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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
“眠る王国“マグナレオール
22/52

“空“の下

マグナレオールとは、世界最大級の王国。


 講義棟の天井は高く、光はいつも均一だった。

 窓の外に雪が舞っていても、室内の温度は変わらない。空気の湿り気すら、一定の値に保たれている。

 マグナレオールの「当たり前」は、いつも人間の都合に合わせて整っている。


 整い過ぎている――そう思うことが、最近は減った。

 減ったというより、思ってもすぐに飲み込めるようになった。

 違和感を違和感のまま抱え続けるのは、体力が要る。ここでは、毎日が忙しい。授業名は増え続けるし、指定文献は容赦なく厚い。課題は、優しい顔をしてこちらの睡眠時間を削ってくる。


 私は、机に頬杖をついて板書を追っていた。

 ――いけない。姿勢。


 内心でそう思いながら、すぐに背筋を伸ばす。そうやって「学生の癖」が身につくのも早い。

 教授の声は淡々としていて、感情の波がない。けれど不思議と退屈しない。話している内容が私にとっては新鮮すぎるのだ。


 「……運用とは、定義の代替ではない。運用は運用だ。君たちに今、求められていることは“動く”ことだ。理解ではない。結果を安定させることだ」


 黒板に、簡潔な図式が並ぶ。

 環境補助系の応用構文。細い線がいくつも走り、それぞれが一定の角度で交わっている。

 その見た目は、いつも美しい。


 私は、その線が好きだった。

 好き、というか――理解できるのが嬉しい。線を追うたび、道が頭の中にできる。抵抗のある部分と、流れやすい部分が分かる。最初の頃は「勘」だったものが、少しずつ「再現できる感覚」に変わっている気がする。


 私、こんなに勉強好きだったっけ。


 授業中にそんなことを考えている時点で、だいぶダメになっている気がする。

 でもその感覚も、嫌ではない。


 教授が視線を上げた瞬間、私は反射的にノートへ視線を落とした。


 ……今、見られた気がした。


 見られていること自体が怖いわけじゃない。

 ただ、ここでは「視線」が何らかの意味を持つ。評価、記録、観測。何かを測る道具のように機能する。それを理解しているからこそ、私は余計な癖を見せたくない。


 ――でも、それもきっと“気のせい“なのかな。


 机の端に置いていた小さな包みが視界に入って、私は思わず口元を緩めた。

 昼の時間にマレイアがくれた、焼き菓子。彼女は「講義の合間に食べると頭が良くなる味」と言っていた。その嘘の勢いが良すぎて、笑ってしまった。


 ああ、やっぱり。


 私は今、完全に学生の顔をしている。

 さっきまでの「評価が」「観測が」という硬い思考は、焼き菓子一つでほどけてしまう。そんな自分も、正直好き。


 講義が終わると、学生たちは静かに立ち上がった。

 ざわめきがない。椅子が引かれる音も、ノートを閉じる音も、全部が吸い込まれていく。私の国の教室なら、必ず誰かが立ち話を始めるし、廊下に出るまでに笑い声が生まれる。


 私は鞄を肩にかけ、包みをそっとしまった。

 受講中に焼き菓子を取り出して食べるタイミングは、未だ見つけられていない。


 今日も――図書館へ向かおう。


 *


 図書館の空気は、教室よりもさらに静かだった。


 私は指定文献の棚の前で、分類記号を追っていた。

 指先で背表紙をなぞる。紙の匂い。古い革の匂い。この匂いが心地よく感じる。


 背後から、控えめな気配。


「……それ、また分類が古いです」


 振り返ると、眼鏡の奥に、澄んだ目。


「こっちが、新版です」


 彼女は淡々と一冊を差し出した。

 余計な言葉はなく、情報だけが正確に届く。


「……ありがとう」


 私が受け取ると、セレストはいつも通り、少しだけ視線を逸らした。


「……どういたしまして」


 私は棚から少し離れ、閲覧席へ向かった。

 途中で、焼き菓子の包みが鞄の中で小さく揺れた。


 ――今食べたら、怒られるかな。


 そんなことを考えながら閲覧席に座り、私は本を開いた。

 けれど、文字を追う前に、ふと腹の奥が鳴った。小さく、情けない音。


 私は思わず頬を押さえた。


 やだ、今?


