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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
“眠る王国“マグナレオール
17/21

バラルキューザの祭り

 朝の光が、白くて柔らかい。プレガーテの谷の朝は、目を刺さない。

 リラは祖母の布団の端に座って、まだ半分ほど眠いまま、その髪を指先でそっと撫でた。


 指に触れる一本一本が、驚くほどしなやかだ。九十二歳の髪なのに、高級な絹のような輝きを持っている。

 銀に近い白。薄い光を含んだ色。陽が当たると、すうっと透ける。


「……いつ見ても、綺麗ね」


 声にした瞬間、母が台所から顔を出した。木製のレードルを片手に、寝癖も直さずに。


「昔からママの家系はね、いくつになっても艶があるのよ。ほら、あなたも」


「私?」


「そう。鏡を見てみなさいな」


 リラは苦笑して、指で自分の髪を摘む。銀髪。白に寄りすぎない、月の光みたいな色。母に似た遺伝だと、最近になってやっと腑に落ちた。谷の人々は総じて薄い色が多いけれど、薄さの質がそれぞれ違う。

 灰に近い人もいれば、金の淡い人もいる。栗色でも、薄い。光を飲んだような淡さだ。


 祖母は何も言わない。ただ、リラを見ている。

 その視線だけが、今日はやけに重い。


 リラは少しだけ背筋を伸ばす。

 見られている、という感覚が嫌なのではない。谷の視線は、裁かない。ただ、知っているだけだ。


 祖母の目も、薄い。淡い。

 谷の人々に似た色。けれど祖母の目は、その薄さの中に、ほんの少しだけ深い影を持っている気がする。


 リラは祖母の手を握った。

 祖母の指は温かい。骨ばっているのに、柔らかい。


「……おばあちゃん。今日、何しよっか」


 祖母は笑った。声は出ない。でも、笑った。

 その笑いに、リラの胸の奥の緊張がほどけていく。


 母が湯気の立つスープを並べながら、急に思い出したように声を弾ませる。


「そういえば、明後日! バラルキューザの祭りの日ね!」


「え」


 リラは顔を上げた。


「うそ、忘れてた」


「忘れてたの!? あなた、子どもの頃から前日まで忘れてるの!」


「私、城の人間になったのに、成長してない……」


「成長してる人は、忘れるのよ。忙しいんだから」


 母はよく分からない理屈でリラを肯定し、嬉しそうに続けた。


「衣装、久しぶりね。あの白。金の刺繍。オレンジのスカーフ。あなた、また大人っぽくなったから、絶対似合うわよ」


 リラは思わず笑ってしまう。


「似合うとか、そういう祭りじゃないでしょ」


「いいの。似合うのは素敵なことよ」


 リラはスープに口をつけて、その返事を曖昧にした。

 胃が目を覚まし、身体が少しずつ、ここに戻ってくる。


 帰ってきた。

 この感覚が、しみ込んでくる。


 祖母の視線が、またリラを撫でる。

 言葉はない。けれど、語らないことで守っているものがあるのだと分かる。


 *


 バラルキューザの準備は、明後日なのに今日から始まっている。


 広場の片隅で、太鼓が鳴る。

 笛の音が追いかける。

 子どもが見よう見まねで踊って、足がもつれて転んで、また立ち上がる。


 意味はもう誰も知らない。

 歌詞も、もはや正確じゃない。

 でも、身体だけは覚えている。


 リラはそれを見て、胸がきゅっとなる。

 理屈では説明できない種類の懐かしさだ。


 母が隣で、楽しそうに手を叩く。


「ね。いいでしょ」


「うん……素敵ね」


「あなた、踊りはまだ覚えているの?」


「踊れる……はずよ」


「そうよねぇ……」


「何よママ! 踊れるわ、多分……」


 母は笑って、リラの背中を軽く押した。


「じゃあ、明日から練習ね」


「え」


「え、じゃない。逃げちゃダメよ」


 リラは頷いた。


「……練習する」


 その返事に、母が満足そうに笑った。


 *


 祭りの日。


 朝から谷の空気が違う。

 匂いが甘い。焼き菓子の香り。煮込みの香り。布を叩く音。


 リラは母に捕まって、衣装を着せられていた。


 白を基調とした上衣。ワイシャツに似ているが、布は厚く、袖はゆったり。

 胸元と袖口には金の刺繍。繊細な線で、古い模様が各所に散らばっている。

 下はオレンジのロングスカート。動くと布が波のように揺れる。

 そして、谷の全員が同じオレンジのスカーフを首に巻く。


「……久しぶりだね、これ」


 リラが呟くと、母が目を潤ませた。


