バラルキューザの祭り
朝の光が、白くて柔らかい。プレガーテの谷の朝は、目を刺さない。
リラは祖母の布団の端に座って、まだ半分ほど眠いまま、その髪を指先でそっと撫でた。
指に触れる一本一本が、驚くほどしなやかだ。九十二歳の髪なのに、高級な絹のような輝きを持っている。
銀に近い白。薄い光を含んだ色。陽が当たると、すうっと透ける。
「……いつ見ても、綺麗ね」
声にした瞬間、母が台所から顔を出した。木製のレードルを片手に、寝癖も直さずに。
「昔からママの家系はね、いくつになっても艶があるのよ。ほら、あなたも」
「私?」
「そう。鏡を見てみなさいな」
リラは苦笑して、指で自分の髪を摘む。銀髪。白に寄りすぎない、月の光みたいな色。母に似た遺伝だと、最近になってやっと腑に落ちた。谷の人々は総じて薄い色が多いけれど、薄さの質がそれぞれ違う。
灰に近い人もいれば、金の淡い人もいる。栗色でも、薄い。光を飲んだような淡さだ。
祖母は何も言わない。ただ、リラを見ている。
その視線だけが、今日はやけに重い。
リラは少しだけ背筋を伸ばす。
見られている、という感覚が嫌なのではない。谷の視線は、裁かない。ただ、知っているだけだ。
祖母の目も、薄い。淡い。
谷の人々に似た色。けれど祖母の目は、その薄さの中に、ほんの少しだけ深い影を持っている気がする。
リラは祖母の手を握った。
祖母の指は温かい。骨ばっているのに、柔らかい。
「……おばあちゃん。今日、何しよっか」
祖母は笑った。声は出ない。でも、笑った。
その笑いに、リラの胸の奥の緊張がほどけていく。
母が湯気の立つスープを並べながら、急に思い出したように声を弾ませる。
「そういえば、明後日! バラルキューザの祭りの日ね!」
「え」
リラは顔を上げた。
「うそ、忘れてた」
「忘れてたの!? あなた、子どもの頃から前日まで忘れてるの!」
「私、城の人間になったのに、成長してない……」
「成長してる人は、忘れるのよ。忙しいんだから」
母はよく分からない理屈でリラを肯定し、嬉しそうに続けた。
「衣装、久しぶりね。あの白。金の刺繍。オレンジのスカーフ。あなた、また大人っぽくなったから、絶対似合うわよ」
リラは思わず笑ってしまう。
「似合うとか、そういう祭りじゃないでしょ」
「いいの。似合うのは素敵なことよ」
リラはスープに口をつけて、その返事を曖昧にした。
胃が目を覚まし、身体が少しずつ、ここに戻ってくる。
帰ってきた。
この感覚が、しみ込んでくる。
祖母の視線が、またリラを撫でる。
言葉はない。けれど、語らないことで守っているものがあるのだと分かる。
*
バラルキューザの準備は、明後日なのに今日から始まっている。
広場の片隅で、太鼓が鳴る。
笛の音が追いかける。
子どもが見よう見まねで踊って、足がもつれて転んで、また立ち上がる。
意味はもう誰も知らない。
歌詞も、もはや正確じゃない。
でも、身体だけは覚えている。
リラはそれを見て、胸がきゅっとなる。
理屈では説明できない種類の懐かしさだ。
母が隣で、楽しそうに手を叩く。
「ね。いいでしょ」
「うん……素敵ね」
「あなた、踊りはまだ覚えているの?」
「踊れる……はずよ」
「そうよねぇ……」
「何よママ! 踊れるわ、多分……」
母は笑って、リラの背中を軽く押した。
「じゃあ、明日から練習ね」
「え」
「え、じゃない。逃げちゃダメよ」
リラは頷いた。
「……練習する」
その返事に、母が満足そうに笑った。
*
祭りの日。
朝から谷の空気が違う。
匂いが甘い。焼き菓子の香り。煮込みの香り。布を叩く音。
リラは母に捕まって、衣装を着せられていた。
白を基調とした上衣。ワイシャツに似ているが、布は厚く、袖はゆったり。
胸元と袖口には金の刺繍。繊細な線で、古い模様が各所に散らばっている。
下はオレンジのロングスカート。動くと布が波のように揺れる。
そして、谷の全員が同じオレンジのスカーフを首に巻く。
「……久しぶりだね、これ」
リラが呟くと、母が目を潤ませた。
「大きくなったわね……」
「え、いきなり泣くの?それに、私もう二十六歳よ!?」
「泣いてない! 目に世界が入っただけ!」
