ルシアの沈黙
エピローグ。ルシア視点です。
リラがいない街は、少しだけ調子が悪い。
大きな事件が起きるわけじゃない。
パンが一度焦げたり、仕入れの時間が噛み合わなかったり、
人と人の間に入るはずだった言葉が、半拍遅れたり。
致命的じゃない。
でも、積み重なると分かる。
――ああ、あの子がいないんだな、って。
《Líren》は相変わらず忙しい。
昼も夜も客は絶えない。
常連たちは席を譲り合い、知らない顔同士が自然に相席になる。
「今日も繁盛してるな」
「ルシアがいるからだろ」
冗談めかして言われるたび、私は笑って受け流す。
ありがとう、とも言わない。
否定もしない。
私がこの店を守っているわけじゃない。
この店が、私をここに立たせてくれているだけだ。
花を置いていく人がいた。
焼き菓子を差し入れていく人がいた。
言葉だけ残して帰る人もいた。
――あの子、元気にしてるかい?
私はいつも通り答える。
「ええ。大丈夫よ」
それ以上は言わない。
心配も、不安も、期待も。
全部、胸の奥にしまったまま。
だって、私は知っている。
あの子は、離れている時ほど、ちゃんと前を向く。
そして――
帰ってくる時は、ちゃんと帰ってくる。
「今日も静かだね」
そう言いながら笑うと、
常連の男が、少しだけ寂しそうに笑った。
彼は、昔から私の店に通っている常連客の一人だ。
用もないのに顔を出して、
私が忙しそうだと手伝おうとして、
でも一線は越えない。
目は、正直すぎるほど正直だ。
私を見る時、いつも少しだけ期待して――
少しだけ諦めている。
彼は分かっている。
私の隣に座る場所は、空いているけれど、
空席じゃないということを。
だから彼は、今日も何も言わず、
いつもより少し甘い菓子を頼んで帰っていった。
優しい人だと思う。
でも、選ばない。
私は、そういう人間だ。
*
扉が開いた音で、分かった。
振り向かなくても、足音で分かる。
少しだけ軽くて、でも迷いのない歩き方。
「おかえり」
「ただいま」
話す声が、少し大きい。
少し高い。
ああ、無事だったんだな、と分かる声。
リラは少し、大人になったように見える。
だが、
言葉を交わして、笑って、
カウンターに突っ伏したあの姿を見た瞬間。
――変わりすぎていないことも、すぐにわかった。
少しゆっくりしてから、だった。
「聞いて! 色々あってね!
まず食べ物がすごくて、あっ、でも大変なこともあって――」
止まらない。
手振りも大きい。
身を乗り出しているリラは、もう半分立ち話だ。
私は黙って、おかわりの紅茶を注ぐ。
リラは、西の国の料理の話をして、
会議の話をして、
理不尽だったことも、うまくいったことも。
全部まとめて、嬉しそうに吐き出した。
そして、少しだけ間を置いて。
「……あのね。留学、決まった」
カップを置く手が、少しだけ止まった。
「どこへ?」
聞いた声は、たぶん、普通だったと思う。
「北の国」
その瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
でも、顔は動かさない。
「そう」
それ以上、何も言わない。
言えば、余計なものが混じる。
するとリラが、少しだけ照れたように言った。
「それでね。休暇、二週間もらったの。
久しぶりに、一緒に故郷へ帰らない?」
一緒に。
この子が、ちゃんと「帰る場所」に私を含めている言い方。
「……いいわよ」
そう答えると、リラはぱっと笑った。
「やった。
――常連さん、怒るかな」
私は小さく息を吐く。
「ええ。きっとね」
*
話が一段落した頃、リラがふと思い出したように言った。
「……ヴァルデンにもね、白いお菓子があったの」
白。
その一言で、胸の奥が揺れる。
「美味しかったよ。でもね――」
リラは、ただの思い出話として言っている。
でも私には分かる。
あの子は、白を持って帰ってきた。
ちゃんと、ここに。
「……そう」
声が、少しだけ低くなる。
心配だった。
正直に言えば、ずっと。
私が隣にいない場所で、
リラが削られていくんじゃないかと。
でも。
白は、汚れていなかった。
*
店を閉めて、外に出る。
見送るリラの背中は、もう遠くにいる。
歩幅が、前より大きい。
その背中を見て思う。
私はいつまでも、隣にいられるわけじゃない。
声をかけることも、
手を引くことも、
守ることも。
全部、限りがある。
私がそばにいない時、
あの子が一人で立っていなければならない日が来たら。
その時は――。
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