「大きくなったわね……」


「え、いきなり泣くの?それに、私もう二十六歳よ!?」


「泣いてない! 目に世界が入っただけ!」


「世界が入っただけは意味わかんない」


 母は笑いながら、リラの襟元を整える。

 その指が優しい。細かいところまで丁寧だ。


 鏡に映った自分は、少し違う。

 城の服でも、ヴァルデンの服でもない。

 ただ、谷の人間の姿だ。


 外に出ると、同じ衣装の人が広場に集まり始めていた。

 白が揺れ、金が光り、オレンジが燃えるようなアクセントになっている。


 リラが歩いていると、向こうから同じ白の上衣を纏ったルシアが来た。

 オレンジのスカーフをきっちり結び、淡い栗色の髪が朝日に柔らかく光る。


「……ルシア」


「なに」


 ルシアはリラを上から下まで一瞬見て、淡々と言う。


「似合ってる」


 リラの胸が跳ねる。


「それ、私が言おうとしていた事よ!」


「今しか言わない」


「……ずるい」


「リラも言えば」


 リラは負けたくなくて、ルシアを同じように見た。


「ルシアも……似合ってる。すごく」


「知ってる」


「うわ」


「うわ、じゃない」


 二人で顔を見合わせて、同時に笑った。

 ルシアと笑い合うこの時間は、肩の力を抜ける。


 太鼓が鳴る。

 笛が歌いだす。

 広場に輪ができる。


 上手い下手は関係ない。

 足がもつれても、笑われない。

 笑われても、悪意がない。


 輪が動き始める。

 白が回り、金が揺れ、オレンジが波になる。


 リラも輪に入った。


 最初の一歩。

 次の一歩。

 手を上げ、下ろし、足を踏み、回る。


 身体が思い出す。

 頭より先に、心が覚えている。


 呼吸が揃う。

 隣の人の息が、自分の胸に響く。

 輪の中心に、何もないのに、何かがある気がする。


 リラの目の奥が、急に熱くなった。


 理由が分からない。


 ただ、涙が滲む。


 泣くつもりなんてなかった。

 悲しくない。

 寂しくもない。


 なのに、こみ上げてくる。


 胸の奥が、ぎゅっと締まって、それがほどけていく。


 世界と共に生きる喜び。

 その意味は失われているはずなのに――身体がそれを知っている。


 リラは瞬きをして、涙を落とさないように耐えた。

 でも、視界の端が滲む。


 その瞬間、風がひとつ、輪の中を通った。


 谷の風はいつも穏やかだ。

 けれどその風は、確かに温度が違った。


 冷たいわけじゃない。

 温かいのでもない。


 何かが、こちらを見た。

 そう感じた。


 リラの背中に、ぞくりとしたものが走る。


 怖さじゃない。

 触れられたような感覚。


 ほんの微細な、応答。


 リラは息を呑み、踊りながら空を見上げそうになって、ぐっと堪えた。

 今は、輪を崩したくなかった。


 輪は回り続ける。

 太鼓が鳴り続ける。

 笛が空気を切り続ける。


 谷が、ひとつの呼吸になる。


 *


 祭りの後片付けは、笑いながら進む。


 布が畳まれ、器が運ばれ、薪が片づけられる。

 誰かが転んで笑われ、別の誰かが助けて笑う。


 夕方、広場の端。少しだけ離れた場所で、リラはルシアと並んで座った。

 まだ着たままの衣装は、まるでオレンジが夕日に溶けているようだ。


「泣いてた」


 ルシアが淡々と言う。


「泣いてないわ」


「滲んでた」


「……うぅ」


 リラは負けを認めて、膝を抱える。


「理由は分からない。けど、涙が出てきたの」


「そう」


 ルシアの言い方はいつも通りなのに、どこか優しい。


 少し沈黙が落ちて、ルシアがふと思い出すように言った。


「……ルシア・ミラエン」


 改めて聞くと、妙に響きが古い。

 谷の石みたいな響きだ。


「どうしたの?急に。ルシアの本名なんて知ってるわ」


「……今朝、祖父に呼ばれた」


「ルシアのおじいさん?」


「聞いちゃったのよ。大人たちの話」


 リラの背中が少し硬くなる。


「……何か、重要なこと?」


「それは、分からないけれど。

あなたのお母さんが、うちの母に言ってた。

目の色が変わった気がするって」


 リラは喉が渇く。


「それで、ルシアのおじいさんが?」


「……断片だけ」


 ルシアは言葉を選ぶようにゆっくり続けた。


「ヴェルノア家と、ミラエン家は……昔から何かを守ってきた。何を守ってきたかは、はっきり分からない。だけど、“世界”って言葉が出た」


 リラの胸が、さっきの踊りの感覚を思い出す。


