感覚と混乱
なぜ、正月はこんなにも過ぎ去るのが早いのでしょうか。
落ちる、という感覚は、思っていたよりも早くやってきた。
足を離した瞬間、重力が容赦なく私を掴んだ。
身体はまだ見えない地面に向かって落下し、内臓が遅れて追いついてくる。喉の奥から声にならない息が漏れ、視界が一瞬で狭まる。
――無理、無理無理無理無理!!
頭が理解するより先に、身体が拒否する。
高所恐怖症という言葉は、生ぬるい。これは恐怖というより、本能だ。落ちる=死ぬ、という単純で強烈な思考が、理性を蹴散らして暴れ回る。
風が、顔を打つ。
耳元で空気が裂ける音がする。視界の端で、水晶の壁が一気に上へ遠ざかっていく。
「っ……!!」
声を出そうとして、失敗した。
口を開けた瞬間、空気が喉に叩き込まれる。息ができない。肺が圧される。
――やだ、やだ、やだ!!
怖い。
ただただ、怖い。
思考は崩壊していた。
重力方向変更? 授業? 理論?
そんなもの、今はどうでもいい。
私は、落ちている。
マグナレオールの“下”へ。
どれくらい落ちたのか、分からない。途中でシグが声をかけてくれたような気もするけど、はっきりとは分からない。
時間感覚は、とうに壊れていた。
けれど――
不意に。
落下の速度が、変わった。
「……え?」
急激な加速ではない。
むしろ、逆。
身体を下に引っ張る力が、少しだけ弱くなる。
風の音が変わる。耳鳴りのようだった音が、次第に柔らかくなってくる。
――あれ?
私は、恐怖で強張ったまま、必死に目を開いた。
暗い。
けれど、完全な闇ではない。
下――だと思っていた方向に、淡い光がある。
洞窟のような空間。巨大な筒状の空洞が、下へ……いや、どっちだろう?
速度が、落ちている。
落下しているはずなのに、身体が“浮いている”ような錯覚すらある。
――思ってたより……安全……?
その時だった。
「何してる!!」
シグの声が、鋭く空気を切った。
「すぐに“下”を認識しろ!!」
「……え?」
理解が、追いつかない。
「今のままだと、重力に弾かれる!!」
弾かれる、という言葉の意味を考える前に。
――世界が、反転した。
正確には、私の感覚が反転した。
下だと思っていた方向から、急激に引き剥がされる。
身体が、空中で一瞬だけ“止まり”――
次の瞬間。
私は、“空”に向かって落ち始めた。
「――――っ!!?」
叫び声が、今度こそ出た。
出た瞬間、今度は背中側に風が叩きつけられる。
――嘘でしょ。
さっきまで、ほとんど浮いているみたいだったのに。
いや、私が落ちている“方向”が、変わったのか。
頭が追いつかない。
視界がぐるりと回り、身体の向きが分からなくなる。
「リラ!!」
シグの声。
次の瞬間、衝撃。
強く、抱きしめられる。
身体を引き寄せられ、回転が緩やかになる。
世界が、少しだけ安定する。
「落ち着いて。一緒に!」
彼の声は、落ち着いていた。
いや、落ち着かせようとしている、と言った方が正しい。
「上と下の認識を入れ替えるんだ。今感じてる方向が“下”だと思って!」
「む、無理……!」
「無理でもやれ! 考えるな!!」
理不尽だ。
でも、理性が理不尽さを感じる前に、私は必死で言葉にしがみついた。
感じてる方向。
引っ張られている方向。
今、身体が落ちていく“こっち”。
――これが、下。
無理矢理に。しかし、強く認識した瞬間。
身体の内側で、流れる線の方向が変わる感覚。何かが、切り替わった。
重力が、固定される。
世界が、落ち着く。
私は、シグの首にしがみついたまま、荒い呼吸を繰り返した。
心臓が、まだ暴れている。
「……っ、は……っ……」
「よし」
