プレガーテの谷
第二部が始まります。長旅ですが、お付き合い頂けますと嬉しいです。
まだ夜の名残が、街の石畳に薄く貼りついている時間だった。
指先がかじかむような、静かな冷えを感じる。
「……うぅ」
リラは馬車の座席で、膝を抱えるように丸くなっていた。
外套の襟を鼻先まで引き上げて、目だけを半分開けている。
「寝るならちゃんと寝なさい。起きるならちゃんと起きなさい」
隣で、ルシアが呆れた声を出す。
「起きてる……つもり」
「つもりは要らないの」
「……うぅ」
リラは小さく唸って、また外套の中に顔を隠した。
昨夜、荷物の最終確認をしたのがいけなかった。報告書の写し、着替え、小さな袋にまとめた筆記具。必要なものを並べていたら、なんだか眠れなくなってしまった。結局、うとうとし始めたのは空が明るくなる頃だった気がする。
――なのに、出発は早朝。
「どうしてこんなに早いの……」
「業者の便に合わせたからでしょ。途中まで乗せてもらえるだけありがたいわよ」
「うぅ……ルシアが一緒じゃなかったら泣いてた」
「泣き虫」
「泣いてない」
「目が潤んでるわ」
「寒いだけだし」
そう言い返しながら、リラはルシアの肩にもたれかかった。
ルシアは何も言わず、そのまま許してくれる。
静かな馬車の揺れ。車輪の軋み。遠くで鳥が鳴く声。
リラのまぶたは、勝手に重くなる。
ルシアはその横顔を見て、少しだけ柔らかい息を吐いた。
「……ほら、これ」
ルシアが差し出したのは、小さな布包みだった。
「なに?」
「焼き菓子。リラは朝弱いから、何も食べないと倒れるじゃない」
「倒れないよ」
「倒れる」
「……倒れるかも」
リラは観念して受け取り、包みを開いた。
甘い香りがふわっと広がる。ほんの少しだけ蜂蜜の匂いがする。
「……ありがとう」
リラは小さく言って、少しだけ笑った。
それが、ほんのり幼い顔に見えて、ルシアは目をそらした。
「噛んで食べなさい」
「はぁい」
リラは素直に頷いて、ゆっくり齧った。
甘さが舌に落ちると、体の奥が少し温かくなる。
――帰る。
帰る場所がある。
その事実だけで、眠気の底に沈み切っていた心が、少し浮いた。
街道へ出ると、空が明るくなっていた。
王都の気配が遠ざかるにつれ、人の往来が減り、代わりに風の音が増える。森の匂いが濃くなってくる。
リラは窓から外を眺めながら、指先でガラスをなぞった。
ここから先は、道が分かれる。谷に向かう者は少ない。
「……ねぇ、ルシア」
「なに」
「私、ちゃんと帰ってきたんだよね」
「帰ってきたわよ」
「……ふふ」
「なに、その笑い」
「嬉しい」
リラは、子どもみたいに言った。
ルシアは呆れたように片方の眉をあげる。
「向こうで張り詰めてたんでしょ」
「……うん」
ヴァルデンでの日々が、ふっと脳裏を掠める。
日の出前。冷たい空気。言葉の刃。判断。正解。
激動の日々の中で、リラは必死で折れないように立っていた。
でも、今は。
隣にルシアがいる。
それだけで、背中の力が抜ける。
「谷、楽しみ?」
「……うん。楽しみ。怖いくらい楽しみ」
「怖いって何」
「……なんだかね。こういうの、久しぶりだから」
リラは言いながら、外套の袖を握った。
谷へ帰るのは、いつぶりだろう。
城の仕事が忙しくなってから、まとまった休みなんて滅多になかった。
「私、ちゃんと覚えてるかな」
「覚えてるわよ」
「……ルシアは?」
「覚えてる」
ルシアの即答が、妙に頼もしかった。
その声を聞いて、リラは少しだけ胸が軽くなる。
*
途中の小さな中継点で、業者の馬車を降りた。
ここから先は、谷へ向かうための細い道になる。馬車は入れない。
荷物を背負い、二人は徒歩で山道へ入っていく。
空気が変わる。
木の匂いが濃い。土が湿っている。
鳥の声が近い。
「……歩くの、久しぶり」
リラが言うと、ルシアがすかさず荷物の紐を直してやる。
