“空“の下
マグナレオールとは、世界最大級の王国。
講義棟の天井は高く、光はいつも均一だった。
窓の外に雪が舞っていても、室内の温度は変わらない。空気の湿り気すら、一定の値に保たれている。
マグナレオールの「当たり前」は、いつも人間の都合に合わせて整っている。
整い過ぎている――そう思うことが、最近は減った。
減ったというより、思ってもすぐに飲み込めるようになった。
違和感を違和感のまま抱え続けるのは、体力が要る。ここでは、毎日が忙しい。授業名は増え続けるし、指定文献は容赦なく厚い。課題は、優しい顔をしてこちらの睡眠時間を削ってくる。
私は、机に頬杖をついて板書を追っていた。
――いけない。姿勢。
内心でそう思いながら、すぐに背筋を伸ばす。そうやって「学生の癖」が身につくのも早い。
教授の声は淡々としていて、感情の波がない。けれど不思議と退屈しない。話している内容が私にとっては新鮮すぎるのだ。
「……運用とは、定義の代替ではない。運用は運用だ。君たちに今、求められていることは“動く”ことだ。理解ではない。結果を安定させることだ」
黒板に、簡潔な図式が並ぶ。
環境補助系の応用構文。細い線がいくつも走り、それぞれが一定の角度で交わっている。
その見た目は、いつも美しい。
私は、その線が好きだった。
好き、というか――理解できるのが嬉しい。線を追うたび、道が頭の中にできる。抵抗のある部分と、流れやすい部分が分かる。最初の頃は「勘」だったものが、少しずつ「再現できる感覚」に変わっている気がする。
私、こんなに勉強好きだったっけ。
授業中にそんなことを考えている時点で、だいぶダメになっている気がする。
でもその感覚も、嫌ではない。
教授が視線を上げた瞬間、私は反射的にノートへ視線を落とした。
……今、見られた気がした。
見られていること自体が怖いわけじゃない。
ただ、ここでは「視線」が何らかの意味を持つ。評価、記録、観測。何かを測る道具のように機能する。それを理解しているからこそ、私は余計な癖を見せたくない。
――でも、それもきっと“気のせい“なのかな。
机の端に置いていた小さな包みが視界に入って、私は思わず口元を緩めた。
昼の時間にマレイアがくれた、焼き菓子。彼女は「講義の合間に食べると頭が良くなる味」と言っていた。その嘘の勢いが良すぎて、笑ってしまった。
ああ、やっぱり。
私は今、完全に学生の顔をしている。
さっきまでの「評価が」「観測が」という硬い思考は、焼き菓子一つでほどけてしまう。そんな自分も、正直好き。
講義が終わると、学生たちは静かに立ち上がった。
ざわめきがない。椅子が引かれる音も、ノートを閉じる音も、全部が吸い込まれていく。私の国の教室なら、必ず誰かが立ち話を始めるし、廊下に出るまでに笑い声が生まれる。
私は鞄を肩にかけ、包みをそっとしまった。
受講中に焼き菓子を取り出して食べるタイミングは、未だ見つけられていない。
今日も――図書館へ向かおう。
*
図書館の空気は、教室よりもさらに静かだった。
私は指定文献の棚の前で、分類記号を追っていた。
指先で背表紙をなぞる。紙の匂い。古い革の匂い。この匂いが心地よく感じる。
背後から、控えめな気配。
「……それ、また分類が古いです」
振り返ると、眼鏡の奥に、澄んだ目。
「こっちが、新版です」
彼女は淡々と一冊を差し出した。
余計な言葉はなく、情報だけが正確に届く。
「……ありがとう」
私が受け取ると、セレストはいつも通り、少しだけ視線を逸らした。
「……どういたしまして」
私は棚から少し離れ、閲覧席へ向かった。
途中で、焼き菓子の包みが鞄の中で小さく揺れた。
――今食べたら、怒られるかな。
そんなことを考えながら閲覧席に座り、私は本を開いた。
けれど、文字を追う前に、ふと腹の奥が鳴った。小さく、情けない音。
私は思わず頬を押さえた。
やだ、今?
