完成された日常
明けましておめでとう御座います!皆様の一年が、良いものになりますように。
あと……五分だけ。
まぶたがその言葉を待っていたみたいに、素直に落ちてきた。
窓の外から、かすかな音が聞こえる。
水晶の梁を駆ける風の音。
どこかで動く通路の、低い振動。
マグナレオールの朝の音だ。
布団の中で、私は小さくうなった。
……五分でちゃんと起きられた私、えらい。
最初の頃はその一つひとつが新鮮で、
耳を澄ませて、意味を探していた。
今は――
ただの目覚まし代わりだ。
私は布団の中で一度だけ寝返りを打ってから、のそのそと起き上がった。
最初の頃なら、飛び起きて窓に駆け寄っていたはずなのに。
髪を指でまとめながら、ぼんやりと思う。
……慣れるものね。
白い街にも。
水晶の光にも。
この国で目覚める朝にも。
鏡に映る自分は、少し気の抜けた顔をしていた。
私は欠伸を噛み殺しながら、服に袖を通す。
最初は気を張って選んでいた身支度も、今では手が勝手に動く。
――まずいな。
そう思いながらも、口元は少し緩んでいる。
机の上には、読みかけのテキストが積まれていた。
構文の図。制度史の年表。環境補助魔法のメモ。
どれも、昨夜の私が眠くなるまで読んでいたものだ。
考えなくていい時間が、増えている。
それが、心地いい。
心地いい、というのが――少し怖い。
私は小さく息を吐いて、現実に戻る。
鞄にテキストを詰める。
講義名が増えていく速度が、恐ろしく早い。
基礎魔法構築学Ⅱ。
魔法回路最適化。
応用補助構文。
環境魔法実習。
術式媒体学概論。
結晶工学基礎。
履修票の文字列は、ほとんど呪文だ。
呪文なのに、読むだけで胸が弾む。
毎日が本当に、楽しい。
私、完全に学生の顔してる。
宿を出て、回廊へ踏み出す。足元の光が薄く伸びて、私の歩幅に合わせて揺れる。
水晶が陽を拾って、私の白い髪に同じ色を重ねてくる。
講義棟へ向かう道で、学生の声がする。
笑っている。議論している。誰かが転びそうになって、誰かが支える。
――この国では、これが日常だ。
日常という言葉が、この国ではずっと眩しかった。
そして、眩しいものは、目が慣れる。
慣れてしまう。
*
その日、私が一番楽しみにしていたのは――環境魔法実習だった。
派手な光を伴う魔法ではなく。
生活に溶け込むような、空間を微調整する魔法。
温度、湿度、音を、ほんの少しだけ。
聞いただけでわくわくする。
――待ちきれない。私、こういうの好きすぎる。
実習室は広かった。白石の床に、細い水晶の線が格子状に走っている。天井は高く、光は一定で、空気が整っている。整いすぎている。
中央は、区画がいくつも切られていた。小さな部屋が並んでいるような配置だ。各区画には簡素な机と椅子、そして水晶の器具が一つ。
教授は若い男性で、目が鋭い。声は静かで、言葉が少ない。
だが、その少なさが、実習室の空気にぴたりと合っていた。
「環境補助魔法は、成果が見えにくい。ゆえに、誤用されやすい」
教授は淡々と言った。
「見えにくいものは、過剰にする者が出る。過剰は必ず綻びを生む。だから――今日は“微差”だけを扱う」
学生たちが頷く。
私も頷く。
微差。
私の得意分野だ。
――って言うと、なんか嫌な感じだけど。
でも、本当に得意なのだ。
教授が水晶板を机に置くと、床の格子の一部が淡く光った。実習区画が、順番に呼吸するみたいに明滅する。
区画に番号が割り当てられたのだと、直感で分かった。
「各自、自分の区画へ。今日は温度と湿度。二つだけ。音は次回」
私は区画に入り、机の前に座った。器具は小さな水晶の筒。筒の内側に薄い線が走っている。
図式が、最初から刻まれているのが分かる。
教授が続ける。
「図式は単純だ。だが単純なほど、歪みが発生しやすい。焦るな。結果を急ぐな。――“適用範囲”を間違えるな」
適用範囲。
魔法は出力ではなく、範囲。
結果ではなく、影響。
空間に働きかける魔法の場合、それを認識して、正しく測ること。
私は息を吸って、吐いた。
――流す。
筒の内側の線が、私に向けて「道」を提示している。
道があるなら、流せる。
最初の魔法は、温度を一度だけ下げる。
一度。ほんの一度。
私は構文をなぞり、流れを合わせた。
水晶の筒が淡く光る。区画の空気が、ほんの少しだけ涼しくなる。
成功。
――うわ、楽しい。
ここで私は、やってしまった。