「重い?」
「……ちょっとだけ重い」
「ほら」
ルシアはリラの荷物を半分引き取ろうとする。
「だめ!」
リラが反射的に抱え込む。
「なんで」
「だって……ルシアに全部任せたら、私、ダメになる」
「もうダメになってる」
「なってない!」
「さっき“ちょっと重い”って言った」
「それは……正直に言っただけ!」
リラがぷりっと頬を膨らませる。
ルシアは、困ったように笑った。
「いいから半分だけ。あなたの歩幅、昔から小さいんだから」
「昔の話しないで……!」
「昔、山道で転んで泣いたの、誰」
「……あれは石が悪い」
「石のせいにするの、上手ね」
「石が悪かった!」
言い合いながら歩くうちに、二人の息が揃っていく。
山道の傾斜はきつい。けれど、会話があると苦しくない。
少し登ると、森が開け、広い斜面に出た。
そこに、一本だけ異様に太い木が立っている。幹の一部がえぐれたように大きく窪んでいた。
リラが足を止める。
「あ……」
ルシアも止まる。
「……まだある」
リラは、ふっと笑った。
「ここ、覚えてる?」
「覚えてるわよ」
「私、ここでルシア見つけられなくて、泣いた」
「泣いたのはあなたね」
「だって、いなくなったと思ったんだもん!」
「隠れんぼでしょ」
「子どもにとっては命がけだったの!」
ルシアは肩をすくめる。
けれど、その目は少しだけ優しい。
「リラったら、見つけた瞬間に私に抱きついてきて。
……あの時のあなた、今と変わらない顔してた」
「え、どんな顔」
「泣き虫の顔」
「ひどい!」
リラはむっとしながら、でも嬉しそうに木の幹を撫でた。
触れると、ざらりとした感触が手のひらに残る。
ここで、二人は確かに育った。
歩き出して少し経つと、リラが別の木を見上げて言った。
「ねぇ!あの木の実は?覚えてる?」
「覚えてる」
ルシアの声が一段低くなる。
「やめておけばって言ったのに、食べた」
「だって、すっごく美味しそうだったから……」
「美味しそう、じゃない。毒よ」
「毒じゃないよ! お腹壊しただけ!」
「それを毒って言うの」
「違うってば!」
「結局、その日の夕方まで寝込んでいたわよね」
「……でも、ルシアがずっと看病してくれた」
「当たり前でしょ」
ルシアはそう言って、リラの頭を軽く小突いた。
あの頃から、ずっと。
守る側と、守られる側。
――いや。
守っているつもりで、守られていたのは、どちらだろう。
*
山道を抜けると、視界が突然ひらけた。
そこにあったのは、谷――ではない。
谷という言葉が似合うほどの深い窪みはないのに、なぜか外から隔絶されているように感じる場所。
山嶺が抱え込むように囲んでいて、風が穏やかで、音が柔らかい。
――プレガーテの谷。
土地は思ったより広い。
二百人ほどの暮らしにしては、畑が多い。家々もゆったりと間隔を空けて建っている。
遠くに羊の群れが見える。
川がひと筋、静かに流れている。
そして――中心。
谷の真ん中に、ひとつだけ大きな家があった。
他の家が自然な丸みや柔らかさを持っているのに、その家だけは角張り、重く、少し歪んでいる。
何度も修繕を重ねた結果のように、継ぎ接ぎの線が見える。
リラは、一瞬だけ胸が熱くなった。
「……ただいま」
小さく呟いた声は、風に流れていく。
「帰ってきたわね」
リラは頷いて、笑う。
「うん。帰ってきた」
道を下り始めると、谷の匂いが濃くなる。
土の匂い。乾いた草。料理の香り。
人の気配が、人間らしい温度で漂っている。
不思議なほど、安心する。
ふいに、山の斜面の一角に、白い石が積み上がっているのが見えた。
明らかに自然の石の並びではない。
崩れた柱のようなものも混じっている。
「……あれ、昔からあったよね」
リラが言うと、ルシアが頷く。
「遺跡よ。神殿だったって言う人もいる」
「神殿……」
「意味はもう誰も知らないけど」
