのだった。


 シグは、少しだけ口角を上げた。


「重力魔法の応用だよ」


「……応用?」


「重力のバランスを、ほんの少しいじってる」


 彼は、自分の足元をちらりと示した。

 そこには何もない。ただ、空気だけ。


「完全に相殺しているわけじゃない。落下はしてる。

 ただ――」


 彼は、私の腕を支える力を、ほんの少しだけ強めた。


「君を助けるために、ね」


 その一言が、思った以上に胸に響いた。


「……もっと早く助けてくれても良かったのに」


「すまない。僕にも余裕はなかった」


「……それもそうか」


 怖さは、まだ残っている。


 私は、無意識に自分の指先を握りしめていた。

 それに気づいたシグが、視線を落とす。


「……手、まだ震えてる」


「見ないでよ」


 そう言いながら、私は少しだけ力を抜いた。

 震えは、すぐには止まらないけれど。


 ――浮いてる。


 本当に、浮いている。

 落ちているはずなのに、支えられている。


 それだけで、世界の怖さが一段階下がった気がした。


 私たちは、ゆっくりと下降――いや、上昇? どちらかもう、分からないけれど――していく。


 やがて、足裏に感触が戻った。


 硬い。

 岩だ。


 私は、へなへなと膝をついた。


「……もう、無理……」


「立てる?」


「無理……」


「じゃあ、少し休もう」


 シグはそう言って、私の手を離した。

 離された瞬間、少しだけ名残惜しいと思ってしまった自分に気づいて、慌てて首を振る。


 私は、辺りを見回した。


 そこは、洞窟だった。

 巨大な筒状の空間が、頭上に広がっている。上――今の感覚で言う“上”には、今まさに私達が落ちてきた空間が広がっていた。


「……ここは?」


「重力変換点だ」


 いつもと同じ、淡々とした説明。


「この先が、下層だよ」


 私は、唾を飲み込んだ。


 *


 数分後。私はまだ、地面にへたり込んでいた。


 背中を石に預け、両手をついて、ただ息を整えることに専念している。

 視界の端で、シグの靴先が見えるが、それを追う余裕はない。


 ――生きてる。


 それだけは、確かだった。


「……魔法って、ありがたい技術ね」


 誰に聞かせるでもなく、私は呟いた。


 重力方向変更。

 落下制御。

 衝撃緩和。


 考えうる限りの魔法制御が、きちんと働いていた。

 働いていなければ、私は今ここにいない。


 ……いない、けど。


「でもさ……」


 私は、石畳を見つめたまま、心の中で小さな会議を始める。


 ――そもそも、魔法があるからって、

 ――なんで“落ちる”方式なの?


 エレベーターとか。

 階段とか。

 せめて滑り台とか。


 もっと人に優しい選択肢、なかった?