 誰にも聞かれていないはずなのに、妙に恥ずかしい。


 私は鞄から包みを取り出し、こっそり開いた。

 香りがふわりと立つ。甘い。焼いた砂糖の匂い。中には更に甘みのある果実の気配。


 ちょっと一口。


 ……美味しい。


 私は目を細めた。

 この国の食べ物は基本的に美味しい。でも、甘いものは、なんというか……心が緩む。体だけじゃなく、心が。


 セレストが近くの席に立った。

 いつの間に。気配に全く気づかなかった。


 彼女は私の手元を見た。

 見たけれど、表情は変わらない。


「……甘いもの」


「うん。講義が長かったから……」


 言い訳をしてみる。

 セレストは一拍置いて、小さく言った。


「……好きなんですか」


「好き。……というか、疲れた時に食べると、すごく安心するの」


 セレストは、ただ頷いた。


「……分かります」


 その「分かります」が、妙に胸に刺さった。

 彼女の声はいつも淡いのに、たまに「普通の人」みたいな温度が混じる。


「セレストは、何が好きなの?」


「……食べ物、ですか」


「うん。好きな食べ物」


 私は焼き菓子をもう一口だけかじりながら、彼女の返事を待った。

 セレストは少しだけ迷うような間を作ってから、答えた。


「……母の料理」


 私は目を丸くした。

 その答えが、あまりにも普通で、あまりにも人間らしくて。


「わかる……!やっぱり、お母さんの料理が最高だよね」


 口にしてから、自分の言葉が少し砕けすぎたことに気づいて、慌てて咳払いをした。

 でもセレストは、咎めるような顔をしない。

 彼女はただ、静かに言った。


「……私の出身は、ここではありません」


 私は手を止めた。


「違う国の出身だったの?」


 セレストは、眼鏡の奥で目を動かした。

 ほんの小さな動き。たぶんそれが彼女の「違う」の表現だ。


「……? いえ。この国の“下層”です」


 ――下層。


 言葉が、頭の中で一度止まった。

 意味を理解する前に、音だけが響いた。


「……下層?」


 そう尋ねる声は、自分でも驚くほど間抜けだった。

 セレストは頷いた。頷く動きは小さいのに、その一回で世界が揺れる。


「この国って……下が、あるの?」


 私の言葉は、確認というより、現実に追いつくためのもがきに近かった。

 セレストは淡々と答える。


「あります」


 当たり前のことのように。

 私は息を飲んだ。


 ――そんな話、聞いたことない。


 講義でも、資料でも、回廊の掲示でも、誰も言わなかった。

 言わないのが当たり前だったのか。言う必要がなかったのか。私が聞かなかっただけなのか。


 セレストは、私の混乱を「混乱」として扱わない。

 ただ、情報を積み上げるように言う。


「下層は、私達がいる“上層“のほぼ真下に存在します。下層に関する情報は……ほとんどありませんが」


「ほとんど、ない?」


「図書館の公開資料には、です」


 公開資料。

 その言い方が、私の背中を冷やした。公開されていない資料がある、と言っている。


 セレストは、立ち上がった。


「……少し、待っていてください」


 彼女は棚の奥へ消えた。


 数分後、セレストが戻ってきた。

 彼女が抱えているのは、薄い革で綴じられた――古い地図のようなものだろうか?水晶板じゃない。紙だ。古い紙。


「……昔からある地図です」


 彼女はそれを机の上に広げた。

 紙の上に描かれた線。山の輪郭。白い街の配置。王立大学。回廊の位置。


 そして――その下に、もう一つの輪郭がある。


 私は、理解した。

 言葉じゃなく、形で。


「……私が見ていたものは、この国の半分にも満たなかったんだ」


 声が、震えた。

 恐怖じゃない。怒りでもない。


 ただ、驚いていた。

 自分から見える世界が「全部」だと思っていたことが、あまりにも恥ずかしい。


 セレストは、地図を指でなぞった。


「上層の地図は、多いです。情報も多い。制度も多い。……でも下層は、ほとんど無い」


「どうして……?」


 私は、言いかけて止まった。

 ――やめた方がいい。

 ここで「なぜ」を口にするのは危険だと、身体が先に知っている。


 でも頭の中では、疑問が暴れ始める。


 なぜ?

 どうして?

 誰が?

 何のために?