短い声。
それだけで、少しだけ安心する。
「……死ぬかと思った……」
「恐らくだけど、大丈夫だよ。永遠に落ち続けることになるだろうけどね」
私は荒い息のまま、シグを睨んだ。
睨んだつもりだったけれど、実際には視界がまだぐらついていて、ちゃんと睨めていたかは怪しい。
「ねえ……」
「うん」
「相手に同じ恐怖感を味わわせる魔法って、ないのかしら」
自分でも驚くほど、声が低かった。
ばっちり、棘も含めた。
シグは一瞬だけ考えるような間を置いてから、淡々と答えた。
「あるよ」
「あるの!?」
「でも今は勧めない。君の集中力がさらに散る」
「……理性的すぎて、ちょっと嫌」
私は舌打ちしかけて、そこでふと気づいた。
――近い。
近すぎる。
さっきまでの混乱で気づかなかったけれど、シグとの距離が異常に近い。
ほとんど、宙に浮いたまま抱えられているような状態だ。
私は視線を下げ、次に上げた。
「……それより」
「ん?」
「シグ。なんで、浮いてるの?」
落ちてきたはずなのに、彼は安定しすぎている。
足場がないのに、姿勢が崩れず、浮いているのだった。
シグは、少しだけ口角を上げた。
「重力魔法の応用だよ」
「……応用?」
「重力のバランスを、ほんの少しいじってる」
彼は、自分の足元をちらりと示した。
そこには何もない。ただ、空気だけ。
「完全に相殺しているわけじゃない。落下はしてる。
ただ――」
彼は、私の腕を支える力を、ほんの少しだけ強めた。
「君を助けるために、ね」
その一言が、思った以上に胸に響いた。
「……もっと早く助けてくれても良かったのに」
「すまない。僕にも余裕はなかった」
「……それもそうか」
怖さは、まだ残っている。
私は、無意識に自分の指先を握りしめていた。
それに気づいたシグが、視線を落とす。
「……手、まだ震えてる」
「見ないでよ」
そう言いながら、私は少しだけ力を抜いた。
震えは、すぐには止まらないけれど。
――浮いてる。
本当に、浮いている。
落ちているはずなのに、支えられている。
それだけで、世界の怖さが一段階下がった気がした。
私たちは、ゆっくりと下降――いや、上昇? どちらかもう、分からないけれど――していく。
やがて、足裏に感触が戻った。
硬い。
岩だ。
私は、へなへなと膝をついた。
「……もう、無理……」
「立てる?」
「無理……」
「じゃあ、少し休もう」
シグはそう言って、私の手を離した。
離された瞬間、少しだけ名残惜しいと思ってしまった自分に気づいて、慌てて首を振る。
私は、辺りを見回した。
そこは、洞窟だった。
巨大な筒状の空間が、頭上に広がっている。上――今の感覚で言う“上”には、今まさに私達が落ちてきた空間が広がっていた。
「……ここは?」
「重力変換点だ」
いつもと同じ、淡々とした説明。
「この先が、下層だよ」
私は、唾を飲み込んだ。
*
数分後。私はまだ、地面にへたり込んでいた。
背中を石に預け、両手をついて、ただ息を整えることに専念している。
視界の端で、シグの靴先が見えるが、それを追う余裕はない。
――生きてる。
それだけは、確かだった。
「……魔法って、ありがたい技術ね」
誰に聞かせるでもなく、私は呟いた。
重力方向変更。
落下制御。
衝撃緩和。
考えうる限りの魔法制御が、きちんと働いていた。
働いていなければ、私は今ここにいない。
……いない、けど。
「でもさ……」
私は、石畳を見つめたまま、心の中で小さな会議を始める。
――そもそも、魔法があるからって、
――なんで“落ちる”方式なの?
エレベーターとか。
階段とか。
せめて滑り台とか。
もっと人に優しい選択肢、なかった?
