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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
“眠る王国“マグナレオール
16/21

プレガーテの谷

第二部が始まります。長旅ですが、お付き合い頂けますと嬉しいです。

 まだ夜の名残が、街の石畳に薄く貼りついている時間だった。


 指先がかじかむような、静かな冷えを感じる。


「……うぅ」


 リラは馬車の座席で、膝を抱えるように丸くなっていた。

 外套の襟を鼻先まで引き上げて、目だけを半分開けている。


「寝るならちゃんと寝なさい。起きるならちゃんと起きなさい」


 隣で、ルシアが呆れた声を出す。


「起きてる……つもり」


「つもりは要らないの」


「……うぅ」


 リラは小さく唸って、また外套の中に顔を隠した。

 昨夜、荷物の最終確認をしたのがいけなかった。報告書の写し、着替え、小さな袋にまとめた筆記具。必要なものを並べていたら、なんだか眠れなくなってしまった。結局、うとうとし始めたのは空が明るくなる頃だった気がする。


 ――なのに、出発は早朝。


「どうしてこんなに早いの……」


「業者の便に合わせたからでしょ。途中まで乗せてもらえるだけありがたいわよ」


「うぅ……ルシアが一緒じゃなかったら泣いてた」


「泣き虫」


「泣いてない」


「目が潤んでるわ」


「寒いだけだし」


 そう言い返しながら、リラはルシアの肩にもたれかかった。

 ルシアは何も言わず、そのまま許してくれる。


 静かな馬車の揺れ。車輪の軋み。遠くで鳥が鳴く声。

 リラのまぶたは、勝手に重くなる。


 ルシアはその横顔を見て、少しだけ柔らかい息を吐いた。


「……ほら、これ」


 ルシアが差し出したのは、小さな布包みだった。


「なに?」


「焼き菓子。リラは朝弱いから、何も食べないと倒れるじゃない」


「倒れないよ」


「倒れる」


「……倒れるかも」


 リラは観念して受け取り、包みを開いた。

 甘い香りがふわっと広がる。ほんの少しだけ蜂蜜の匂いがする。


「……ありがとう」


 リラは小さく言って、少しだけ笑った。

 それが、ほんのり幼い顔に見えて、ルシアは目をそらした。


「噛んで食べなさい」


「はぁい」


 リラは素直に頷いて、ゆっくり齧った。

 甘さが舌に落ちると、体の奥が少し温かくなる。


 ――帰る。

 帰る場所がある。

 その事実だけで、眠気の底に沈み切っていた心が、少し浮いた。


 街道へ出ると、空が明るくなっていた。

 王都の気配が遠ざかるにつれ、人の往来が減り、代わりに風の音が増える。森の匂いが濃くなってくる。


 リラは窓から外を眺めながら、指先でガラスをなぞった。

 ここから先は、道が分かれる。谷に向かう者は少ない。


「……ねぇ、ルシア」


「なに」


「私、ちゃんと帰ってきたんだよね」


「帰ってきたわよ」


「……ふふ」


「なに、その笑い」


「嬉しい」


 リラは、子どもみたいに言った。

 ルシアは呆れたように片方の眉をあげる。


「向こうで張り詰めてたんでしょ」


「……うん」


 ヴァルデンでの日々が、ふっと脳裏を掠める。

 日の出前。冷たい空気。言葉の刃。判断。正解。

 激動の日々の中で、リラは必死で折れないように立っていた。


 でも、今は。


 隣にルシアがいる。

 それだけで、背中の力が抜ける。


「谷、楽しみ?」


「……うん。楽しみ。怖いくらい楽しみ」


「怖いって何」


「……なんだかね。こういうの、久しぶりだから」


 リラは言いながら、外套の袖を握った。

 谷へ帰るのは、いつぶりだろう。

 城の仕事が忙しくなってから、まとまった休みなんて滅多になかった。


「私、ちゃんと覚えてるかな」


「覚えてるわよ」


「……ルシアは?」


「覚えてる」


 ルシアの即答が、妙に頼もしかった。

 その声を聞いて、リラは少しだけ胸が軽くなる。


 *


 途中の小さな中継点で、業者の馬車を降りた。

 ここから先は、谷へ向かうための細い道になる。馬車は入れない。

 荷物を背負い、二人は徒歩で山道へ入っていく。


 空気が変わる。