 私は地図を見つめた。

 今まで見てきた街。完璧な気候。完璧な秩序。完璧な人々。


 それらが、「一つの層で完結している」と無意識に思い込んでいたことに気づく。

 マグナレオールは巨大だ。巨大なのに、私はその巨大さを「上へ伸びる巨大さ」だと思っていた。縦に伸びる山。空に触れる国。


 ――でも、下がある。


 想像もしたことがなかった。

 想像しないように、設計されていたのか。

 それとも、私の感覚が鈍かったのか。


 私は地図の線から目を離せなくなった。

 地図はただの紙なのに、見事に私の世界をひっくり返した。


 セレストは地図を巻き直した。


「……これ以上は、私も詳しくありません」


 彼女の声は平坦だった。

 詳しくない、というより、詳しくしようとしない。

 そこに踏み込む必要がない、と彼女は本気で思っている。


 私は、胸の奥がざわつくのを感じた。

 ざわつきは怖さじゃない。興奮に近い。知りたい。確かめたい。自分の足で見たい。


 ――でも、今の「知りたい」は危険な匂いがする。


 私は地図を見つめたまま、喉の奥で小さく呟いた。


「……なんで、下層を……」


 その瞬間。


 空気が、ほんの少しだけ硬くなった気がした。

 気のせいかもしれない。でも、気のせいで片付けたくないほど、明確な変化。


 私は、口を閉じた。

 セレストは何も言わない。彼女の目も動かない。表情も変わらない。


 なのに。


 私は確信した。

 その質にもよって変化はある。ただ、確実に。

 「なぜ」を口にすること自体が、ここでは――何かに触れる。


 私は地図を畳むセレストの手元を見て、無理に笑った。


「……ごめん。変なこと聞いた」


「……いえ」


 セレストは淡く返し、地図を抱えて立ち去った。

 彼女の背中は、相変わらず小さく、静かで、輪郭が薄い。


 私は机の上に残った焼き菓子の包みを見た。

 甘い匂いがするのに、今は心が緩まない。


 私は立ち上がり、図書館を出た。


 *


 私は歩きながら、自分の思考が勝手に走り出すのを必死で押さえていた。

 下層。半分。薄い地図。公開資料。なぜ。なぜ。なぜ。


 ――何で?