谷には、そういう場所が点々と残っている。
石の名残。柱の影。
古い文明の輪郭が、風景の中に静かに沈んでいる。
村の入口に近づくと、まず動物たちが気づいた。
「メェ」
羊が鳴いた。
「……あ、ひつじ!」
リラがぱっと顔を明るくする。
「ただいまー!」
羊は意味が分かっていない顔で、草を食べ続ける。
「あなたの事、分かってないわよ」
「分かってるよ。ひつじはね、心で会話するの」
「あなたは今、声で会話してる」
「……そういうこと言うと嫌われるよ」
「羊に?」
「うん」
そんなやりとりをしていると、畑の方から子どもの声が飛んできた。
「リラ!」
「えっ」
走ってきたのは、小さな男の子だった。頬が赤い。7、8歳くらいだろうか。
その後ろから、もう一人、女の子がついてくる。
「リラだ! ほんとにリラだ!」
「え、ちょ、待って、だれ――」
言い終わる前に、子どもが抱きついてきた。
「リラ、帰ってきたの? どこ行ってたの? 王国? お城? すごい?」
質問が矢継ぎ早すぎて、リラは目を白黒させた。
ルシアが横から助け舟を出す。
「順番にしなさい。リラが息できない」
「うわ、ルシアもいる!」
「ルシア、今日もきれい!」
「口が上手いわね」
リラがようやく笑った。
「大きくなったね」
「うん!」
「私のこと覚えてた?」
「覚えてる! だってリラは、谷の……えっと……」
子どもが言葉に詰まる。
リラはくすっと笑って、頭を撫でた。
「谷の?」
「谷の、すごいやつ!」
「なにそれ!」
「すごい!」
「雑!」
笑い声が、谷に溶ける。
やがて、大人たちも気づいて、畑の手を止める。
「おや、リラじゃないか」
「帰ってきたのね」
「ずいぶん背が伸びたように見えるわ」
「いや、それは昔から――」
言いかけて、リラはやめた。
この空気に、言い返しは要らない。
ただ笑って、頷く。
誰も、距離を取らない。
それが、谷の当たり前。
リラは胸の奥が、じんわり温かくなる。
ルシアが小さく言った。
「……昔から、こういうところよ」
「……うん」
リラは頷きながら、少しだけ目を細めた。
この場所は、外界を拒絶していない。
出稼ぎに出る人もいる。流行も少し遅れてやってくる。
でも、どこかで揺らがないものがある。
谷の人々は、誰の声も、誰の意思も、同じ重さで扱う。
それが、昔から息をしている。
*
谷の中心に近づくにつれて、人の気配がさらに濃くなる。
広場では、木材を切る音が響く。
子どもたちは走り回り、笑い、時々転び、すぐ立ち上がる。
リラは歩きながら、ひとつひとつに「ただいま」を返したくなる。
やがて、道が分かれるところで、ルシアが立ち止まった。
「私はこっち」
ルシアの家は、谷の他の家と似ていて、少し大きい。リラの家の近くにあり、昔から毎日のように遊んでいた。
淡い栗色の髪を揺らして、ルシアが言う。
「……ちゃんと家族と話しなさいよ」
「するよ」
「あなた、話してる途中で寝るでしょ」
「寝ないって!」
ルシアはリラの額を指で押した。
「寝たら、あとで怒るからね」
リラが笑うと、ルシアも小さく息を吐くように笑った。
「じゃあ、また」
リラが一歩踏み出すと、ルシアが呼び止めた。
「リラ」
「なに?」
「……無理しないで」
たったそれだけの言葉。
でも、リラの胸の奥に、ふわっと暖かいものが落ちた。
「うん」
リラは頷いて、家へ向かった。
大きく所々が角張って、少し歪な家。
――相変わらず、変な形ね。
玄関の前で、リラは立ち止まった。
呼吸が少しだけ乱れる。山道のせいじゃない。
扉に手をかけた瞬間、内側から足音がした。
――ばたばたばた。
扉が勢いよく開く。
「リラ!」
飛び出してきたのは母だった。
もう四十八歳。なのに、相変わらず少女みたいな勢いで走ってくる。
銀に近い淡い髪を揺らして、目を輝かせて。