「世界が入っただけは意味わかんない」
母は笑いながら、リラの襟元を整える。
その指が優しい。細かいところまで丁寧だ。
鏡に映った自分は、少し違う。
城の服でも、ヴァルデンの服でもない。
ただ、谷の人間の姿だ。
外に出ると、同じ衣装の人が広場に集まり始めていた。
白が揺れ、金が光り、オレンジが燃えるようなアクセントになっている。
リラが歩いていると、向こうから同じ白の上衣を纏ったルシアが来た。
オレンジのスカーフをきっちり結び、淡い栗色の髪が朝日に柔らかく光る。
「……ルシア」
「なに」
ルシアはリラを上から下まで一瞬見て、淡々と言う。
「似合ってる」
リラの胸が跳ねる。
「それ、私が言おうとしていた事よ!」
「今しか言わない」
「……ずるい」
「リラも言えば」
リラは負けたくなくて、ルシアを同じように見た。
「ルシアも……似合ってる。すごく」
「知ってる」
「うわ」
「うわ、じゃない」
二人で顔を見合わせて、同時に笑った。
ルシアと笑い合うこの時間は、肩の力を抜ける。
太鼓が鳴る。
笛が歌いだす。
広場に輪ができる。
上手い下手は関係ない。
足がもつれても、笑われない。
笑われても、悪意がない。
輪が動き始める。
白が回り、金が揺れ、オレンジが波になる。
リラも輪に入った。
最初の一歩。
次の一歩。
手を上げ、下ろし、足を踏み、回る。
身体が思い出す。
頭より先に、心が覚えている。
呼吸が揃う。
隣の人の息が、自分の胸に響く。
輪の中心に、何もないのに、何かがある気がする。
リラの目の奥が、急に熱くなった。
理由が分からない。
ただ、涙が滲む。
泣くつもりなんてなかった。
悲しくない。
寂しくもない。
なのに、こみ上げてくる。
胸の奥が、ぎゅっと締まって、それがほどけていく。
世界と共に生きる喜び。
その意味は失われているはずなのに――身体がそれを知っている。
リラは瞬きをして、涙を落とさないように耐えた。
でも、視界の端が滲む。
その瞬間、風がひとつ、輪の中を通った。
谷の風はいつも穏やかだ。
けれどその風は、確かに温度が違った。
冷たいわけじゃない。
温かいのでもない。
何かが、こちらを見た。
そう感じた。
リラの背中に、ぞくりとしたものが走る。
怖さじゃない。
触れられたような感覚。
ほんの微細な、応答。
リラは息を呑み、踊りながら空を見上げそうになって、ぐっと堪えた。
今は、輪を崩したくなかった。
輪は回り続ける。
太鼓が鳴り続ける。
笛が空気を切り続ける。
谷が、ひとつの呼吸になる。
*
祭りの後片付けは、笑いながら進む。
布が畳まれ、器が運ばれ、薪が片づけられる。
誰かが転んで笑われ、別の誰かが助けて笑う。
夕方、広場の端。少しだけ離れた場所で、リラはルシアと並んで座った。
まだ着たままの衣装は、まるでオレンジが夕日に溶けているようだ。
「泣いてた」
ルシアが淡々と言う。
「泣いてないわ」
「滲んでた」
「……うぅ」
リラは負けを認めて、膝を抱える。
「理由は分からない。けど、涙が出てきたの」
「そう」
ルシアの言い方はいつも通りなのに、どこか優しい。
少し沈黙が落ちて、ルシアがふと思い出すように言った。
「……ルシア・ミラエン」
改めて聞くと、妙に響きが古い。
谷の石みたいな響きだ。
「どうしたの?急に。ルシアの本名なんて知ってるわ」
「……今朝、祖父に呼ばれた」
「ルシアのおじいさん?」
「聞いちゃったのよ。大人たちの話」
リラの背中が少し硬くなる。
「……何か、重要なこと?」
「それは、分からないけれど。
あなたのお母さんが、うちの母に言ってた。
目の色が変わった気がするって」
リラは喉が渇く。
「それで、ルシアのおじいさんが?」
「……断片だけ」
ルシアは言葉を選ぶようにゆっくり続けた。
「ヴェルノア家と、ミラエン家は……昔から何かを守ってきた。何を守ってきたかは、はっきり分からない。だけど、“世界”って言葉が出た」
リラの胸が、さっきの踊りの感覚を思い出す。
応答。
触れられた感覚。
あれは気のせいじゃないのかもしれない。
ルシアが少しだけ声を落とす。
