正解の外側
第一部、クライマックスです。
ヴァルデンの朝は、皆が急いでいるのに静かだ。
人々の挨拶は短く、説明は最短で、感情は余白に追いやられる。
それでもリラは、もう「冷たい」とは思わなくなっていた。
冷たいのではなく、熱を他に漏らさない国なのだ。
理衡教の中央施設を抜け城へ向かう途中、書類の束を抱えた役人が小走りで通り過ぎた。紙が擦れる音。封蝋の匂い。
リラは足を止めずに、その束の角だけを見る。
決裁印の数。署名の筆跡の揺れ。添付紙の枚数。
焦っている。けれど、取り乱してはいない。
以前なら、理解できなかった。
今は違う。
何が遅れていて、何が詰まっていて、誰が首を絞められているか。
答えが出る前に、形が見える。
城の中、廊下の突き当たりで、ノクスヴァイの代表団が待っていた。
代表の男――彼の役目は「国としての顔」であり、常にノクスヴァイにとって正しい判断を求められる。
彼は短く言った。
「ご苦労。急だが、両国にとって重要な会議だそうだ」
「議題は輸送路に関わることですか」
「……長年、輸送路にあった都市、ハルヴァ。
金の流れが止まり、反乱の前兆があるそうだ」
その一言で、リラの胸の奥がきしんだ。
輸送路の再編。凶作の年。
数字上は成功。
現実は、別の場所が死にかけている。
リラは頷いた。
「分かりました。まず、反乱の“理由”を切り分けましょう。怒りは結果です。原因は別にあります」
男が少しだけ息を飲む。
その表情に、リラは気づいてしまった。
以前の自分なら、この場で「なんとかしたい」と口にしていた。
今の自分は、口にしない。
代わりに――
反乱を「物流の損失」として扱える。
人の怒りを「止めるべき流れ」として見られる。
そして、その先に「救える形」を探せる。
会議室の扉が開き、皆が席に着く。
正面には、ヴァルデン側の代表が並ぶ。連合ゆえに服は統一されていないのに、空気だけは不気味に揃っている。
リラの正面、斜め左前。
白を基調に黒と緑の差す神官服。鋭い目。薄い影。
ヴェルナ・アリキュールが座っていた。
彼女は何も言わない。
目線だけで、場の輪郭を決めている。
その沈黙が、今日は重い。
いつもなら、誰より早く「正解」を出す人が、意図的に黙っている。
リラは気づく。
これは、試されている。
*
進行役が淡々と告げる。
「議題。旧輸送拠点都市の経済衰退と、民衆不満の臨界接近。凶作年における反乱発生リスク。両国の関与範囲の整理、および対応策の決定」
机上に置かれた資料の束が同時に開く。
紙の匂いが、空気を乾かす。
まず提示されたのは、数字だった。
凶作の年、主要穀物の収穫率は平年比六割。
輸送路の最適化で、到達遅延は半減。輸送中の損耗も減少した。
凶作の影響による死者数は、予測より抑えられた。
理衡教的には「美しい成功」。
そういう数字だ。
次に出たのが、別の数字だった。
ハルヴァの市場取引額、三ヶ月で五割減。
宿屋の稼働、六割減。
運送業者の雇用、三割減。
税収、目標未達。
穀物の滞留、増。
治安指数、悪化。
そして最後に、もっとも扱いづらい言葉が付された。
反乱兆候。
ノクスヴァイの代表が言った。
「我々は輸送路再編に同意した。しかし、ハルヴァはヴァルデン領だ。統治はそちらの責任だろう」
ヴァルデンの代表が即座に返す。
「責任の所在を問う前に、損失の共有を確認したい。再編は両国の利益のために行われた。因果の鎖は切れない」
机の上で、紙が一枚だけ滑る音。
誰かが資料の端を揃え直した。
ヴァルデンの別の代表が続ける。
「我々の提案は既にある。ハルヴァへの直接支援は行わない。住民が移住すれば、都市は自然に縮小していく。それに加え、反乱が起きる前に治安部隊を配置する」
冷酷だ。
けれど、この国では「冷酷」は禁句にならない。
それは、単なる機能の選択だ。
ノクスヴァイ側が反論する。
「移住は短期では成立し得ない。凶作年だ。移住先も余裕がないだろう。治安部隊の配置は火に油を注ぐ事になる」
「反乱が起きれば生きている物流も止まる。火どころか国が燃える。油を被ってでも消すべきだ」
会議室の空気が固まっていく。
正論が正面衝突している。
正論は、相手を折らない。
リラは、資料の隅に目を落とした。
ハルヴァ――旧輸送路の中心。
今は切り捨てられた都市。
切り捨てたいが、切れない。
関わりたくないが、無関係ではいられない。
袋小路だ。
ふと、ヴェルナを見る。
彼女はペンすら動かしていない。
沈黙のまま、全員を見ている。
誰の正論が崩れるかではなく、誰が「次の正解」を作るかを見ている目だ。
リラの喉が渇く。
ここで声を上げるのは、怖い。
けれど、今まで学んできたものがある。