「リラ、帰ってきたのね! ねぇ見て、これね、最近ね、谷で流行ってる香草があってね、煮ると、すごくね――」
「ただいま」
リラが言うと、母はそこでようやく息を止めた。
「……おかえり」
次の瞬間、母がぎゅっと抱きしめてきた。
あまりに強くて、リラが声を漏らす。
「ちょ、ま、まって、苦しい……!」
「愛ゆえに、よ!」
「愛が苦しい!」
そこへ、家の奥から落ち着いた足音が近づく。
父だった。
背筋がまっすぐで、視線が強い。
元宰務官。谷を支えるために城を離れた人。
「……帰ったか」
声は厳格だった。
でも、その目はほんの少しだけ柔らかい。
「ただいま、パパ――」
リラが言いかけたところで、父が軽く咳払いをした。
「……まず、荷物を置け」
「はい」
リラは条件反射のように敬語になる。
その癖は、昔からだった。
父はそれを咎めない。
ただ、必要な言葉だけを言う。
母がまだ離れてくれないので、リラは半分引きずられながら家に入った。
中は温かかった。
木の香り。煮込みの匂い。
祖母が座っているのが見える。
九十二歳。
祖母はほとんど話さない。けれど、いつもニコニコしている。
「あ」
リラが近づくと、祖母はゆっくり手を伸ばした。
皺だらけの手が、リラの頬に触れる。
その手は温かくて、柔らかい。
祖母は、何も言わずに笑った。
リラの胸がきゅっとなる。
「ただいま、おばあちゃん」
祖母は、笑ったまま頷いた。
*
家族の食卓は、賑やかだった。
母が一方的に喋り、リラが笑い、父が短く相槌を打つ。
祖母は静かに微笑み、時々リラの手を撫でる。
「城のご飯って、固いの?」
「固くはないよ。うちのご飯の方が優しくて美味しい」
「でも忙しいから食べるの忘れたりするでしょ」
「そんなことないよ!」
母がにこにこしながら言う。
リラは顔を赤くして、スープを飲んだ。
父は黙ってそれを見ている。
そして、食事が一段落した頃、母がふと首を傾げた。
「ねぇ」
母がリラの顔を覗き込む。
「あなたの目の色……そんな色だったかしら?」
言い方は軽い。
ただの気づきみたいに。
でも、リラは一瞬だけ、心臓が跳ねた。
谷の人々の目は似ている。
淡い色。光を含むような色。
父方の直系に近いほど薄くなる――それを、リラはぼんやり知っているだけだ。意味は分からない。
「……え? そう?」
リラは笑って誤魔化す。
「疲れてるからじゃない?」
「そうかしら」
母はすぐに別の話題へ飛んだ。
「それでね、最近ね――」
けれど、父の目だけが、ほんの一瞬揺れた。
その揺れは、さりげない。
気づかない人は気づかない。
でも、リラは気付いてしまった。
――父は何かを知っている。
リラはそのまま何も言わず、笑顔を作り続けた。
この場で、空気を変えたくなかった。
だって、やっと帰ってきた場所なんだから。
*
プレガーテの谷の夜は、音が少ない。
王国の夜は、人の音が遠くまで残る。馬車の軋み、酒場の笑い声、衛兵の足音。
谷にはそれがない。
虫の声と、風と、川の小さな流れだけ。
リラは家の外に出て、深呼吸をした。
安心の静けさの中で、空を見上げる。
星が、落ちそうなほど近い。
満点の星空だ。
王都では見えない密度で、夜空が光っている。
リラは息を呑んだ。
「……きれい」
言った瞬間、自分の声すら邪魔に感じて、口を閉じる。
胸の中に、いろんなものが渦巻く。
マグナレオール。
王立大学。
使命。
監視。
危険。
期待と不安が、同時にある。
――私は、行く。
行きたいし、行かなきゃいけない。
知りたい。守りたい。変わりたい。
思えば思うほど、心がざわつく。
その時、背後から足音がした。
重く、落ち着いた足音。
「冷えるぞ」
父だった。
「パパ……」
リラが振り返ると、父は夜の闇の中でも姿勢が崩れていなかった。
厳格な人だ。
でも、今の声は少しだけ柔らかい。
「星、すごいね」
「昔からだ」
「……うん」
父はしばらく黙って星を見ていたが、やがて言った。