誰にも聞かれていないはずなのに、妙に恥ずかしい。
私は鞄から包みを取り出し、こっそり開いた。
香りがふわりと立つ。甘い。焼いた砂糖の匂い。中には更に甘みのある果実の気配。
ちょっと一口。
……美味しい。
私は目を細めた。
この国の食べ物は基本的に美味しい。でも、甘いものは、なんというか……心が緩む。体だけじゃなく、心が。
セレストが近くの席に立った。
いつの間に。気配に全く気づかなかった。
彼女は私の手元を見た。
見たけれど、表情は変わらない。
「……甘いもの」
「うん。講義が長かったから……」
言い訳をしてみる。
セレストは一拍置いて、小さく言った。
「……好きなんですか」
「好き。……というか、疲れた時に食べると、すごく安心するの」
セレストは、ただ頷いた。
「……分かります」
その「分かります」が、妙に胸に刺さった。
彼女の声はいつも淡いのに、たまに「普通の人」みたいな温度が混じる。
「セレストは、何が好きなの?」
「……食べ物、ですか」
「うん。好きな食べ物」
私は焼き菓子をもう一口だけかじりながら、彼女の返事を待った。
セレストは少しだけ迷うような間を作ってから、答えた。
「……母の料理」
私は目を丸くした。
その答えが、あまりにも普通で、あまりにも人間らしくて。
「わかる……!やっぱり、お母さんの料理が最高だよね」
口にしてから、自分の言葉が少し砕けすぎたことに気づいて、慌てて咳払いをした。
でもセレストは、咎めるような顔をしない。
彼女はただ、静かに言った。
「……私の出身は、ここではありません」
私は手を止めた。
「違う国の出身だったの?」
セレストは、眼鏡の奥で目を動かした。
ほんの小さな動き。たぶんそれが彼女の「違う」の表現だ。
「……? いえ。この国の“下層”です」
――下層。
言葉が、頭の中で一度止まった。
意味を理解する前に、音だけが響いた。
「……下層?」
そう尋ねる声は、自分でも驚くほど間抜けだった。
セレストは頷いた。頷く動きは小さいのに、その一回で世界が揺れる。
「この国って……下が、あるの?」
私の言葉は、確認というより、現実に追いつくためのもがきに近かった。
セレストは淡々と答える。
「あります」
当たり前のことのように。
私は息を飲んだ。
――そんな話、聞いたことない。
講義でも、資料でも、回廊の掲示でも、誰も言わなかった。
言わないのが当たり前だったのか。言う必要がなかったのか。私が聞かなかっただけなのか。
セレストは、私の混乱を「混乱」として扱わない。
ただ、情報を積み上げるように言う。
「下層は、私達がいる“上層“のほぼ真下に存在します。下層に関する情報は……ほとんどありませんが」
「ほとんど、ない?」
「図書館の公開資料には、です」
公開資料。
その言い方が、私の背中を冷やした。公開されていない資料がある、と言っている。
セレストは、立ち上がった。
「……少し、待っていてください」
彼女は棚の奥へ消えた。
数分後、セレストが戻ってきた。
彼女が抱えているのは、薄い革で綴じられた――古い地図のようなものだろうか?水晶板じゃない。紙だ。古い紙。
「……昔からある地図です」
彼女はそれを机の上に広げた。
紙の上に描かれた線。山の輪郭。白い街の配置。王立大学。回廊の位置。
そして――その下に、もう一つの輪郭がある。
私は、理解した。
言葉じゃなく、形で。
「……私が見ていたものは、この国の半分にも満たなかったんだ」
声が、震えた。
恐怖じゃない。怒りでもない。
ただ、驚いていた。
自分から見える世界が「全部」だと思っていたことが、あまりにも恥ずかしい。
セレストは、地図を指でなぞった。
「上層の地図は、多いです。情報も多い。制度も多い。……でも下層は、ほとんど無い」
「どうして……?」
私は、言いかけて止まった。
――やめた方がいい。
ここで「なぜ」を口にするのは危険だと、身体が先に知っている。
でも頭の中では、疑問が暴れ始める。
なぜ?
どうして?
誰が?
何のために?