 木の匂いが濃い。土が湿っている。

 鳥の声が近い。


「……歩くの、久しぶり」


 リラが言うと、ルシアがすかさず荷物の紐を直してやる。


「重い?」


「……ちょっとだけ重い」


「ほら」


 ルシアはリラの荷物を半分引き取ろうとする。


「だめ!」


 リラが反射的に抱え込む。


「なんで」


「だって……ルシアに全部任せたら、私、ダメになる」


「もうダメになってる」


「なってない!」


「さっき“ちょっと重い”って言った」


「それは……正直に言っただけ!」


 リラがぷりっと頬を膨らませる。

 ルシアは、困ったように笑った。


「いいから半分だけ。あなたの歩幅、昔から小さいんだから」


「昔の話しないで……!」


「昔、山道で転んで泣いたの、誰」


「……あれは石が悪い」


「石のせいにするの、上手ね」


「石が悪かった!」


 言い合いながら歩くうちに、二人の息が揃っていく。

 山道の傾斜はきつい。けれど、会話があると苦しくない。


 少し登ると、森が開け、広い斜面に出た。

 そこに、一本だけ異様に太い木が立っている。幹の一部がえぐれたように大きく窪んでいた。


 リラが足を止める。


「あ……」


 ルシアも止まる。


「……まだある」


 リラは、ふっと笑った。


「ここ、覚えてる?」


「覚えてるわよ」


「私、ここでルシア見つけられなくて、泣いた」


「泣いたのはあなたね」


「だって、いなくなったと思ったんだもん!」


「隠れんぼでしょ」


「子どもにとっては命がけだったの!」


 ルシアは肩をすくめる。

 けれど、その目は少しだけ優しい。


「リラったら、見つけた瞬間に私に抱きついてきて。

……あの時のあなた、今と変わらない顔してた」


「え、どんな顔」


「泣き虫の顔」


「ひどい!」


 リラはむっとしながら、でも嬉しそうに木の幹を撫でた。

 触れると、ざらりとした感触が手のひらに残る。

 ここで、二人は確かに育った。


 歩き出して少し経つと、リラが別の木を見上げて言った。


「ねぇ!あの木の実は?覚えてる?」


「覚えてる」


 ルシアの声が一段低くなる。


「やめておけばって言ったのに、食べた」


「だって、すっごく美味しそうだったから……」


「美味しそう、じゃない。毒よ」


「毒じゃないよ! お腹壊しただけ!」


「それを毒って言うの」


「違うってば!」


「結局、その日の夕方まで寝込んでいたわよね」


「……でも、ルシアがずっと看病してくれた」


「当たり前でしょ」


 ルシアはそう言って、リラの頭を軽く小突いた。


 あの頃から、ずっと。

 守る側と、守られる側。

 ――いや。

 守っているつもりで、守られていたのは、どちらだろう。


 *


 山道を抜けると、視界が突然ひらけた。


 そこにあったのは、谷――ではない。

 谷という言葉が似合うほどの深い窪みはないのに、なぜか外から隔絶されているように感じる場所。

 山嶺が抱え込むように囲んでいて、風が穏やかで、音が柔らかい。


 ――プレガーテの谷。


 土地は思ったより広い。

 二百人ほどの暮らしにしては、畑が多い。家々もゆったりと間隔を空けて建っている。

 遠くに羊の群れが見える。

 川がひと筋、静かに流れている。


 そして――中心。


 谷の真ん中に、ひとつだけ大きな家があった。

 他の家が自然な丸みや柔らかさを持っているのに、その家だけは角張り、重く、少し歪んでいる。

 何度も修繕を重ねた結果のように、継ぎ接ぎの線が見える。


 リラは、一瞬だけ胸が熱くなった。


「……ただいま」


 小さく呟いた声は、風に流れていく。


「帰ってきたわね」


 リラは頷いて、笑う。


「うん。帰ってきた」


 道を下り始めると、谷の匂いが濃くなる。

 土の匂い。乾いた草。料理の香り。

 人の気配が、人間らしい温度で漂っている。


 不思議なほど、安心する。


 ふいに、山の斜面の一角に、白い石が積み上がっているのが見えた。

 明らかに自然の石の並びではない。

 崩れた柱のようなものも混じっている。


「……あれ、昔からあったよね」


 リラが言うと、ルシアが頷く。


「遺跡よ。神殿だったって言う人もいる」


「神殿……」