「城の仕事は、どうだ」
「……忙しいよ」
リラは正直に答えた。
「でも、面白い。怖い時もあるけど」
「怖い、か」
父は短く反芻した。
そして、少しだけ間を置いて言う。
「アデルは、どうしている」
「グランハルトさんは……元気。相変わらず、怖い」
「……そうだろうな」
父は、ほんの少しだけ口角を上げた。
「お前が宰務局を目指したのは、自然な流れだ」
「……うん。パパの背中を見てきたから」
リラが言うと、父は一度だけ目を閉じた。
それは誇りなのか、重さなのか、分からない。
そして父は、空気を変えるように言った。
「……マグナレオールへ行くのか」
リラの喉が詰まる。
母には言っていない。
祖母にも。
不安にさせたくないから。
だから、この話は父だけにした。
「……うん」
リラは小さく頷いた。
「正式には、まだ少し先。でも……もう決まってる」
「理由は」
「……表向きは、国交と人材育成」
リラはあえて、あの場で聞いた言葉をそのまま言った。
「実際は、軍事と魔法。状況を集めてくる……それから、私の安全に関わることだって」
父は黙って聞き、最後に短く言った。
「……最悪の可能性もある」
父は誤魔化さない。
谷の空気みたいに、言葉に余計な飾りがない。
「……うん」
リラは頷く。
それでも、目は逸らさない。
「でも、行く」
「覚悟か」
「……覚悟、だと思う」
リラは自分の胸に手を当てた。
「私、怖いよ。でも……逃げたら、もっと怖い」
父はそれを見て、少しだけ眉を動かした。
「お前は昔から、怖いのに前へ出る」
「……へへ」
「笑うな」
「ごめん」
リラは笑いを引っ込めた。
でも、父の声には怒りがない。
父は静かに言った。
「谷は安全だ。ここにいれば、お前は守られる」
リラの胸がきゅっとなる。
それは、谷が“世界で一番安全な場所”であることを、父がどこかで知っているような言い方にも聞こえた。
リラは小さく首を振った。
「でも、パパ。私は……守られるだけじゃ、だめなんだと思う」
父がリラを見る。
その目は厳格で、けれど深い。
「守る側になりたいのか」
「……うん」
リラは頷いた。
「私、まだ甘いけど……守る側になりたい」
父はしばらく黙って、夜空を見上げた。
そして、低い声で言った。
「なら――帰ってこい」
「……え」
「行くなら、帰ってこい。死ぬな」
命令だった。
でも、その奥にあるのは、はっきりした愛だった。
リラの目が熱くなる。
「……うん。帰ってくる」
リラは、子どもみたいに言ってしまいそうになるのを堪えた。
でも、堪えきれず、少しだけ甘える声になる。
「……帰ってきたら、また一緒に星を見ていい?」
「当たり前だ」
「……へへ」
「笑うなと言っただろう」
「だって……嬉しい」
父は、ほんの少しだけため息を吐いた。
そして自然に、リラの頭に手を置いた。
乱れた髪を、ぎこちなく撫でる。
厳格な父が、こういうことをするのは珍しい。
リラの胸の奥が、じんわり温かくなる。
「……大人になったな」
父は短く言った。
「だが、なおさらだ。油断するな」
「うん」
「信じるな」
「……うん」
「でも、一人で抱えるな」
その一言が、リラの胸に刺さった。
ヴァルデンで学んだ合理とは違う。
ここにも“正解”がある。
「……うん」
リラは小さく頷き、星空を見上げた。
ここが、自分の帰る場所だ。
そして――ここから、また旅立つ。
旅が始まる。
マグナレオールへの期待と不安が、胸の中で静かに燃えている。
星は変わらず、そこにある。
谷は変わらず、そこにある。
リラは息を吐いて、夜の冷えた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
――行ってくる。
そして、帰ってくる。
その約束だけを、星に預けるように。
評価、コメント、お待ちしてます。