私は地図を見つめた。
今まで見てきた街。完璧な気候。完璧な秩序。完璧な人々。
それらが、「一つの層で完結している」と無意識に思い込んでいたことに気づく。
マグナレオールは巨大だ。巨大なのに、私はその巨大さを「上へ伸びる巨大さ」だと思っていた。縦に伸びる山。空に触れる国。
――でも、下がある。
想像もしたことがなかった。
想像しないように、設計されていたのか。
それとも、私の感覚が鈍かったのか。
私は地図の線から目を離せなくなった。
地図はただの紙なのに、見事に私の世界をひっくり返した。
セレストは地図を巻き直した。
「……これ以上は、私も詳しくありません」
彼女の声は平坦だった。
詳しくない、というより、詳しくしようとしない。
そこに踏み込む必要がない、と彼女は本気で思っている。
私は、胸の奥がざわつくのを感じた。
ざわつきは怖さじゃない。興奮に近い。知りたい。確かめたい。自分の足で見たい。
――でも、今の「知りたい」は危険な匂いがする。
私は地図を見つめたまま、喉の奥で小さく呟いた。
「……なんで、下層を……」
その瞬間。
空気が、ほんの少しだけ硬くなった気がした。
気のせいかもしれない。でも、気のせいで片付けたくないほど、明確な変化。
私は、口を閉じた。
セレストは何も言わない。彼女の目も動かない。表情も変わらない。
なのに。
私は確信した。
その質にもよって変化はある。ただ、確実に。
「なぜ」を口にすること自体が、ここでは――何かに触れる。
私は地図を畳むセレストの手元を見て、無理に笑った。
「……ごめん。変なこと聞いた」
「……いえ」
セレストは淡く返し、地図を抱えて立ち去った。
彼女の背中は、相変わらず小さく、静かで、輪郭が薄い。
私は机の上に残った焼き菓子の包みを見た。
甘い匂いがするのに、今は心が緩まない。
私は立ち上がり、図書館を出た。
*
私は歩きながら、自分の思考が勝手に走り出すのを必死で押さえていた。
下層。半分。薄い地図。公開資料。なぜ。なぜ。なぜ。
――何で?
その問いが、喉の奥で鳴る。
声に出したら、戻れない気がする。
私は立ち止まりかけて、それでも無理矢理に足を進めた。
進めながらも、視線は何度も上に、下に、回廊の縁に落ちる。
「下」という言葉が、身体の感覚を狂わせる。私はずっと「上へ伸びる」世界を歩いていたのに、突然「下」を想像させられる。
想像したことのない方向。
それだけで、世界が不安定に感じる。
――落ち着け。
私は学生だ。今は学生。そう思えば、全部「知らなくていい」で済む。
済むはずなのに。
胸の奥の何かが、どうしてもそれを許さない。
私は知ってしまった。下がある。半分にも満たない国。
私は、自分の指先を見た。
そこには、何もない。
それでも、私は無意識に指輪の位置を探してしまう癖がある。
思記具は、昨日シグと別れた後に外してしまった。
彼は、何かを恐れていた。それが分かるまでは、安易に触れるべきでは無い、と判断した。
ただ今は、混乱している。混乱は危険だ。混乱したまま判断するのが一番危険だ。
――やめて。
私は、自分の思考を押さえ込もうとした。
押さえ込んだ瞬間に、さらに「なぜ」が跳ねる。反発みたいに。
そして、その「なぜ」が跳ね上がった瞬間だった。
「……やあ」
昨日とは違う。優しい声。
私は、止まった。
「……また、偶然?」
「偶然じゃない」
「君が図書館に居たことも、出てきたことも――把握してる」
把握。
その言葉が、私の中の「学生」を剥がした。
私は回廊の外を見るふりをした。
視線を逸らさないと、彼の目に飲まれそうだった。
「ねえ、シグ」
声が少し震えた。
興奮に近い、混乱の震え。
「マグナレオールって……下があるの?」
シグは、答えをすぐに出さなかった。
それは、私が“受け止められるか“を判断するための沈黙。
「あるよ」
短く。
でも、確かに。
私は完全にフリーズした。
頭の中で、さっき見た地図の線がもう一度広がる。
私が見ていたものは、半分にも満たない。
「……なんで」
言いかけて、私は自分で口を閉じた。
シグの視線が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。
「“なんで”は、今は飲み込んでほしい」
私は、反射的に頷いた。
「……じゃあ、どうすればいい?」
シグは少しだけ息を吐いた。
「見に行こう、一緒に」
「え、今から?」
「今から」
言い切る。その言葉に揺らぎはない。
