判断の条件
休日が終わると、大学の空気はまた「規律」に戻った。
でも、その規律は、もう怖くない。
最初は、教室の静けさが不気味だった。
廊下の音が吸われる感覚が気持ち悪かった。
学生たちの視線が、何かを測っているように感じた。
今は、それがここでの日常なのだと感じてしまう。
感じる、というより――そう思うことで、私は安心している。
授業に出る。
実習で魔法を学ぶ。
図書館で資料を探す。
マレイアと昼を食べる。
時々笑う。
それだけで日々が埋まっていく。
ある王国の外交補佐官は、ここでは「学生」の1人だった。
その事実が、嬉しい。
同時に、本来の目的も思い出す。
――でも、今は考えない。
そうやって、私は少しずつ、この国に溶け込んでいく。
*
ある日、図書館。
静かな区画で、私は資料を探していた。
背後から、控えめな気配。
「……それ、分類が一つ古いです」
振り返ると、あの眼鏡。
セレストだった。
「こっちに、新版があります」
本を差し出される。
無駄がない。
「……ありがとう」
私がそう言うと、セレストは少しだけ視線を逸らした。
「……どういたしまして」
気のせいだろうか、前よりも会話が少しだけ、柔らかい。
そして後日。
セレストとまた、図書館で会った日。
私は棚の前で、分類記号を追っていた。
視線の端に、研究着の影が映る。
セレストは近づいてきて、何も言わずに一冊の本を差し出した。
題名は、私が最近よく探していた領域のもの。
私は受け取り、目を丸くする。
「……これ、私が欲しかったやつ」
セレストは頷いた。
「あなた向きです」
短い。
でも、温度がある。
私は思わず笑ってしまった。
「覚えててくれたの?」
一瞬の沈黙。
セレストの眼鏡の奥で、目が動く。
「……記録しているだけです」
嘘。
私はそう思った。
声には出さない。
でも、胸の奥で確信する。
この人は、ちゃんと「人」を見ている。
記録という形にして、距離を保っているだけだ。
私は本を抱えて、少しだけ言葉を選んだ。
「……ありがとう」
セレストは、ほんの少しだけ頷いた。
この会話も、日常になってきている。
――友達、って言っていいのかな。まだ早いかな。
私は結局、それ以上声はかけなかった。
名前を呼び止めることも、次に会う約束を取り付けることもしない。
セレストは、そういう距離を保つ人だ。
そして私も――その距離を壊したくない。
近づこうと思えば、たぶんできる。
彼女の知識も、行動も、癖も、少しずつ見えてきている。
でも彼女は、踏み込まれないことに安心している。
それを、理解している。
私は昔から、そういう空気に敏感だった。
相手が「ここから先は来るな」と言葉にする前に、その線を感じ取って、足を止める。
セレストは、止める人じゃない。
教える人でも、導く人でもない。
ただ、守っている。
知を。
秩序を。
そして、判断しない自分自身を。
――だからこそ。
私が今、心のどこかで感じている“違和感”を、彼女に投げる気にはなれなかった。
これは、まだ私の問題だ。
誰かに預ける段階じゃない。
そう思って、私は歩き出した。
歩きながら、胸の奥の熱をそっと撫でた。
*
図書館で過ごす時間が増えたせいか、私は“静けさ”に鈍くなっていた。
本を読む音。
紙をめくる音。
遠くの足音。
それらが吸い込まれていく空間を、もう不自然だとは思わない。
――最初は、気持ち悪かったのに。
あの静けさは、
人がいない静けさじゃない。
いるのに、音がしない。
見られている感覚はあるのに、視線を感じない。
それを私は、
「管理が行き届いている」と言い換えて、誤魔化してきた。
言い換えた瞬間、
違和感は“感想”に変わる。
それ以上、掘らなくてよくなる。
それが、この国のやり方なのかもしれない。
私は、本を閉じて立ち上がった。
立ち上がる動作すら、
誰かに許可されているみたいに感じる。
でも――不思議と、嫌じゃない。
慣れてしまった。
それが、一番の問題だと分かっているのに。
図書館を出る頃には空気が静まり返っていた。
学生の足音は遠く、回廊を渡る風の音だけが残る。
この国の夕方は、不気味なほど静かだ。
そこに、日常には存在しない違和感がある。
今日に限って、街の色がわずかに噛み合っていない。
光はいつも通りに落ちている。
風も、温度も、湿度も、数値にすれば誤差の範囲だ。
でも、何かが違っている。
影の伸び方が、ほんの少しだけ早い。
水晶の反射が、時間帯に対して半拍ずれている気がする。
――合っていない。
気づいた瞬間、私は自分に苛立った。
こういう違和感を、私は今まで何度も無視してきた。
無視して、そのままやり過ごして、
「ただの学生の一日」に戻ることを選んできた。
でも、それは本当に“やり過ごした”のだろうか。
見なかったことにしただけじゃない?