 その問いが、喉の奥で鳴る。

 声に出したら、戻れない気がする。


 私は立ち止まりかけて、それでも無理矢理に足を進めた。

 進めながらも、視線は何度も上に、下に、回廊の縁に落ちる。

 「下」という言葉が、身体の感覚を狂わせる。私はずっと「上へ伸びる」世界を歩いていたのに、突然「下」を想像させられる。


 想像したことのない方向。

 それだけで、世界が不安定に感じる。


 ――落ち着け。

 私は学生だ。今は学生。そう思えば、全部「知らなくていい」で済む。


 済むはずなのに。


 胸の奥の何かが、どうしてもそれを許さない。

 私は知ってしまった。下がある。半分にも満たない国。


 私は、自分の指先を見た。

 そこには、何もない。

 それでも、私は無意識に指輪の位置を探してしまう癖がある。


 思記具は、昨日シグと別れた後に外してしまった。

 彼は、何かを恐れていた。それが分かるまでは、安易に触れるべきでは無い、と判断した。


 ただ今は、混乱している。混乱は危険だ。混乱したまま判断するのが一番危険だ。


 ――やめて。


 私は、自分の思考を押さえ込もうとした。

 押さえ込んだ瞬間に、さらに「なぜ」が跳ねる。反発みたいに。


 そして、その「なぜ」が跳ね上がった瞬間だった。


「……やあ」


 昨日とは違う。優しい声。


 私は、止まった。


「……また、偶然?」 


「偶然じゃない」

「君が図書館に居たことも、出てきたことも――把握してる」


 把握。

 その言葉が、私の中の「学生」を剥がした。


 私は回廊の外を見るふりをした。

 視線を逸らさないと、彼の目に飲まれそうだった。


「ねえ、シグ」


 声が少し震えた。

 興奮に近い、混乱の震え。


「マグナレオールって……下があるの?」


 シグは、答えをすぐに出さなかった。

 それは、私が“受け止められるか“を判断するための沈黙。


「あるよ」


 短く。

 でも、確かに。


 私は完全にフリーズした。

 頭の中で、さっき見た地図の線がもう一度広がる。

 私が見ていたものは、半分にも満たない。


「……なんで」


 言いかけて、私は自分で口を閉じた。

 シグの視線が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。


「“なんで”は、今は飲み込んでほしい」


 私は、反射的に頷いた。


「……じゃあ、どうすればいい?」


 シグは少しだけ息を吐いた。


「見に行こう、一緒に」


「え、今から?」


「今から」


 言い切る。その言葉に揺らぎはない。


 何か、大変な事実を知りかけている気がする。こんなに重大な話をしているのに、この人は「見に行く」と言うだけで済ませる。


「……私を連れて行く、理由は?」


 シグは少しだけ視線を外した。

 外して、また戻す。


「表向きの理由なら、いくつでもある」


 私は眉を寄せた。


「表向き?」


「“下層“の生活圏の確認。都市機能の比較。……君にとっては社会科見学かな」


 社会科見学。

 その言葉が妙にこの空気に合っていない気がして、私は一瞬だけ肩の力が抜けた。


「……じゃあ、本当の理由は?」


 私が聞くと、シグは答えなかった。

 答えない代わりに、ほんの少しだけ目が細くなる。


「本当の理由は、僕の側にある」


 それだけ言って、彼は歩き出した。

 私は慌てて追いかける。


 追いかけながら、私は理解した。

 彼は、全部を話さない。

 話さないことが優しさなのか、危険回避なのか、それすら分からない。


 でも、少なくとも――

 私を一人で考えさせないために、ここに来た。


 それだけは確かだ。


 *


 シグが案内したのは、上層の「表」から外れた場所だった。

 観光客が歩かない。学生もあまり通らない。回廊の光も少し弱い。


 水晶構造の中に、扉があった。

 扉と言っても、門みたいな豪華さはない。むしろ「気づかれないこと」を目的にしたような、控えめな境界。


 シグは指の指輪を一つ、ゆっくりとなぞった。

 その動作は癖だ。考え事をするときの、無意識の動作。


 次に、彼は懐から小さな装飾を取り出した。

 金属と水晶が組み合わさった四角い物体。それは指先ほどの大きさの鍵だ。光は強くない。


「これを使えば、君も入れる」


 彼はそれ以上説明しなかった。


 扉が淡く光り、境界がほどける。

 空気が変わった。乾いていて、冷たくて、古い。


 中は、水晶でできた洞窟のようだった。

 壁面には薄い結晶の線が走り、足元は滑らかで、音が吸われる。


「……ここ、何」


「通路だよ」


「……通路にしては、厳重すぎない?」


 シグは答えない。

 答えないまま進む。


 私は数百メートル歩いた。

 歩くほどに、空気が静かになる。静かになるほどに、心臓がうるさくなる。


 そして。


 洞窟が、突然終わった。


 目の前に、穴があった。

 穴という言葉では軽い。大穴。いや、筒。巨大な筒状の空間が、下へ向かって口を開けている。底が見えない。光が落ちていく。


 私は、足が止まった。


「ねえ、シグ……これ……もしかして……」


 シグは、淡々と言った。


「ああ。落ちる」


 ――落ちる。


 言葉が耳に入った瞬間、私の身体が正直に反応した。

 胃が浮くような感覚があり、足が冷える。手のひらが汗ばむ。


「ちょっと待って、シグ!」


「待たない」


「待って!」


「待たない」


「本当に、ちょっと待って!」


 私の声が思ったより大きくて、洞窟に反響した。

 反響する自分の声がさらに怖い。声だけが先に落ちて行くみたいに感じる。


 私は穴の縁から半歩下がった。


「……無理」


「無理じゃない」


「無理だって言ってる!」


 シグが困ったように眉を動かした。

 彼の表情が動いたのが、逆に怖い。


「リラ」


 名前を呼ばれる。

 ラグナで呼ばれたときとは違う。今は、引き返させない名前の呼び方だ。


「君、まさか」


 シグが少しだけ、声の調子を変えた。


「高いところが苦手?」


 私は、目を逸らした。


「……別に」


 嘘だった。

 私は昔から高いところが苦手だ。苦手というより、怖い。怖いのに、平気なふりができてしまう。世間体を守るために。強く見られるために。仕事の癖で。


 でも今は、そんなふりが効かない。


「別にって顔じゃない」


「……見ないで」


「分かった」


 淡々と言うのが腹立たしい。

 私は思わず睨んだ。睨んでも、彼はびくともしない。


「……絶対に無理、ってほどじゃない」


「ほど…でしょ」


「ほどじゃない!」


 言いながら、私は穴の縁を見た。

 見た瞬間、膝が少し笑った。


 ――ほどだ。


 悔しい。けど、怖いものは怖い。


 シグは小さく息を吐いた。


「……落ちる、って言ったけど」


「言ったけど?」


「落ちる前に、準備がいる」


 私はその言葉に救われた気がして、少しだけ息を吸えた。


「準備?」


 シグは穴の奥を見下ろしながら言った。


「時に、リラ。君は重力方向変更は得意かい?」


 私は一瞬、思考が止まった。


「……重力方向変更?」


「授業でやっただろう」


 やった。確かにやった。

 でも、授業のそれは小さな範囲だ。コップの水を逆さに流す程度。球体の周囲だけ重力をずらす程度。遊びみたいな実習。

 ――実際は、大穴に落ちる時に使います。とか、最初から教えてよ!!