感情で反論しない。
かわいそうを武器にしない。
相手が切り捨てたくなる理由を理解した上で、切り捨てない選択を“損ではない形”に変える。
リラは、背筋を伸ばした。
視線を集める前に、資料の一枚を静かに押し出す。
「整理します」
声は大きくなかったが、会議室が止まった。
ヴァルデンでは、余計な言葉を嫌う。
だから、余計ではない言葉は、強い武器になる。
「ハルヴァは旧輸送拠点でした。輸送路が変わったことで金の流れが止まった。けれど、ハルヴァが元々担っていた役割は輸送だけではありません」
ヴァルデン側の代表が眉を動かす。
「……役割?」
「一次加工です」
リラは淡々と続けた。
「穀物の選別、乾燥、粉挽き、保存。干し肉、発酵、塩蔵。凶作の年に最も価値が出るのは、輸送量ではなく加工技術と保存可能量です。ハルヴァは、元々その“加工と保存”の要所だった」
ノクスヴァイ側の何人かが、思わず資料をめくる。
そんな情報が書いてあるのか、という顔。
書いていない。
自国の外交官補佐が、他国の状況にそこまで踏み込んでいることに驚いているのだ。
リラは言葉を選ぶ。
「輸送路になってから、ハルヴァは“通すことで稼ぐ街”へ変わりました。成功した。だから、変化の代償として、元の産業が廃れてしまった。今、輸送路から外れて、通す金が消えた。残るは、捨てたはずの技術と人材です」
ヴァルデン側の代表が言う。
「戻せと言うのか。輸送路を。効率を捨てて」
「戻しません」
リラは即答した。
場が、わずかにざわつく。
ノクスヴァイの代表が眉を上げた。
「では何を戻す」
「金の流れです」
リラは机上の資料を一枚、指で叩く。
叩いたのは数字の表ではない。
物流の付帯契約――細かい取引の一覧だ。
「輸送路は今のままでいい。ただし、ハルヴァに仕事を戻す。中継都市ではなく、加工都市として」
ヴァルデンの代表が、冷えた声で言う。
「加工都市化には初期投資が要る。人材が要る。時間が要る。凶作年に、余裕はない」
「余裕が無くとも、必要な事です」
リラは言った。
「反乱の芽を治安で押さえれば、物流は守れます。でも、反乱の“意思”は残る。意思が残れば、別の火種になります。次の凶作、次の不況、その時に燃えます。燃え上がる火は、今より大きいはずです」
言い切ってから、リラは一瞬だけ息を整える。
ここからが重い。
理屈だけでは足りない。
設計が要る。
「提案は四つです」
リラは指を立てた。
「第一。ハルヴァを加工都市へ再定義する。一次加工と保存加工を再稼働させる。穀物の乾燥、粉、発酵。肉の塩蔵。輸送路が外れても、生きる産業にする」
「第二。ヴァルデンは支援金を出さない。その代わり、設備を“貸与”する。所有権は国側、運用責任はハルヴァ。国に責任が増えない形です」
ヴァルデンの代表が鋭く言う。
「貸与と言い換えたところで支援だ。前例を作るわけにはいかん。所詮は綺麗事に過ぎん」
リラは頷く。
「だから第三。ノクスヴァイが“買う”。加工品を一定量、優先買付。価格は市場より低く設定します。その代わり長期契約にする。ハルヴァは売り先を得る。ノクスヴァイは安定供給を得る。支援ではなく取引という形で」
ノクスヴァイ側が反射的に返す。
「安く買い叩くのは反感を買う」
「反感の矛先を、価格ではなく“仕事”へ移します」
リラは言葉を切った。
「第四。契約には“雇用条項”を入れる。一定割合を地元雇用に限定。移住ではなく、働いて残る選択肢を作る。反乱理由は、空腹だけではなく“未来の喪失”です。未来を繋ぐ仕事があれば、反乱の意思は鎮まる」
会議室が静かになった。
静かすぎて、紙の端を指でなぞる音が聞こえる。
ヴァルデンの代表が、唸るように言う。
「理屈は整っている。だが、失敗した場合の損は誰が背負う。加工都市化は不確実だ。凶作年に不確実な事項を入れるのは危険だ」
リラは、そこを待っていた。
「失敗した場合も計算に入れています」
声が少しだけ強くなる。
「最悪のケース。加工都市化が不発。稼働率二割未満。雇用回復も限定的になる。反乱リスクは残る。ここまでが失敗です」
リラは資料を開き、数字を示す。
「その場合の損失は、治安部隊配置と鎮圧による物流遅延の損失より小さい。鎮圧が起きた場合、物流遅延は日単位で発生します。凶作年に日単位での遅延発生は致命的です。死者数が跳ね上がります。最悪のケースでも、加工都市化は“事態が起こるまでの時間を買える”。時間は、凶作年に最大の資源です」
ヴァルデン側の代表が黙る。
反論をしようとすれば、穴はある。
だが、反論すると、数字が敵になる。
ノクスヴァイの代表が、慎重に言う。
「ノクスヴァイにとっての利益は?」
「まずは、安定供給。将来の交渉カード。加えて――」