次の課題。
湿度を、ほんの少しだけ整える。
本来なら、ここで慎重に、ゆっくり図式を確認し直すべきだった。
でも、私の中に「答え」が先に来る。
線が見える。道が見える。抵抗が解る。
どこを通せば最小の負荷で整うか――その「最適」が、最初からそこにある。
私は、無意識に最適へ手を伸ばした。
水晶筒が、澄んだ光を返す。
区画の空気が、きれいに整った。
整い方が、きれいすぎた。
周囲の区画はまだ、わずかに揺れている。
湿度が定まらず、温度が一定にならず、学生たちの呼吸が乱れている。
私の区画だけが――静かだ。
……しまった。
顔を上げた瞬間、
目の前に教授がいた。
いつからそこに立っていたのか分からない。
足音も、気配も、何も思い出せない。
教授は、私を見ている。
何も言わない。眉も動かさない。表情も変えない。
ただ、目だけが、こちらに向いている。
私は、反射的に身体を強張らせた。
目立ちたかった訳じゃない。
ただ、できた。できてしまった。
教授は水晶板に指を滑らせた。
壁際に浮かぶ薄い水晶板が、淡く光って文字を走らせる。
――恐らく。記録だろう。
私の喉が、少しだけ渇いた。
教授は何も言わないまま、次の指示を出す。
「温度と湿度の“同時制御”へ進む。焦るな。二つを同時に整えると、必ず片方が暴れる」
学生たちの空気が引き締まる。
私も頷いた。
でも、胸の奥では別の声が弾んでいた。
――同時制御。やりたい。絶対、やりたい。
でも、また――
上手く行き過ぎてしまったら?
さっきの視線。
水晶板に残った記録。
教授の、何も言わない目。
少しだけ、怖い。
今日は押さえたほうがいい。
”普通”に、やるんだ。
私は息を整えて、慎重に図式を観察する。
水晶筒の内側の線が、二層に見える。
道が二本。流れが二つ。
同時に流す。
普通なら難しい。
普通なら。
私の中で、道が一本に重なる感覚があった。
二つが喧嘩しない形。抵抗が最も少ない形。
その形が、最初からそこにある。
私は流した。
水晶筒が光る。
区画の空気が――「ぴたり」と決まる。
温度、湿度が共に一定で、揺れがない。
息を吐いた瞬間、私は自分が笑いそうになるのを抑えた。
……完璧!これ、最高。
けれど、笑う暇はなかった。
周囲の区画の空気が少し荒れている。
誰かが失敗した。湿度が上がりすぎ、温度が下がりすぎ、区画に薄い霧が生まれる。
「落ち着け。魔法を解け」
教授の声は静かだが、強く響く。
学生が慌てて魔法を解除し、霧が引く。
事故にならないように設計されている。
それがこの国らしい。
私は、自分の水晶筒をそっと撫でた。
――魔法が、体に馴染んでいく。
それが嬉しくて仕方ない。
実習が終わる頃には、私の指先に「線」が残っている気がした。
図式を理解し、なぞる感覚。流れに合わせる感覚。
触れたことのない新しい技術が、馴染んでいく。
そしてその馴染み方が――早すぎる。
廊下へ出ると、学生たちの視線が少しだけ私を追った。
悪意ではない。
警戒でもない。
ただの興味から来るもの。
その興味が、私には少し怖い。
――これ、私は普通にやってるだけなのに。
私の普通は、ここでは「普通」じゃないのかもしれない。
そういう感覚が、じわりと胸に残った。
*
マレイアとは、気づけば「最初から仲が良かった」みたいな距離になっていた。
彼女の人との距離の図り方が上手すぎるのだろう。
講義棟の階段を下りると、彼女はだいたいどこかにいる。
いなければ、見つけてくる。
見つけられなければ、先に決めておいた合流場所に立っている。
――この子、待ち合わせの精度が高すぎる。
ある日、私が図書館へ向かう回廊を歩いていると、背後から声が飛んできた。
「リラ!また早歩き!」
「……早歩きじゃないわ」
「うそ。今の歩幅、戦場の人だよ」
戦場の人、って何。
「荷物、持つ!」
「持たなくていい」
「持つってば!」
腕が伸びてくる。
拒否する隙がない。
彼女は私の鞄を取って、肩にかけた。
その仕草が、妙に慣れている。
「リラってさ、たぶん私が思ってるより強いよね」
「そんなことないわ」
「強いよ。だって目が強い」
私は思わず笑いそうになった。
「マレイアは、いつも元気よね」
「元気!あと、甘いのが大好き。あ!それと。リラと話すのも大好きよ」
直球すぎる。
私は息を吐いた。
「……私も、嫌いじゃない」