 こんな、巨大な穴の前に落ちる直前で言われると話が違う。


「……得意、って言えるほどじゃ……」


 シグは言葉を遮らず、静かに続ける。


「下層は、重力が逆になっているんだ」


 逆。

 その一言で、私の頭の中で世界が回転した。


「……え?」


「なぜかは分からないけどね」


 彼は軽く言う。

 軽く言うのに、言っている内容が重すぎる。


 私は穴の縁に立ったまま、動けなかった。

 下層。逆。重力。

 さっきまで「下がある」だけでびっくりしていたのに、今度は「下は逆」だと言われる。


 この国は、一枚じゃない。

 この国は、層になっている。

 しかも、その層は――ただ重なっているだけじゃない。


 私は、穴の底を見下ろした。

 見えない。見えないのに、確かに「向こう側」がある。


 ――見に行く。


 シグはそう言った。

 社会科見学だと言った。

 でも、これはたぶん、見学ってレベルじゃない。


 私は、指先を握りしめた。

 震えている。怖い。怖いのに、目が逸らせない。


 この国の核心に、触れ始めている。

 それだけは、分かった。


 そして私は、気づいてしまった。


 怖いのに――

 知りたい。


 知ってしまったら戻れないのに、知りたい。


 穴の縁で、私は小さく息を吐いた。

 その息は白くならない。ここは寒くない。魔法で管理された「適温」の空気が、私の恐怖だけを浮き彫りにする。


 シグが、私の横に立った。

 距離は近いのに、触れない。それが妙に安心する。


「大丈夫」


 彼は優しく言った。

 でも、その優しさは甘さじゃない。


「君ならできる。……できないと、落ちた先で困ったことになる」


 私は思わず、少しだけ笑った。

 脅しみたいな励まし。理性の男らしい。


「……最悪」


「最善だよ」


 彼はそう言って、穴の縁へ一歩進んだ。

 落ちる準備をするように。


 私はその背中を見て、胸の奥が奇妙に熱くなるのを感じた。

 惹かれる余裕なんてない。今はそんな雰囲気じゃない。


 でも――


 この人は、私を一人にしない。

 危険な場所に、私を一人で放り込まない。

 それがどれほど救いか、私は今やっと理解する。


 私は、穴の縁に足を出した。


 足が震える。

 怖い。

 でも、私は逃げない。


 そして、シグが静かに言う。


「さあ。落ちようか」


 私は奥歯を噛みしめたまま、無理に足を出そうとした。


 その瞬間。


 指先に、熱が触れた。


 シグの手だった。


 躊躇がない。

 けれど、強引でもない。


 ただ、当たり前のように。


 私の指を拾い、握る。


 彼の手は冷たくない。

 力仕事をしない人間の、整った指。

 それが今、確かな重みを持って私を繋ぎ止めていた。


「……離していい?」


 私は、口だけで強がった。


 シグは目を合わせないまま、淡く言う。


「落ちる間だけ」


 淡々としているのに、そこだけは譲らない声。


 私はため息をついて誤魔化す。


「……手、汗かいてたらごめん」


「構わないよ」


「……気にするでしょ」


「今は、気にする時じゃない」


 そう言って、彼は私の手を少しだけ引いた。


 引かれて初めて、私は自分が一歩も前に出ていなかったことに気づく。


 ――怖くて、止まってた。


 恥ずかしい。


 でも、恥ずかしいのに。


 手を繋いでいるだけで、足の震えが少しだけ落ち着く。


 私は視線を穴へ戻す。


 暗い。深い。吸い込まれる。


 私は、握り返した。


 ほんの少しだけ。


「いいかい」


 シグが、低く言う。


「落ちてしばらくすると、重力の向きが変わる。

 上を“下”だと認識しなければいけない」


 私は喉を鳴らした。


「……今の説明で、余計怖くなった」


「怖がっていい。判断することは止めないで」


 彼はそう言って、穴の縁に足を置いた。


 私も同じように、足を置く。


 怖い。

 怖いのに、手が離れない。


「リラ」


 名前を呼ぶ声が、さっきより柔らかい。


「落ちる時は、目を閉じるな。方向を見失う」


「……無茶よ」


「やらなきゃダメだ。必要なことを言ってる」


 理性の声。


 私は、短く頷いた。


「……分かった」


 それを聞いて、シグはほんの一瞬だけ、力を込めた。


 大丈夫、と言う代わりの合図。


 次の瞬間。


 私たちは、同時に足を離した。


 落ちる。


 マグナレオールの下へ。

 逆さの層へ。


 ――なぜ、かは分からないけどね。


 その言葉が、いつか私の喉を焼く予感がした。

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夜の現在地、という名前でXも更新しています。

作中では触れない設定をつぶやいたりもしていくので、もし良ければフォローお願いいたします。

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