「意味はもう誰も知らないけど」


 谷には、そういう場所が点々と残っている。

 石の名残。柱の影。

 古い文明の輪郭が、風景の中に静かに沈んでいる。


 村の入口に近づくと、まず動物たちが気づいた。


「メェ」


 羊が鳴いた。


「……あ、ひつじ!」


 リラがぱっと顔を明るくする。


「ただいまー!」


 羊は意味が分かっていない顔で、草を食べ続ける。


「あなたの事、分かってないわよ」


「分かってるよ。ひつじはね、心で会話するの」


「あなたは今、声で会話してる」


「……そういうこと言うと嫌われるよ」


「羊に?」


「うん」


 そんなやりとりをしていると、畑の方から子どもの声が飛んできた。


「リラ!」


「えっ」


 走ってきたのは、小さな男の子だった。頬が赤い。7、8歳くらいだろうか。

 その後ろから、もう一人、女の子がついてくる。


「リラだ! ほんとにリラだ!」


「え、ちょ、待って、だれ――」


 言い終わる前に、子どもが抱きついてきた。


「リラ、帰ってきたの? どこ行ってたの? 王国? お城? すごい?」


 質問が矢継ぎ早すぎて、リラは目を白黒させた。


 ルシアが横から助け舟を出す。


「順番にしなさい。リラが息できない」


「うわ、ルシアもいる!」

「ルシア、今日もきれい!」


「口が上手いわね」


 リラがようやく笑った。


「大きくなったね」


「うん!」


「私のこと覚えてた?」


「覚えてる! だってリラは、谷の……えっと……」


 子どもが言葉に詰まる。

 リラはくすっと笑って、頭を撫でた。


「谷の?」


「谷の、すごいやつ!」


「なにそれ!」


「すごい!」


「雑!」


 笑い声が、谷に溶ける。


 やがて、大人たちも気づいて、畑の手を止める。


「おや、リラじゃないか」


「帰ってきたのね」


「ずいぶん背が伸びたように見えるわ」


「いや、それは昔から――」


 言いかけて、リラはやめた。

 この空気に、言い返しは要らない。

 ただ笑って、頷く。


 誰も、距離を取らない。

 それが、谷の当たり前。


 リラは胸の奥が、じんわり温かくなる。


 ルシアが小さく言った。


「……昔から、こういうところよ」


「……うん」


 リラは頷きながら、少しだけ目を細めた。


 この場所は、外界を拒絶していない。

 出稼ぎに出る人もいる。流行も少し遅れてやってくる。

 でも、どこかで揺らがないものがある。


 谷の人々は、誰の声も、誰の意思も、同じ重さで扱う。

 それが、昔から息をしている。


 *


 谷の中心に近づくにつれて、人の気配がさらに濃くなる。

 広場では、木材を切る音が響く。

 子どもたちは走り回り、笑い、時々転び、すぐ立ち上がる。


 リラは歩きながら、ひとつひとつに「ただいま」を返したくなる。


 やがて、道が分かれるところで、ルシアが立ち止まった。


「私はこっち」


 ルシアの家は、谷の他の家と似ていて、少し大きい。リラの家の近くにあり、昔から毎日のように遊んでいた。

 淡い栗色の髪を揺らして、ルシアが言う。


「……ちゃんと家族と話しなさいよ」


「するよ」


「あなた、話してる途中で寝るでしょ」


「寝ないって!」


 ルシアはリラの額を指で押した。


「寝たら、あとで怒るからね」


 リラが笑うと、ルシアも小さく息を吐くように笑った。


「じゃあ、また」


 リラが一歩踏み出すと、ルシアが呼び止めた。


「リラ」


「なに?」


「……無理しないで」


 たったそれだけの言葉。

 でも、リラの胸の奥に、ふわっと暖かいものが落ちた。


「うん」


 リラは頷いて、家へ向かった。


 大きく所々が角張って、少し歪な家。


――相変わらず、変な形ね。


 玄関の前で、リラは立ち止まった。

 呼吸が少しだけ乱れる。山道のせいじゃない。


 扉に手をかけた瞬間、内側から足音がした。


 ――ばたばたばた。


 扉が勢いよく開く。


「リラ!」


 飛び出してきたのは母だった。

 もう四十八歳。なのに、相変わらず少女みたいな勢いで走ってくる。

 銀に近い淡い髪を揺らして、目を輝かせて。


「リラ、帰ってきたのね! ねぇ見て、これね、最近ね、谷で流行ってる香草があってね、煮ると、すごくね――」