 魔法があるから無茶していい、って話じゃないでしょう。


 頭の中で、理性の私と感情の私が言い合いを始める。

 理性は「結果的に安全だった」と言い、

 感情は「心臓に悪すぎる」と主張する。


 どちらも正しい。だからこそ余計に腹立たしい。


「……もういくよ」


 上から声が落ちてきた。


 淡々としていて、いつも通りで、まるで私が地面に崩れ落ちている理由が分からない、という声。


「……ちょっと待って……」


「結構、待ったよ」


「まだ足、震えてる……」


「歩けば治るよ」


 私は顔をしかめながら、のそのそと体を起こした。


 立ち上がる。

 一歩出す。

 ぐらっとする。


「……ほら」


「倒れてない」


「基準が低すぎる!」


 文句を言いながら、私はシグの後を追う。

 洞窟の中は薄暗く、水晶の壁がぼんやりと光を反射している。


 数歩進んだところで――


 視界が、開けた。


 光が、一気に流れ込んでくる。

 反射的に、私は目を細めた。


 そして。


 私は、言葉を失った。


 ――空が、あった。


「……え?」


 声が間抜けに響いた。


 私は、勝手に想像していたのだ。

 下層という言葉から、暗い地下。閉塞感。湿った空気。人工光。

 そういうものを。


 でも、ここは違う。


 風が吹いている。

 草の匂いがする。

 どこかで、金属が触れ合う音と、人の話し声。


 私は呆然と空を見上げたまま、瞬きを繰り返した。


「……普通すぎない?」


 自分でも、何を言っているのか分からなかった。


 横で、シグが軽く地面に足をつけた。

 私より数歩だけ前に立ち、周囲を一瞥する。


「そうだね」


 彼に驚いている様子はない。


「……想像してた“下”じゃない」


「たいていの人が、そう言うだろうね」


 重力は、もう安定している。

 重力が反転していると知らなければ、本当に普通の世界が広がっていた。


「……落ちて、来たんだよね」


「そう」


「……信じられない」


 私はもう一度、空を見た。


 ――ある。

 ちゃんと、ある。


 でも。


 どこか、おかしい。


 その違和感を、まだ言葉にできない。

 ただ、空が“遠い”。遠すぎる。

 雲の流れが、妙に均一だ。規則正しすぎる。


 私は首を傾げたが、今はそれ以上考えないことにした。


「……歩いていいの?」


「もちろん。生活圏だからね」


 シグはそう言って、自然な足取りで歩き出した。

 私は遅れて、その後を追う。


 *


 街は、活気があった。


 露店が並び、果実や焼き物が売られている。

 子供が走り回り、年配の女性が声を張り上げて値段交渉をしている。


 誰も、私たちに特別な反応を示さない。

 視線は来るが、それは好奇心の範囲だ。


「……人、多いんだね」


「この辺りはね」


 すれ違った男が、シグに軽く会釈した。

 顔見知り、というほど親しくはないが、知らない相手でもない。そんな距離感。


 私は、その様子を横目で見た。


「……さっきの人は知り合い?」


「前に来た時、少し話をした人かな」


「前?」


「二回目だよ。言っただろ」


 私たちは広場に出た。

 中央には噴水があり、子供たちが水を蹴って遊んでいる。


 水は澄んでいる。

 魔法の気配が、うっすらと混じっている。


「魔法制御……だよね。下層でも使ってるんだ」


「生活魔法だね。制限内」


 制限内。

 その言葉に、私は小さく眉を寄せた。


「……上層と、変わらないように見えるけど」


「そうだね」


 私は立ち止まった。


 変わらない。

 それが、どうにも引っかかる。


 下層だと聞いていた。

 隠されている場所だと、思っていた。


 でも、ここには想像していたような――

 不幸がない。

 荒廃がない。

 怯えも、怒りも、ない。


 ただ、普通の生活がある。


 私はふと、噴水の水面を覗き込んだ。

 水は澄んでいる。

 ただ、水面の光の揺れが、揺れ方として“正しすぎる”。


 揺れが、偶然ではなく、規則に見える。


 私は目を逸らした。


 ――違う。これ、自然じゃない……?