何か、大変な事実を知りかけている気がする。こんなに重大な話をしているのに、この人は「見に行く」と言うだけで済ませる。
「……私を連れて行く、理由は?」
シグは少しだけ視線を外した。
外して、また戻す。
「表向きの理由なら、いくつでもある」
私は眉を寄せた。
「表向き?」
「“下層“の生活圏の確認。都市機能の比較。……君にとっては社会科見学かな」
社会科見学。
その言葉が妙にこの空気に合っていない気がして、私は一瞬だけ肩の力が抜けた。
「……じゃあ、本当の理由は?」
私が聞くと、シグは答えなかった。
答えない代わりに、ほんの少しだけ目が細くなる。
「本当の理由は、僕の側にある」
それだけ言って、彼は歩き出した。
私は慌てて追いかける。
追いかけながら、私は理解した。
彼は、全部を話さない。
話さないことが優しさなのか、危険回避なのか、それすら分からない。
でも、少なくとも――
私を一人で考えさせないために、ここに来た。
それだけは確かだ。
*
シグが案内したのは、上層の「表」から外れた場所だった。
観光客が歩かない。学生もあまり通らない。回廊の光も少し弱い。
水晶構造の中に、扉があった。
扉と言っても、門みたいな豪華さはない。むしろ「気づかれないこと」を目的にしたような、控えめな境界。
シグは指の指輪を一つ、ゆっくりとなぞった。
その動作は癖だ。考え事をするときの、無意識の動作。
次に、彼は懐から小さな装飾を取り出した。
金属と水晶が組み合わさった四角い物体。それは指先ほどの大きさの鍵だ。光は強くない。
「これを使えば、君も入れる」
彼はそれ以上説明しなかった。
扉が淡く光り、境界がほどける。
空気が変わった。乾いていて、冷たくて、古い。
中は、水晶でできた洞窟のようだった。
壁面には薄い結晶の線が走り、足元は滑らかで、音が吸われる。
「……ここ、何」
「通路だよ」
「……通路にしては、厳重すぎない?」
シグは答えない。
答えないまま進む。
私は数百メートル歩いた。
歩くほどに、空気が静かになる。静かになるほどに、心臓がうるさくなる。
そして。
洞窟が、突然終わった。
目の前に、穴があった。
穴という言葉では軽い。大穴。いや、筒。巨大な筒状の空間が、下へ向かって口を開けている。底が見えない。光が落ちていく。
私は、足が止まった。
「ねえ、シグ……これ……もしかして……」
シグは、淡々と言った。
「ああ。落ちる」
――落ちる。
言葉が耳に入った瞬間、私の身体が正直に反応した。
胃が浮くような感覚があり、足が冷える。手のひらが汗ばむ。
「ちょっと待って、シグ!」
「待たない」
「待って!」
「待たない」
「本当に、ちょっと待って!」
私の声が思ったより大きくて、洞窟に反響した。
反響する自分の声がさらに怖い。声だけが先に落ちて行くみたいに感じる。
私は穴の縁から半歩下がった。
「……無理」
「無理じゃない」
「無理だって言ってる!」
シグが困ったように眉を動かした。
彼の表情が動いたのが、逆に怖い。
「リラ」
名前を呼ばれる。
ラグナで呼ばれたときとは違う。今は、引き返させない名前の呼び方だ。
「君、まさか」
シグが少しだけ、声の調子を変えた。
「高いところが苦手?」
私は、目を逸らした。
「……別に」
嘘だった。
私は昔から高いところが苦手だ。苦手というより、怖い。怖いのに、平気なふりができてしまう。世間体を守るために。強く見られるために。仕事の癖で。
でも今は、そんなふりが効かない。
「別にって顔じゃない」
「……見ないで」
「分かった」
淡々と言うのが腹立たしい。
私は思わず睨んだ。睨んでも、彼はびくともしない。
「……絶対に無理、ってほどじゃない」
「ほど…でしょ」
「ほどじゃない!」
言いながら、私は穴の縁を見た。
見た瞬間、膝が少し笑った。
――ほどだ。
悔しい。けど、怖いものは怖い。
シグは小さく息を吐いた。
「……落ちる、って言ったけど」
「言ったけど?」
「落ちる前に、準備がいる」
私はその言葉に救われた気がして、少しだけ息を吸えた。
「準備?」
シグは穴の奥を見下ろしながら言った。
「時に、リラ。君は重力方向変更は得意かい?」
私は一瞬、思考が止まった。
「……重力方向変更?」
「授業でやっただろう」
やった。確かにやった。
でも、授業のそれは小さな範囲だ。コップの水を逆さに流す程度。球体の周囲だけ重力をずらす程度。遊びみたいな実習。
――実際は、大穴に落ちる時に使います。とか、最初から教えてよ!!