「ただいま」


 リラが言うと、母はそこでようやく息を止めた。


「……おかえり」


 次の瞬間、母がぎゅっと抱きしめてきた。

 あまりに強くて、リラが声を漏らす。


「ちょ、ま、まって、苦しい……!」


「愛ゆえに、よ!」


「愛が苦しい!」


 そこへ、家の奥から落ち着いた足音が近づく。


 父だった。

 背筋がまっすぐで、視線が強い。

 元宰務官。谷を支えるために城を離れた人。


「……帰ったか」


 声は厳格だった。

 でも、その目はほんの少しだけ柔らかい。


「ただいま、パパ――」


 リラが言いかけたところで、父が軽く咳払いをした。


「……まず、荷物を置け」


「はい」


 リラは条件反射のように敬語になる。

 その癖は、昔からだった。


 父はそれを咎めない。

 ただ、必要な言葉だけを言う。


 母がまだ離れてくれないので、リラは半分引きずられながら家に入った。


 中は温かかった。

 木の香り。煮込みの匂い。

 祖母が座っているのが見える。


 九十二歳。

 祖母はほとんど話さない。けれど、いつもニコニコしている。


「あ」


 リラが近づくと、祖母はゆっくり手を伸ばした。

 皺だらけの手が、リラの頬に触れる。

 その手は温かくて、柔らかい。


 祖母は、何も言わずに笑った。


 リラの胸がきゅっとなる。


「ただいま、おばあちゃん」


 祖母は、笑ったまま頷いた。


 *


 家族の食卓は、賑やかだった。

 母が一方的に喋り、リラが笑い、父が短く相槌を打つ。

 祖母は静かに微笑み、時々リラの手を撫でる。


「城のご飯って、固いの?」


「固くはないよ。うちのご飯の方が優しくて美味しい」


「でも忙しいから食べるの忘れたりするでしょ」


「そんなことないよ!」


 母がにこにこしながら言う。

 リラは顔を赤くして、スープを飲んだ。


 父は黙ってそれを見ている。

 そして、食事が一段落した頃、母がふと首を傾げた。


「ねぇ」


 母がリラの顔を覗き込む。


「あなたの目の色……そんな色だったかしら?」


 言い方は軽い。

 ただの気づきみたいに。


 でも、リラは一瞬だけ、心臓が跳ねた。


 谷の人々の目は似ている。

 淡い色。光を含むような色。

 父方の直系に近いほど薄くなる――それを、リラはぼんやり知っているだけだ。意味は分からない。


「……え? そう?」


 リラは笑って誤魔化す。


「疲れてるからじゃない?」


「そうかしら」


 母はすぐに別の話題へ飛んだ。


「それでね、最近ね――」


 けれど、父の目だけが、ほんの一瞬揺れた。

 その揺れは、さりげない。

 気づかない人は気づかない。


 でも、リラは気付いてしまった。


 ――父は何かを知っている。


 リラはそのまま何も言わず、笑顔を作り続けた。

 この場で、空気を変えたくなかった。


 だって、やっと帰ってきた場所なんだから。


 *


 プレガーテの谷の夜は、音が少ない。

 王国の夜は、人の音が遠くまで残る。馬車の軋み、酒場の笑い声、衛兵の足音。

 谷にはそれがない。

 虫の声と、風と、川の小さな流れだけ。


 リラは家の外に出て、深呼吸をした。


 安心の静けさの中で、空を見上げる。


 星が、落ちそうなほど近い。

 満点の星空だ。

 王都では見えない密度で、夜空が光っている。


 リラは息を呑んだ。


「……きれい」


 言った瞬間、自分の声すら邪魔に感じて、口を閉じる。


 胸の中に、いろんなものが渦巻く。

 マグナレオール。

 王立大学。

 使命。

 監視。

 危険。


 期待と不安が、同時にある。


 ――私は、行く。

 行きたいし、行かなきゃいけない。

 知りたい。守りたい。変わりたい。


 思えば思うほど、心がざわつく。


 その時、背後から足音がした。

 重く、落ち着いた足音。


「冷えるぞ」


 父だった。


「パパ……」


 リラが振り返ると、父は夜の闇の中でも姿勢が崩れていなかった。

 厳格な人だ。

 でも、今の声は少しだけ柔らかい。


「星、すごいね」


「昔からだ」


「……うん」


 父はしばらく黙って星を見ていたが、やがて言った。