 応答。

 触れられた感覚。


 あれは気のせいじゃないのかもしれない。


 ルシアが少しだけ声を落とす。


「祖父はこう言ってた。昔、世界は人間を嫌ったことがあるって。だから、目立つなって」


「……人間を、嫌った」


 その言葉が、胃の奥に落ちる。


 リラは息を吐く。


「大人たちは、何かを知ってるのかな」


「知ってるっていうより……抱えてる。分からないまま」


 ルシアの言葉が、妙に正確だった。

 大人たちは何かを隠しているわけじゃない。

 長い歴史の中で、語り継がれてきたものがほとんど失われているのかもしれない。


 リラは唇を噛んだ。


「……リラは、マグナレオールへ行くのよね」


 ルシアは淡々としながらも、視線だけは真剣だった。


「今までより、余計に……気をつけて」


「うん」


 リラは頷く。


 その頷きの中に、怖さもある。

 でも、それだけじゃない。


 知りたい。

 この違和感の正体を。

 大人たちが抱えている曖昧な影を。

 そして自分の目の色が変わった理由を。


 ルシアはそれ以上言わない。

 言わないまま、リラの肩に自分の肩を軽くぶつけた。


 大丈夫、って言わない代わりの仕草。

 ルシアはそういう人だ。


 *


 祭りの熱が引いた谷は、また静寂に戻る。

 だけど今日は、静寂が少しだけ重い。


 リラは家に戻り、廊下を歩きながら、ふと立ち止まった。


 立ち入り禁止の部屋。

 昔から、そこだけは開けてはいけないと言われていた。


 理由はない。

 理由がないことが、余計に気になっていた。


 リラが扉の前で立ち尽くしていると、背後から足音がした。

 父だ。


 父は何も言わず、扉の前に立つリラを見て、それから扉に手を置いた。

 そして、静かに扉を開く。

 まるで中に何かが息をしているのを、刺激したくないみたいに。


 父が振り返る。


「……お前には少し、話しておかなければいけないことがある」


 声がいつもより低い。

 厳格さの奥に、揺れがある。


 リラは思わず、背筋を伸ばした。


 父が先に中へ入る。


 部屋は、思っていたよりも狭かった。

 そして――拍子抜けするほど、何もない。


 家具も、飾りも、窓すらない。


 ただ、床と壁と天井。

 古い石と木が組み合わさった、無骨な空間。


「……なにも、ないね」


 思わず口にすると、父は首を横に振った。


「“見えるもの”はな」


 父は部屋の中央まで歩き、そこで立ち止まった。

 その足元に、ほんのわずかな段差がある。


 意識しなければ気づかないほどの、歪み。


「この部屋は、隠すための場所じゃない」


 父は、静かに言った。


「“残すための場所”だ」


 リラは息を詰めた。


 耳が、きん、と鳴る。


 何かがある。

 確実に、ここには何かがある。


 この部屋に入った瞬間から、

 谷の他のどことも違う感覚が、肌にまとわりついている。


 静かすぎる。

 音が吸い込まれている。


 心臓の音が、やけに大きく聞こえる。


 リラは、無意識に目を細めた。


 その瞬間。


 ――見られている。


 誰かに、ではない。

 “何か”に。


 父が、低く言う。


「……目を凝らすな」


 その声は、命令ではなかった。

 懇願に近い。


「今のお前には、まだ早い」


 リラは、はっとして視線を戻した。


「……なに、ここ」


 喉が渇く。


 父は、答えなかった。

 代わりに、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「昔から、ここは“触れない部屋”だった」


「守るため?」


「違う」


 父は、一度だけ目を伏せる。


「“起こさないため”だ」


 その言葉が、妙に耳に残る。


 父は、部屋の壁に手をついた。

 まるで、そこに刻まれた何かを確かめるように。


「ここにあるのは、物でも、記録でもない」


「……じゃあ、なに?」


 父は、リラを見た。


 まっすぐに。

 逃げ場のない目で。


「“判断の痕跡”だ」


 リラの胸が、どくんと鳴る。


「世界が、かつて誰かに委ねたものの、残り香だ」


 説明になっていない。

 でも――身体は、何かを感じている。


 父は、少しだけ声を落とした。


「お前自身の変化も……ここに繋がっている」


 リラは、何も言えなかった。


 父は一度、息を吸う。

 言葉を探す人の息だ。