魔法があるから無茶していい、って話じゃないでしょう。
頭の中で、理性の私と感情の私が言い合いを始める。
理性は「結果的に安全だった」と言い、
感情は「心臓に悪すぎる」と主張する。
どちらも正しい。だからこそ余計に腹立たしい。
「……もういくよ」
上から声が落ちてきた。
淡々としていて、いつも通りで、まるで私が地面に崩れ落ちている理由が分からない、という声。
「……ちょっと待って……」
「結構、待ったよ」
「まだ足、震えてる……」
「歩けば治るよ」
私は顔をしかめながら、のそのそと体を起こした。
立ち上がる。
一歩出す。
ぐらっとする。
「……ほら」
「倒れてない」
「基準が低すぎる!」
文句を言いながら、私はシグの後を追う。
洞窟の中は薄暗く、水晶の壁がぼんやりと光を反射している。
数歩進んだところで――
視界が、開けた。
光が、一気に流れ込んでくる。
反射的に、私は目を細めた。
そして。
私は、言葉を失った。
――空が、あった。
「……え?」
声が間抜けに響いた。
私は、勝手に想像していたのだ。
下層という言葉から、暗い地下。閉塞感。湿った空気。人工光。
そういうものを。
でも、ここは違う。
風が吹いている。
草の匂いがする。
どこかで、金属が触れ合う音と、人の話し声。
私は呆然と空を見上げたまま、瞬きを繰り返した。
「……普通すぎない?」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
横で、シグが軽く地面に足をつけた。
私より数歩だけ前に立ち、周囲を一瞥する。
「そうだね」
彼に驚いている様子はない。
「……想像してた“下”じゃない」
「たいていの人が、そう言うだろうね」
重力は、もう安定している。
重力が反転していると知らなければ、本当に普通の世界が広がっていた。
「……落ちて、来たんだよね」
「そう」
「……信じられない」
私はもう一度、空を見た。
――ある。
ちゃんと、ある。
でも。
どこか、おかしい。
その違和感を、まだ言葉にできない。
ただ、空が“遠い”。遠すぎる。
雲の流れが、妙に均一だ。規則正しすぎる。
私は首を傾げたが、今はそれ以上考えないことにした。
「……歩いていいの?」
「もちろん。生活圏だからね」
シグはそう言って、自然な足取りで歩き出した。
私は遅れて、その後を追う。
*
街は、活気があった。
露店が並び、果実や焼き物が売られている。
子供が走り回り、年配の女性が声を張り上げて値段交渉をしている。
誰も、私たちに特別な反応を示さない。
視線は来るが、それは好奇心の範囲だ。
「……人、多いんだね」
「この辺りはね」
すれ違った男が、シグに軽く会釈した。
顔見知り、というほど親しくはないが、知らない相手でもない。そんな距離感。
私は、その様子を横目で見た。
「……さっきの人は知り合い?」
「前に来た時、少し話をした人かな」
「前?」
「二回目だよ。言っただろ」
私たちは広場に出た。
中央には噴水があり、子供たちが水を蹴って遊んでいる。
水は澄んでいる。
魔法の気配が、うっすらと混じっている。
「魔法制御……だよね。下層でも使ってるんだ」
「生活魔法だね。制限内」
制限内。
その言葉に、私は小さく眉を寄せた。
「……上層と、変わらないように見えるけど」
「そうだね」
私は立ち止まった。
変わらない。
それが、どうにも引っかかる。
下層だと聞いていた。
隠されている場所だと、思っていた。
でも、ここには想像していたような――
不幸がない。
荒廃がない。
怯えも、怒りも、ない。
ただ、普通の生活がある。
私はふと、噴水の水面を覗き込んだ。
水は澄んでいる。
ただ、水面の光の揺れが、揺れ方として“正しすぎる”。
揺れが、偶然ではなく、規則に見える。
私は目を逸らした。
――違う。これ、自然じゃない……?