この国は、完璧に制御されている。
だからこそ、誤差は起きない。
起きないはずの誤差があるなら、
それは“過程”に理由がある。
今、ここで見ているこの微差は――
後で確認しようとしても、もう存在しない。
私は、足を止めた。
学生でいることは、楽だ。
判断しなくていい。
ただ学んで、笑って、眠ればいい。
でも私は、
「気づいてしまった人間」だ。
見なかったふりをした瞬間に、
私は私じゃなくなる。
それが怖くて、
それでも、確認したくて――
私の視線は、半ば無意識に右手の指輪へ落ちる。
――思記具。
触れるたび、心が落ち着く。
思考が整理され、判断が早くなる。
便利で、正確で、危険な道具。
……一度だけ。
どれも誤差と言えば誤差だ。
けれど。この街の誤差は、あらかじめ排除されている筈。
環境制御は時間帯ごとに固定され、揺らぎは許容範囲に収められる。
それを、私は授業で学んだ。
だからこれは、気のせいじゃない。
——この“微差”は、後で確認できなくなる。
私は歩いてきた通りを外れ、回廊の端に立つ。
水晶の梁が影を落とし、視線が届きにくい場所。
ここなら――
指が、思記具の輪郭に触れた時。
「それ、使う気か?」
低い、でも優しさを含む声。
前にも聞いた声。
驚きで身体が跳ねるより先に、
思考が一拍早く浮かぶ。
――どうして、ここに?
振り返る。
そこに立っていたのは、
見覚えのある――けれど、この場所には不釣り合いな人物だった。
派手さのない服装。
指にいくつも嵌められた指輪。
あの時と変わらない。
「シグ……」
一瞬、胸が跳ねた。
でも、それを意識する余裕すらも、彼の表情が奪う。
笑っていない。
柔らかさがない。
目だけが、鋭く私を捉えている。
「……どういう意味?」
私が言うと、シグは小さく息を吐いた。
「ここでは、駄目だ」
シグが言っているのは、
「危険だから」じゃない。
「君が正しい判断をしてしまうから」だ。
思記具は、思考を補助する。
補助という形で、思考を加速させる。
そして――
加速した思考は、
たいてい正解に辿り着く。
正解に辿り着いた人間は、
行動を起こす。特に、私のような人間は。
もしも。行動した結果が、
この国にとって“都合が悪い”場合――
正解を出した人間の方が、
問題になる。
私は、そこまで一瞬で理解して、
何も言えなくなった。
シグは、私がその段階に来ていると判断した。
だから止めた。
それだけだ。
優しさでも、好意でもない。
ましてや、命令でもない。
――今、止めないと間に合わない
その判断を、
彼は迷わず下した。
彼との距離は近くない。
触れてもいない。
なのに、圧がある。
私は指輪から手を離した。
「……偶然?」
「違う」
その一言で、背筋が冷えた。
ラグナでの彼と、雰囲気が違う。
「君がここに来てるのは、把握してる」
“把握”。
その言葉を、彼は意図的に選んだ。
ごまかしが無く、和らげない。
私は視線を逸らし、回廊の外を見る。
「……つけてきたの?」
「必要な範囲での観測」
私は、歯を噛みしめる。
「それ、ただの学生に言う言葉じゃないわ」
「君は、普通の学生じゃない」
間髪入れずに。
私は言い返せなかった。
それは――
ラグナで、彼が最初に見抜いたことでもある。
「……だからって、止める権利は――」
「ある」
重ねて、即答。
シグが一歩だけ近づく。
それだけで、空気が張り詰める。
「ここで思記具を使ったら、
君の“思考”は、君だけのものじゃなくなる」