「ヴェルノア家と、ミラエン家は……守り手だと言われてきた」


「守り手?何からの?」


「何を守っているのか、正確には誰も言えない。語り継がれた言葉は、曖昧で、欠けている。だが、ひとつだけ共通している」


 父の目が、リラの目を見た。


「……その目だ」


 リラは息を止める。


 父は言う。


「谷の者の目の色が似ているのは、偶然じゃない。俺の祖先の直系に近いほど淡くなるのも、意味がある。お前の目は……変わり始めている」


 母が言った言葉が、ここで繋がる。


 父の声が少しだけ硬くなる。


「大切な目だ。意思を……感じ取る目だと、言い伝えられてきた」


「意思?」


「物の意思。土地の意思。風の意思。人の意思。……そして、世界の意思」


 その言葉が、胸の奥を打つ。

 バラルキューザの輪の中で、確かに感じたものがある。


 父は続ける。


「俺は、お前に何かを隠しているわけじゃない。……俺にも、輪郭しかない」


 その告白は、父らしくなかった。

 父はいつも、確信のある言葉しか言わない人だった。


 なのに今、父は曖昧さをそのまま差し出している。


「俺が知っているのは、こうだ。ヴェルノア家とミラエン家は、何かを守ってきた。何かを繋いできた。そして、その秘密の多くが……マグナレオールに眠っている、と」


 リラの喉が渇く。


「……マグナレオールに」


 父は頷く。


「だから、お前がそこへ行くことは……偶然じゃないのかもしれない」


 偶然じゃない。

 その言葉の重さが、リラの背中を押すのか、押し潰すのか。


 父の眉がわずかに寄る。


「昨日、お前の母が言った。目の色が変わった、と」


 父の声が少しだけ揺れた。


「俺は……その瞬間に気づいた。お前に、何かが迫って来ている。使命と呼ぶには大きすぎるものが」


 父が、狼狽えている。

 それを初めて見た。


 リラの胸が痛む。

 父の厳格さは、いつも自分を守る壁だった。

 その壁が、今だけ揺れている。


「……パパ」


 リラが呼ぶと、父は少しだけ目を閉じた。


「お前に背負わせたくない。だが背負わせない選択も、もう出来る段階ではないのかもしれない」


 リラは言葉を失う。

 個の範囲を超えた話な気がするのに、具体がない。

 何をすればいいのか分からない。


 ただ、胸の奥で分かることがある。


 父は情報を惜しんでいるんじゃない。

 本当に分からない。

 分からないまま、守ってきた。


 それでも父は、ひとつだけ確信しているように見えた。


 世界には秘密があり、それをリラが突き止める。

 そう、本能で察している。


 リラは息を吐いて、ゆっくり頷くしかなかった。


 父の目が、少しだけ柔らかくなる。

 でも、すぐに厳しい顔に戻る。


「逃げるな。だが、焦るな。世界を相手にするなら、急ぐな」


「……うん」


「そして、ひとつ」


 父は言い切る前に、少しだけ言葉を飲み込んだ。


「帰ってこい」


 昨日と同じ命令。

 でも今日は、さらに重い。


 リラは頷いた。


「うん。帰ってくる」


 父はそれ以上何も言わない。

 ただ、リラの肩に手を置く。短く。確かに。


 その手が、震えていないことが救いだった。

 震えていたら、リラはきっと泣いていた。


 *


 谷を出る朝。


 リラとルシアは並んで歩いた。

 山嶺が遠くに見える。

 あの向こうに、ノクスヴァイがあって――さらに向こうに、マグナレオールがある。


 谷の空気は、最後まで優しい。

 ただ、黙って見送る。


 ルシアの横顔が、いつもより少しだけ大人びて見えた。


「……ねえ」


 リラが言う。


「なに」


「私、行くね」


「知ってる」


「……そっか」


 ルシアは淡々と歩きながら、ぽつりと言った。


「行くなら、ちゃんと掴んできなさい。あなたがいる理由を」


 リラは頷いた。


「うん。掴んでくる」


 山嶺の向こう。

 見えない国。

 見えない世界の謎。

 見えない恐怖。


 自分の目が向かう先へ、行くしかない。


 リラは一度だけ振り返った。

 谷は静かにそこにある。

 白と金とオレンジが、もう遠い。


 それでも、胸の中に残る。


 帰る場所がある。

 だから、旅立てる。


 リラは前を向いた。

 山嶺の向こうに、まだ言葉にならない何かが待っている。

 それを掴むために――“眠る王国“マグナレオールへ。

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