「え?いま、“大好き”って言った?」
「言ってない」
「言った言った。ほら今の顔。絶対言ったよね!」
この子は、私の表情を読むのが妙にうまい。
ルシアみたいに「全部見えてる」わけじゃないのに、違う意味で逃げ道を塞いでくる。
それが不思議と、嫌じゃない。
――居場所って、こういう感じなのかもしれない。
*
図書館へ通う頻度も増えた。
授業で指定される資料を探すだけの目的じゃない。
読んでみたい本が増えてきた。
図式の理論。
国の制度の歴史。
結晶工学の基礎。
魔法回路の最適化。
そして――たぶん、ここでは誰も本気で語らない「第三段階」。
魔法が及ぼす結果を、判断する。
その輪郭に触れたくて仕方がない。
だけど、触れ方を間違えると何かが壊れる気がして――私はそこには手を出さない。
代わりに、基礎を積むことにした。
積めば積むほど、疑問が増える。それすらも楽しくて仕方がない。
この国に来てから、
考えなくていい時間が増えた気がする。
いや、正確には違う。
考えることは増えている。
でも、それは「生き残るための思考」じゃない。
学ぶための思考だ。
それが、楽しい。
ある日の午後。
資料管理の演習で、私はまた棚の前で立ち止まっていた。
指定された分類番号は、確かに存在する。
索引にも載っている。
なのに棚にない。
空白。
あの時と同じ。
私は棚の背を指でなぞり、少しだけ奥へ目を向けた。
古い木の匂い。
水晶の反射が弱い、暗い区画。
あそこには、入ってはいけない。
資格がない――とあの人に言われた。
私は足を止める。
止めた自分に、少し驚いた。
――私、ちゃんと止まれるんだ。
その瞬間、背後から紙を擦るような音がした。
振り返る。
小柄な影。研究着。大きな眼鏡。
黒に近い、深いブルーの髪。
彼女は、前回と同じように本を差し出した。
私が探していた資料。
――また、だ。
「……ありがとう」
私がそう言うと、相手はわずかに目を動かした。
表情はほとんど変わらない。
「……どうして分かるの?」
相手は一拍置いて、短く言った。
「動線が、同じだからです」
動線?
私は思わず眉を上げた。
「私の?」
相手は頷いた。
「探す順番。視線の動き。迷う場所。……あなたは、同じ」
私は本を受け取り、少しだけ笑った。
「……観察されてるのね、私」
冗談のつもりだった。
けれど――相手の目が、ほんのわずかに揺れた気がした。
「観察ではありません」
小さく、否定。
「記録です」
記録。
その単語に、私は妙な不安を覚える。
私は、本を抱え直して言う。
「あなたの、名前は?」
相手は一瞬だけ迷ったように見えた。
迷いが見えたことが、私は嬉しかった。
無機質な存在じゃない。人だ。
「……セレスト・アインヴァルです」
「セレスト」
口にすると、中性的な響きが舌の上で転がった。
澄み切った空、人知れず輝く星。そんな印象が胸に残る。
「私はリラ・ヴェルノア」
「知っています」
即答。
それが妙に可笑しくて、私は少し笑った。
「知ってる、じゃなくて。……改めて、ね」
セレストは眼鏡の奥で、目を動かした。
微細な動き。
たぶん、それが彼女の「困った」の表現なのだと、私は勝手に解釈する。
「……改めて」
小さく返される。
会話はそれだけで終わった。
彼女は、それ以上踏み込まない。
私も踏み込まない。
でも――拒絶ではない。
私はそのことが、少しだけ嬉しかった。
*
今日は、休日。
私は少しだけ高鳴る胸を抑えながら、身支度を整えた。
膝にかかる丈の上着は、落ち着いた暗色で、余計な装飾がない。
前を閉じると線がすっと縦に落ち、開けば白色が目立つ。
首元まで柔らかく覆う白い布は、私の肌色に近く、安心感がある。
下は動きやすく、無駄のない細さのパンツ。
足首まで包む靴は、歩くたびに静かな音を立てる。
――うん。今日は、ちゃんとしてる。
学生としても、ひとりの人間としても。
宿の前で待っていたのは、もう見慣れた栗色だった。
「遅いー!」
そう言いながらも、声に本気の不満はない。
マレイアは手を振りながら、こちらへ小走りで近づいてきた。
彼女の服は、明るく、軽い。
首元には私と同じ色の服が見えていて、そこからふわりと広がる色の層が、身体の動きに合わせて揺れる。
短めのスカートから覗く膝と、そこから繋がる長い靴が、全体をすっきりとまとめている。