「祖父はこう言ってた。昔、世界は人間を嫌ったことがあるって。だから、目立つなって」
「……人間を、嫌った」
その言葉が、胃の奥に落ちる。
リラは息を吐く。
「大人たちは、何かを知ってるのかな」
「知ってるっていうより……抱えてる。分からないまま」
ルシアの言葉が、妙に正確だった。
大人たちは何かを隠しているわけじゃない。
長い歴史の中で、語り継がれてきたものがほとんど失われているのかもしれない。
リラは唇を噛んだ。
「……リラは、マグナレオールへ行くのよね」
ルシアは淡々としながらも、視線だけは真剣だった。
「今までより、余計に……気をつけて」
「うん」
リラは頷く。
その頷きの中に、怖さもある。
でも、それだけじゃない。
知りたい。
この違和感の正体を。
大人たちが抱えている曖昧な影を。
そして自分の目の色が変わった理由を。
ルシアはそれ以上言わない。
言わないまま、リラの肩に自分の肩を軽くぶつけた。
大丈夫、って言わない代わりの仕草。
ルシアはそういう人だ。
*
祭りの熱が引いた谷は、また静寂に戻る。
だけど今日は、静寂が少しだけ重い。
リラは家に戻り、廊下を歩きながら、ふと立ち止まった。
立ち入り禁止の部屋。
昔から、そこだけは開けてはいけないと言われていた。
理由はない。
理由がないことが、余計に気になっていた。
リラが扉の前で立ち尽くしていると、背後から足音がした。
父だ。
父は何も言わず、扉の前に立つリラを見て、それから扉に手を置いた。
そして、静かに扉を開く。
まるで中に何かが息をしているのを、刺激したくないみたいに。
父が振り返る。
「……お前には少し、話しておかなければいけないことがある」
声がいつもより低い。
厳格さの奥に、揺れがある。
リラは思わず、背筋を伸ばした。
父が先に中へ入る。
部屋は、思っていたよりも狭かった。
そして――拍子抜けするほど、何もない。
家具も、飾りも、窓すらない。
ただ、床と壁と天井。
古い石と木が組み合わさった、無骨な空間。
「……なにも、ないね」
思わず口にすると、父は首を横に振った。
「“見えるもの”はな」
父は部屋の中央まで歩き、そこで立ち止まった。
その足元に、ほんのわずかな段差がある。
意識しなければ気づかないほどの、歪み。
「この部屋は、隠すための場所じゃない」
父は、静かに言った。
「“残すための場所”だ」
リラは息を詰めた。
耳が、きん、と鳴る。
何かがある。
確実に、ここには何かがある。
この部屋に入った瞬間から、
谷の他のどことも違う感覚が、肌にまとわりついている。
静かすぎる。
音が吸い込まれている。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
リラは、無意識に目を細めた。
その瞬間。
――見られている。
誰かに、ではない。
“何か”に。
父が、低く言う。
「……目を凝らすな」
その声は、命令ではなかった。
懇願に近い。
「今のお前には、まだ早い」
リラは、はっとして視線を戻した。
「……なに、ここ」
喉が渇く。
父は、答えなかった。
代わりに、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「昔から、ここは“触れない部屋”だった」
「守るため?」
「違う」
父は、一度だけ目を伏せる。
「“起こさないため”だ」
その言葉が、妙に耳に残る。
父は、部屋の壁に手をついた。
まるで、そこに刻まれた何かを確かめるように。
「ここにあるのは、物でも、記録でもない」
「……じゃあ、なに?」
父は、リラを見た。
まっすぐに。
逃げ場のない目で。
「“判断の痕跡”だ」
リラの胸が、どくんと鳴る。
「世界が、かつて誰かに委ねたものの、残り香だ」
説明になっていない。
でも――身体は、何かを感じている。
父は、少しだけ声を落とした。
「お前自身の変化も……ここに繋がっている」
リラは、何も言えなかった。
父は一度、息を吸う。
言葉を探す人の息だ。
「ヴェルノア家と、ミラエン家は……守り手だと言われてきた」
「守り手?何からの?」