 私は、近くの露店に近づいた。

 果実を並べている店主に声をかける。


「すみません」


「はいよ!」


 気さくな返事。


「ここ……賑やかですね」


「そりゃあね。今日は天気がいいから」


「……天気?」


 店主は笑った。


「何だい? 当たり前だろ」


 私は、一瞬言葉に詰まった。


「……ここって」


 言いかけて、少し考える。


「……この世界、狭いですよね?」


 遠回しな聞き方だった。

 自分でも、逃げ腰だと思う。


 店主は、きょとんとした顔をした。


「狭い?」


「えっと……外とか……」


 店主は少し考えてから、肩をすくめた。


「外? どこに行くってんだい」


 私は、息を止めた。


「この世界以外に、何があるって言うんだよ?」


 その言葉は、疑問じゃなかった。


 当たり前の前提を、彼は言ったように見えた。


 私は、言葉を失った。


 隣で、シグが何も言わずにそれを聞いている。

 表情は変わらない。でも、視線がわずかに鋭くなった。


 店主は、果実を一つ手に取って続ける。


「ここで生まれて、ここで暮らして、ここで死ぬ。それで十分だろ?」


 私は、返事ができなかった。


 シグが、代わりに礼を言って、その場を離れる。


「……ねえ、シグ」


「うん」


 私は声を低くした。

 周りに聞かれないように、でも自分の中で言葉が崩れないように。


「これ……造ってるよね」


 “魔法で”とは言わない。

 “誰が”とも言わない。

 ただ、結論だけを落とす。


 シグは一拍置いた。

 否定しなかった。


「……そう見えるね」


 その返答は、ほとんど肯定だった。


 私は空を見上げた。

 遠い。薄い。均一。

 風すら、季節の癖がない。

 匂いはあるのに、揺らぎがない。


 ――完璧すぎる。


 私は口の中で、言いかけた疑問を噛み潰した。


 なんのために?

 どうして?

 なぜ重力が反転しているの?

 どうやって?

 誰が?


 その全部を、声にできない。


 シグが、視線だけで言った。

 “まだ”だ、と。


 私は唇を噛み、代わりに最小限の言葉だけを選んだ。


「……理由、分かる?」


 シグは首を振った。


「分からない。だから、来た」


 しばらく、二人とも無言で歩いた。


 石畳を踏む音。

 遠くの笑い声。


 私は、胸の奥がじわじわと冷えていくのを感じた。


「……誰も、疑ってない」


 ぽつりと、私が言った。


「疑う理由がないからね」


「でも……」


 言葉が、続かない。


 ここは完成している。

 生活として。

 世界として。


 私は立ち止まり、空を見上げた。


 ――やっぱり、変だ。


 遠い。

 薄い。

 触れられない感じ。


「……ねえ、シグ」


「うん」


「ここ、隠されてるの?」


 彼は、すぐには答えなかった。


「……隠されている、という言い方は正確じゃない」


「じゃあ……」


 私は、言葉を探す。


「閉じ込められてる?」


 その言葉を出した瞬間、自分で違うと思った。


 閉じ込められている人間の顔じゃない。

 ここにいる人たちは。


 シグは、ゆっくりと首を振った。


「まだ、僕にも分からない」


 私たちは、広場の端に腰を下ろした。

 子供たちの声が、風に混じる。


 私は、考え続けた。


 ここは、下層。

 でも、罰の場じゃない。

 隔離施設でもない。


 むしろ――

 守られているような気がする。


 私は、ふと気づいた。


「ここに居る人達は……」


 私は、言葉を選びながら続ける。


「……知らないんじゃない。

 疑うって発想がない」


 シグは、ようやく口を開いた。


「そうだね」


 閉じ込められているわけじゃない。

 縛られているわけでもない。


 私は、視線を地面に落とした。


 石畳。

 噴水。

 人の足取り。


 どれも“普通”だ。

 普通すぎるほど、普通。


 でも。


 ――ここは、上層の“下”だ。


 私は、さっきまでの落下を思い出す。

 身体の向きが反転した瞬間。

 世界が裏返った、あの感覚。


 もし、ただの異常なら。

 もし、ただの事故や歪みなら。


 こんなにも安定しているはずがない。


 生活が。

 建物が。

 人の動きが。


 重力が逆なのに、

 誰一人、困っていない。


 私は、はっきりと理解した。


 これは“起きてしまった異常”じゃない。


 選ばれた配置であり、設計された向きだ。


 重力が反転しているのは、

 世界が壊れたからじゃない。


 この世界が、そう在る為に必要だったんだ。


 上と下を分けるため。

 簡単に行き来できないようにするため。

 そして――


 「下」を、

 ひとつの“完結した世界”として成立させるため。


 ……口に出せない。


 これを言葉にした瞬間、

 きっと“考えすぎた人間”になる。


 だから、私は黙らなければいけない。


 ただ、確信だけが残った。


「……世界そのものとして、ここに在る」


 私たちは、同時に同じ結論に辿り着いていた。


 下層の人々は、

 ここが――世界のすべてだと思っている。


 雲は流れているのに、遠景だけが微動だにしない。


 シグが、低く言った。


「……やっぱりだ」

ブックマーク、評価、コメント、お待ちしてます。

夜の現在地、という名前でXも更新しています。

作中では触れない設定をつぶやいたりもしていくので、もし良ければフォローお願いいたします。

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