髪は額を出すようにまとめられていて、光を受けるたび、金に近い色がちらついた。
私は一瞬それを見て、思わず口にした。
「……すっごく、可愛い」
「嬉しい!リラは何ていうか、すっごくクールで綺麗。それに……」
マレイアが、ぱっと笑う。
「被った! 今日のわたしたち、ちょっとおそろいじゃない?」
「偶然にしては出来すぎてるわね」
「でしょ。もう運命でいいよね」
こういう会話も、もうすっかり日常になった。
初めて話した日のぎこちなさは、どこにもない。
気づけば、隣を歩く距離も、言葉を挟むタイミングも、当たり前のように揃っていた。
「今日はどこから行く?」
「マレイアが決めて。休日の主導権は、案内役にあるのよ」
「よしきた!」
マレイアは嬉しそうに頷き、迷いなく歩き出す。
私はその背中を見ながら、微笑んだ。
――ここに来てから、こんなふうに誰かと過ごすのは、初めてかも。
休日のマグナレオールは、平日とは違う表情を見せる。
研究着や学生服が減り、色とりどりの布が増える。
水晶の回廊には、急ぐ足音ではなく、散策する足取りが満ちている。
上層から見下ろす位置にある通路に出ると、街全体が一枚の絵のように広がった。
白い建築が光を抱き、その間を縫うようにある透明な水晶が、光を受け渡しているようだ。
「私ね、ここが好き」
マレイアが言う。
「ここにある全部が、ちゃんと“生きてる”って感じしない?」
「……するわね」
私は視線を巡らせる。
確かに、ここはただ美しいだけじゃない。
動きがあり、呼吸があり、人の生活が溶け込んでいる。
――完璧な、美しさ。でも、温かみがある。
その感覚が、心地いい。
*
昼時が近づいた頃、マレイアは迷いなく屋台の並ぶ一角へ向かった。
「ここ!絶対外さないから!」
香ばしい匂いが漂ってくる。
焼かれた肉と、軽く甘い香り。
並んでいるのは、丸い形に成型されたパンの間に肉、野菜……その他にも色々な物が挟まっていて、非常に美味しそうなものだった。
パンの表面は艶を纏っており、具材がこれでもかと主張するようにぎゅっと収まっている。
「結晶酵母で作った、この国の名物なの」
マレイアが説明する。
「ちょっとだけ小さく見えるんだけど、ちゃんと満足感あるの。ほら、これとか」
次々と指を差され、私は思わず視線を泳がせた。
「あ……それも美味しそう」
「こっちも、気になる」
無意識に声が漏れる。
マレイアはそれを見て、にやりと笑った。
「選べないんでしょ」
「仕方ないでしょ。全部、私に食べてほしいって言ってるんだもの」
「はいはい。じゃ、今日はまず一つね」
そう言って、私の背中を軽く叩く。
少し残念で、でも納得している自分がいるのが悔しい。
中庭に近い席に座り、包みを開く。
一口。
外は軽く、中はしっかりしている。
噛むと、暴力的なまでの肉の香りが広がる。でもその後に、少し酸味があって爽やかな後味が続く。
「……美味しい」
「でふぉ!」
マレイアは自分の分を口一杯に頬張りながら、満足そうに頷いた。
「リラってさ」
「なに?」
「美味しいもの食べてる時、ほんと分かりやすい」
「……どういう意味かしら」
「目がね、すっごく正直」
私は一瞬言葉に詰まり、視線を逸らした。
*
ランチタイムの後は、あてもなく歩いた。
水晶の橋を渡り、街を見下ろし、また上へ戻る。
途中で甘い飲み物を買って、半分こして。
時間が、溶けていく。
私は気づいた。
今日は一度も、国のことを考えていない。
均衡も、制度も、判断も。
ただ――楽しい。
「ねえ、リラ」
マレイアが、不意に言った。
「ここ、好き?」
私は即答した。
「うん。……かなり」
「よかった」
それだけ言って、彼女はまた歩き出す。
理由を聞かなくていい距離。
それが、今の私たちの関係だった。
この国で、私は居場所を作り始めている。
学生として。
誰かの友人として。
そして、その安心が――
いつの間にか、違和感を覆い隠していることに、
私は気づいていたのに。
それでも今は、気づかないふりをする。
だって。
今日も、明日も。
この国は、あまりにも心地がいいから。
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夜の現在地、という名前でXも更新しています。
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