「城の仕事は、どうだ」


「……忙しいよ」


 リラは正直に答えた。


「でも、面白い。怖い時もあるけど」


「怖い、か」


 父は短く反芻した。


 そして、少しだけ間を置いて言う。


「アデルは、どうしている」


「グランハルトさんは……元気。相変わらず、怖い」


「……そうだろうな」


 父は、ほんの少しだけ口角を上げた。


「お前が宰務局を目指したのは、自然な流れだ」


「……うん。パパの背中を見てきたから」


 リラが言うと、父は一度だけ目を閉じた。

 それは誇りなのか、重さなのか、分からない。


 そして父は、空気を変えるように言った。


「……マグナレオールへ行くのか」


 リラの喉が詰まる。


 母には言っていない。

 祖母にも。

 不安にさせたくないから。

 だから、この話は父だけにした。


「……うん」


 リラは小さく頷いた。


「正式には、まだ少し先。でも……もう決まってる」


「理由は」


「……表向きは、国交と人材育成」


 リラはあえて、あの場で聞いた言葉をそのまま言った。


「実際は、軍事と魔法。状況を集めてくる……それから、私の安全に関わることだって」


 父は黙って聞き、最後に短く言った。


「……最悪の可能性もある」


 父は誤魔化さない。

 谷の空気みたいに、言葉に余計な飾りがない。


「……うん」


 リラは頷く。

 それでも、目は逸らさない。


「でも、行く」


「覚悟か」


「……覚悟、だと思う」


 リラは自分の胸に手を当てた。


「私、怖いよ。でも……逃げたら、もっと怖い」


 父はそれを見て、少しだけ眉を動かした。


「お前は昔から、怖いのに前へ出る」


「……へへ」


「笑うな」


「ごめん」


 リラは笑いを引っ込めた。

 でも、父の声には怒りがない。


 父は静かに言った。


「谷は安全だ。ここにいれば、お前は守られる」


 リラの胸がきゅっとなる。

 それは、谷が“世界で一番安全な場所”であることを、父がどこかで知っているような言い方にも聞こえた。


 リラは小さく首を振った。


「でも、パパ。私は……守られるだけじゃ、だめなんだと思う」


 父がリラを見る。

 その目は厳格で、けれど深い。


「守る側になりたいのか」


「……うん」


 リラは頷いた。


「私、まだ甘いけど……守る側になりたい」


 父はしばらく黙って、夜空を見上げた。

 そして、低い声で言った。


「なら――帰ってこい」


「……え」


「行くなら、帰ってこい。死ぬな」


 命令だった。

 でも、その奥にあるのは、はっきりした愛だった。


 リラの目が熱くなる。


「……うん。帰ってくる」


 リラは、子どもみたいに言ってしまいそうになるのを堪えた。

 でも、堪えきれず、少しだけ甘える声になる。


「……帰ってきたら、また一緒に星を見ていい?」


「当たり前だ」


「……へへ」


「笑うなと言っただろう」


「だって……嬉しい」


 父は、ほんの少しだけため息を吐いた。

 そして自然に、リラの頭に手を置いた。


 乱れた髪を、ぎこちなく撫でる。

 厳格な父が、こういうことをするのは珍しい。


 リラの胸の奥が、じんわり温かくなる。


「……大人になったな」


 父は短く言った。


「だが、なおさらだ。油断するな」


「うん」


「信じるな」


「……うん」


「でも、一人で抱えるな」


 その一言が、リラの胸に刺さった。

 ヴァルデンで学んだ合理とは違う。

 ここにも“正解”がある。


「……うん」


 リラは小さく頷き、星空を見上げた。


 ここが、自分の帰る場所だ。

 そして――ここから、また旅立つ。


 旅が始まる。

 マグナレオールへの期待と不安が、胸の中で静かに燃えている。


 星は変わらず、そこにある。

 谷は変わらず、そこにある。


 リラは息を吐いて、夜の冷えた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 ――行ってくる。

 そして、帰ってくる。


 その約束だけを、星に預けるように。


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