「何を守っているのか、正確には誰も言えない。語り継がれた言葉は、曖昧で、欠けている。だが、ひとつだけ共通している」
父の目が、リラの目を見た。
「……その目だ」
リラは息を止める。
父は言う。
「谷の者の目の色が似ているのは、偶然じゃない。俺の祖先の直系に近いほど淡くなるのも、意味がある。お前の目は……変わり始めている」
母が言った言葉が、ここで繋がる。
父の声が少しだけ硬くなる。
「大切な目だ。意思を……感じ取る目だと、言い伝えられてきた」
「意思?」
「物の意思。土地の意思。風の意思。人の意思。……そして、世界の意思」
その言葉が、胸の奥を打つ。
バラルキューザの輪の中で、確かに感じたものがある。
父は続ける。
「俺は、お前に何かを隠しているわけじゃない。……俺にも、輪郭しかない」
その告白は、父らしくなかった。
父はいつも、確信のある言葉しか言わない人だった。
なのに今、父は曖昧さをそのまま差し出している。
「俺が知っているのは、こうだ。ヴェルノア家とミラエン家は、何かを守ってきた。何かを繋いできた。そして、その秘密の多くが……マグナレオールに眠っている、と」
リラの喉が渇く。
「……マグナレオールに」
父は頷く。
「だから、お前がそこへ行くことは……偶然じゃないのかもしれない」
偶然じゃない。
その言葉の重さが、リラの背中を押すのか、押し潰すのか。
父の眉がわずかに寄る。
「昨日、お前の母が言った。目の色が変わった、と」
父の声が少しだけ揺れた。
「俺は……その瞬間に気づいた。お前に、何かが迫って来ている。使命と呼ぶには大きすぎるものが」
父が、狼狽えている。
それを初めて見た。
リラの胸が痛む。
父の厳格さは、いつも自分を守る壁だった。
その壁が、今だけ揺れている。
「……パパ」
リラが呼ぶと、父は少しだけ目を閉じた。
「お前に背負わせたくない。だが背負わせない選択も、もう出来る段階ではないのかもしれない」
リラは言葉を失う。
個の範囲を超えた話な気がするのに、具体がない。
何をすればいいのか分からない。
ただ、胸の奥で分かることがある。
父は情報を惜しんでいるんじゃない。
本当に分からない。
分からないまま、守ってきた。
それでも父は、ひとつだけ確信しているように見えた。
世界には秘密があり、それをリラが突き止める。
そう、本能で察している。
リラは息を吐いて、ゆっくり頷くしかなかった。
父の目が、少しだけ柔らかくなる。
でも、すぐに厳しい顔に戻る。
「逃げるな。だが、焦るな。世界を相手にするなら、急ぐな」
「……うん」
「そして、ひとつ」
父は言い切る前に、少しだけ言葉を飲み込んだ。
「帰ってこい」
昨日と同じ命令。
でも今日は、さらに重い。
リラは頷いた。
「うん。帰ってくる」
父はそれ以上何も言わない。
ただ、リラの肩に手を置く。短く。確かに。
その手が、震えていないことが救いだった。
震えていたら、リラはきっと泣いていた。
*
谷を出る朝。
リラとルシアは並んで歩いた。
山嶺が遠くに見える。
あの向こうに、ノクスヴァイがあって――さらに向こうに、マグナレオールがある。
谷の空気は、最後まで優しい。
ただ、黙って見送る。
ルシアの横顔が、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「……ねえ」
リラが言う。
「なに」
「私、行くね」
「知ってる」
「……そっか」
ルシアは淡々と歩きながら、ぽつりと言った。
「行くなら、ちゃんと掴んできなさい。あなたがいる理由を」
リラは頷いた。
「うん。掴んでくる」
山嶺の向こう。
見えない国。
見えない世界の謎。
見えない恐怖。
自分の目が向かう先へ、行くしかない。
リラは一度だけ振り返った。
谷は静かにそこにある。
白と金とオレンジが、もう遠い。
それでも、胸の中に残る。
帰る場所がある。
だから、旅立てる。
リラは前を向いた。
山嶺の向こうに、まだ言葉にならない何かが待っている。
それを掴むために――“眠る王国“マグナレオールへ。
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