私は、近くの露店に近づいた。
果実を並べている店主に声をかける。
「すみません」
「はいよ!」
気さくな返事。
「ここ……賑やかですね」
「そりゃあね。今日は天気がいいから」
「……天気?」
店主は笑った。
「何だい? 当たり前だろ」
私は、一瞬言葉に詰まった。
「……ここって」
言いかけて、少し考える。
「……この世界、狭いですよね?」
遠回しな聞き方だった。
自分でも、逃げ腰だと思う。
店主は、きょとんとした顔をした。
「狭い?」
「えっと……外とか……」
店主は少し考えてから、肩をすくめた。
「外? どこに行くってんだい」
私は、息を止めた。
「この世界以外に、何があるって言うんだよ?」
その言葉は、疑問じゃなかった。
当たり前の前提を、彼は言ったように見えた。
私は、言葉を失った。
隣で、シグが何も言わずにそれを聞いている。
表情は変わらない。でも、視線がわずかに鋭くなった。
店主は、果実を一つ手に取って続ける。
「ここで生まれて、ここで暮らして、ここで死ぬ。それで十分だろ?」
私は、返事ができなかった。
シグが、代わりに礼を言って、その場を離れる。
「……ねえ、シグ」
「うん」
私は声を低くした。
周りに聞かれないように、でも自分の中で言葉が崩れないように。
「これ……造ってるよね」
“魔法で”とは言わない。
“誰が”とも言わない。
ただ、結論だけを落とす。
シグは一拍置いた。
否定しなかった。
「……そう見えるね」
その返答は、ほとんど肯定だった。
私は空を見上げた。
遠い。薄い。均一。
風すら、季節の癖がない。
匂いはあるのに、揺らぎがない。
――完璧すぎる。
私は口の中で、言いかけた疑問を噛み潰した。
なんのために?
どうして?
なぜ重力が反転しているの?
どうやって?
誰が?
その全部を、声にできない。
シグが、視線だけで言った。
“まだ”だ、と。
私は唇を噛み、代わりに最小限の言葉だけを選んだ。
「……理由、分かる?」
シグは首を振った。
「分からない。だから、来た」
しばらく、二人とも無言で歩いた。
石畳を踏む音。
遠くの笑い声。
私は、胸の奥がじわじわと冷えていくのを感じた。
「……誰も、疑ってない」
ぽつりと、私が言った。
「疑う理由がないからね」
「でも……」
言葉が、続かない。
ここは完成している。
生活として。
世界として。
私は立ち止まり、空を見上げた。
――やっぱり、変だ。
遠い。
薄い。
触れられない感じ。
「……ねえ、シグ」
「うん」
「ここ、隠されてるの?」
彼は、すぐには答えなかった。
「……隠されている、という言い方は正確じゃない」
「じゃあ……」
私は、言葉を探す。
「閉じ込められてる?」
その言葉を出した瞬間、自分で違うと思った。
閉じ込められている人間の顔じゃない。
ここにいる人たちは。
シグは、ゆっくりと首を振った。
「まだ、僕にも分からない」
私たちは、広場の端に腰を下ろした。
子供たちの声が、風に混じる。
私は、考え続けた。
ここは、下層。
でも、罰の場じゃない。
隔離施設でもない。
むしろ――
守られているような気がする。
私は、ふと気づいた。
「ここに居る人達は……」
私は、言葉を選びながら続ける。
「……知らないんじゃない。
疑うって発想がない」
シグは、ようやく口を開いた。
「そうだね」
閉じ込められているわけじゃない。
縛られているわけでもない。
私は、視線を地面に落とした。
石畳。
噴水。
人の足取り。
どれも“普通”だ。
普通すぎるほど、普通。
でも。
――ここは、上層の“下”だ。
私は、さっきまでの落下を思い出す。
身体の向きが反転した瞬間。
世界が裏返った、あの感覚。
もし、ただの異常なら。
もし、ただの事故や歪みなら。
こんなにも安定しているはずがない。
生活が。
建物が。
人の動きが。
重力が逆なのに、
誰一人、困っていない。
私は、はっきりと理解した。
これは“起きてしまった異常”じゃない。
選ばれた配置であり、設計された向きだ。
重力が反転しているのは、
世界が壊れたからじゃない。
この世界が、そう在る為に必要だったんだ。
上と下を分けるため。
簡単に行き来できないようにするため。
そして――
「下」を、
ひとつの“完結した世界”として成立させるため。
……口に出せない。
これを言葉にした瞬間、
きっと“考えすぎた人間”になる。
だから、私は黙らなければいけない。
ただ、確信だけが残った。
「……世界そのものとして、ここに在る」
私たちは、同時に同じ結論に辿り着いていた。
下層の人々は、
ここが――世界のすべてだと思っている。
雲は流れているのに、遠景だけが微動だにしない。
シグが、低く言った。
「……やっぱりだ」
ブックマーク、評価、コメント、お待ちしてます。
夜の現在地、という名前でXも更新しています。
作中では触れない設定をつぶやいたりもしていくので、もし良ければフォローお願いいたします。