こんな、巨大な穴の前に落ちる直前で言われると話が違う。
「……得意、って言えるほどじゃ……」
シグは言葉を遮らず、静かに続ける。
「下層は、重力が逆になっているんだ」
逆。
その一言で、私の頭の中で世界が回転した。
「……え?」
「なぜかは分からないけどね」
彼は軽く言う。
軽く言うのに、言っている内容が重すぎる。
私は穴の縁に立ったまま、動けなかった。
下層。逆。重力。
さっきまで「下がある」だけでびっくりしていたのに、今度は「下は逆」だと言われる。
この国は、一枚じゃない。
この国は、層になっている。
しかも、その層は――ただ重なっているだけじゃない。
私は、穴の底を見下ろした。
見えない。見えないのに、確かに「向こう側」がある。
――見に行く。
シグはそう言った。
社会科見学だと言った。
でも、これはたぶん、見学ってレベルじゃない。
私は、指先を握りしめた。
震えている。怖い。怖いのに、目が逸らせない。
この国の核心に、触れ始めている。
それだけは、分かった。
そして私は、気づいてしまった。
怖いのに――
知りたい。
知ってしまったら戻れないのに、知りたい。
穴の縁で、私は小さく息を吐いた。
その息は白くならない。ここは寒くない。魔法で管理された「適温」の空気が、私の恐怖だけを浮き彫りにする。
シグが、私の横に立った。
距離は近いのに、触れない。それが妙に安心する。
「大丈夫」
彼は優しく言った。
でも、その優しさは甘さじゃない。
「君ならできる。……できないと、落ちた先で困ったことになる」
私は思わず、少しだけ笑った。
脅しみたいな励まし。理性の男らしい。
「……最悪」
「最善だよ」
彼はそう言って、穴の縁へ一歩進んだ。
落ちる準備をするように。
私はその背中を見て、胸の奥が奇妙に熱くなるのを感じた。
惹かれる余裕なんてない。今はそんな雰囲気じゃない。
でも――
この人は、私を一人にしない。
危険な場所に、私を一人で放り込まない。
それがどれほど救いか、私は今やっと理解する。
私は、穴の縁に足を出した。
足が震える。
怖い。
でも、私は逃げない。
そして、シグが静かに言う。
「さあ。落ちようか」
私は奥歯を噛みしめたまま、無理に足を出そうとした。
その瞬間。
指先に、熱が触れた。
シグの手だった。
躊躇がない。
けれど、強引でもない。
ただ、当たり前のように。
私の指を拾い、握る。
彼の手は冷たくない。
力仕事をしない人間の、整った指。
それが今、確かな重みを持って私を繋ぎ止めていた。
「……離していい?」
私は、口だけで強がった。
シグは目を合わせないまま、淡く言う。
「落ちる間だけ」
淡々としているのに、そこだけは譲らない声。
私はため息をついて誤魔化す。
「……手、汗かいてたらごめん」
「構わないよ」
「……気にするでしょ」
「今は、気にする時じゃない」
そう言って、彼は私の手を少しだけ引いた。
引かれて初めて、私は自分が一歩も前に出ていなかったことに気づく。
――怖くて、止まってた。
恥ずかしい。
でも、恥ずかしいのに。
手を繋いでいるだけで、足の震えが少しだけ落ち着く。
私は視線を穴へ戻す。
暗い。深い。吸い込まれる。
私は、握り返した。
ほんの少しだけ。
「いいかい」
シグが、低く言う。
「落ちてしばらくすると、重力の向きが変わる。
上を“下”だと認識しなければいけない」
私は喉を鳴らした。
「……今の説明で、余計怖くなった」
「怖がっていい。判断することは止めないで」
彼はそう言って、穴の縁に足を置いた。
私も同じように、足を置く。
怖い。
怖いのに、手が離れない。
「リラ」
名前を呼ぶ声が、さっきより柔らかい。
「落ちる時は、目を閉じるな。方向を見失う」
「……無茶よ」
「やらなきゃダメだ。必要なことを言ってる」
理性の声。
私は、短く頷いた。
「……分かった」
それを聞いて、シグはほんの一瞬だけ、力を込めた。
大丈夫、と言う代わりの合図。
次の瞬間。
私たちは、同時に足を離した。
落ちる。
マグナレオールの下へ。
逆さの層へ。
――なぜ、かは分からないけどね。
その言葉が、いつか私の喉を焼く予感がした。
ブックマーク、評価、コメント、お待ちしてます。
夜の現在地、という名前でXも更新しています。
作中では触れない設定をつぶやいたりもしていくので、もし良ければフォローお願いいたします。