私は息を呑む。
「……大げさよ」
「大げさじゃない」
声は低く、でも荒れていない。
感情ではなく、判断の声。
「ここは、そういう国だ」
その言葉が、胸の奥に重く沈む。
私は、ようやく彼の目を見る。
あの時に見た、穏やかな横顔じゃない。
雑談をして、街を歩いて、
少し笑っていた男ではない。
これは――仕事の顔だ。
「……どこまで、知ってるの」
私が問うと、シグは一瞬だけ指輪をなぞった。
考える癖。
判断の前の、無意識の動作。
「全てじゃない」
「でも、君が今、
“危ない段階”に入ってることは分かる」
危ない段階。
私は喉が鳴るのを感じた。
「それは……何を……」
「慣れ始めた、って意味だ」
鋭く、気づかせるように彼は言う。
「警戒してる人間は、まだ救える。
でも、“ここが普通”になり始めた人間は――」
シグは、その先を言わなかった。
でも私は、続きを理解してしまった。
救えない、とは言わない。
ただ――戻れない。
上手く、息が吸えない。
反論はできる。
理屈なら、いくらでも組み立てられる。
でも、それが出来ない。
それは、今じゃない。
シグは、私が言葉を探している間、動かなかった。
答えを誘導しない。甘やかしてくれないのだと、私は理解した。
ただ、待っている。
――止める人間は、待つことができる。
「……じゃあ、どうすればいいの」
私がそう言うと、シグは迷わなかった。
「一人で動くな」
それだけ。
命令でも、忠告でもない。
――条件だと、すぐに解った。
「思記具を使う時も、調べる時も、
“踏み込む”判断は、必ず二人でやるように」
緊迫した雰囲気の中で、私は思わず笑いそうになった。
「……それ、監視じゃない」
「違う。ブレーキが必要だ」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。
ラグナで、彼が私の話を遮らずに、
でも結論だけは曖昧にしなかった理由が、
今なら分かる。
この人は――
止める役を引き受ける人間だ。
「……私、信用されてない?」
私の問いに、シグは少しだけ表情を緩めた。
「逆だ。信用してるから、止めてる」
私は、言葉を失った。
それは、
“任せない”という信頼。
「君は、一人で行きすぎる」
責める声じゃない。
それは、理解した上での指摘だった。
「だから、今は僕が横に立つ」
私は視線を落とす。
指の上で、思記具は静かなままだ。
「……分かった」
小さな声。
それでも、シグは聞き逃さなかった。
「約束だ」
「……うん」
それだけで充分だったらしい。
シグは一歩引く。
圧が、すっと抜ける。
「今日は、それだけ」
踵を返しかけて、彼は一度だけ立ち止まった。
「リラ」
名前を呼ぶ声は、
さっきよりもほんの少しだけ柔らかい。
「ここでは、
“見た目が整ってる人間ほど、よく見られる”」
私は顔を上げる。
「君は、自覚がなさすぎる」
それだけ言って、彼は人の流れに紛れた。
後には、
水晶の光と、静かな回廊だけが残る。
私はその場に立ち尽くし、
胸の奥に残った言葉を反芻した。
一人で動くな。
生き残るための、条件。
私は、思記具に触れないように気をつけながら、
ゆっくりと歩き出した。
この国で、私はもう――
一人じゃない。
それが、救いなのか、
それとも、より深い檻への入口なのか。
まだ、判断できなかった。
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