リラは視線を上げる。
「『自国の利益のために他国の地方を殺す国』という印象を消せます。支援したのではない。買っただけ。契約しただけ。でも、結果として都市が生きる。外交は守れる」
ノクスヴァイの代表の表情がわずかに緩む。
それは肯定ではない。
ようやく「代案」として扱えるという顔だ。
だが、ここで終わらない。
ヴァルデンは理屈だけで動かない。
理屈が“正解”に触れているかを問う。
そして――
ヴェルナはまだ黙っている。
ヴァルデンの別の代表が言う。
「理衡教の枠内で言えば、切り捨てが最も早い。治安配置も、短期的な正解だ。君の案は遠回りだと判断する」
リラは頷いた。
「遠回りです。でも、切り捨てが“早い正解”であることと、最も損が少ない正解であることは同義ではありません」
言ってから、リラは一瞬だけ目を伏せる。
ここで感情を乗せてしまったら、負ける。
でも、人間としての芯は消さない。
「切り捨ては“思想の正当性”を削ります。連合国家は、思想が共通言語です。思想が『切り捨てるための言葉』に見えた瞬間、次は思想そのものが疑われます。ハルヴァは小さい都市かもしれない。でも――象徴になれる」
ヴァルデン側の代表の目が細くなる。
痛いところを突かれた、という目。
ここで、ようやく。
ヴェルナが口を開いた。
「……聞きたいことがある」
声は静かで、だからこそ全員の視線が集まる。
「あなたの案は、理衡教的には“拡張”だ。だが拡張は危険でもある」
ヴェルナは続けた。
「前例を作る。次も同じ要求が来る。今回助けた街が、次は他の街を助けろと言う。連合は際限なく重くなる。あなたはそこまで計算しているのか?」
容赦ない。
あの鋭さ。
でも、今のリラは折れない。
「しています」
リラは即答した。
「前例を作らない仕組みを入れます。加工都市化の対象条件を明文化する。凶作年、旧輸送拠点、一次加工など主要技術の歴史、地元雇用の受け皿、物流の要所から外れたことによる急激な税収減。この五条件を満たす場合のみ」
ヴェルナが目を細める。
「条件が多い」
「多いほど、使えません」
リラは言った。
「使えない前例にする。必要な時だけ使える。理衡教の枠内で“例外”を制度化するのではなく、“条件付きの最適化”として残す。誰も感情で増やせない形にします」
会議室が、さらに静かになる。
ヴェルナが、わずかに息を吐いた。
「……あなた、ずるいわね」
口調は冷たいのに、人間臭い。
一瞬だけ、場がほどけそうになる。
ヴェルナは言葉を続ける。
「もう一つ。あなたの案は“金の流れ”を戻すと言った。金は戻る。仕事も戻るかもしれない。だが、街の誇りは戻る?」
リラの胸の奥が鳴る。
それは数字にない。
でも、ないことにできない。
リラは、ゆっくりと言った。
「……加工都市としての名目を、ただの再就職先にはしない。ハルヴァを“保存の都”として位置づける。生かす役割を背負う街にする。誇りは、役割から生まれます。
ハルヴァは将来、誇りある都市になる。私はそう確信しています」
ヴェルナが、数秒黙る。
その沈黙は、切り捨ての沈黙ではない。
採用か否かを決める沈黙だ。
そして、ヴェルナは言った。
「……合理の中に、あなたの色がある」
ヴェルナは指を一本だけ立てる。
「提案を採用する。ただし条件を追加する」
リラの喉が乾く。
厳しいやつが来る。
でも、それが正当であることを、リラは知っている。
「ハルヴァの加工都市化は、理衡教の名で実行しない。連合の思想を盾にしない。名目は“共同取引の再設計”だ。思想は説明に使うものではない。結果で黙らせなさい」
胸に刺さる。
でも、正しい。
思想を掲げた瞬間、反発は思想に向く。
結果で黙らせる。
それがヴァルデンだ。
ヴェルナが最後に言った。
「それと、責任の分割は徹底する。ヴァルデンが設備貸与の監査、ノクスヴァイが買付契約の履行、ハルヴァが雇用条項の遵守。誰かが背負いすぎれば、また同じ歪みが生まれる」
進行役が頷き、淡々と締めに入る。
「決定。ハルヴァ加工都市化計画、共同取引再設計案を採用。条件、監査・契約・雇用の責任分割。名目、共同取引の再設計として扱う。以上」
――盤面は、動いた。
リラは息を吐いた。
やっと、吐けた。
ヴェルナが視線だけを寄越す。
褒めない。
でも、否定もしない。
それで十分だった。
*
廊下に出た瞬間、空気が少しだけ柔らかくなる。
ノクスヴァイの代表が、低い声で言った。
「……君は、いつの間にそんなふうになった」
リラは笑わない。
でも、目線は逃げなかった。
「学びました。必要だったので」
代表が、短く息を吐く。
それが礼の代わりだと、リラは理解できるようになっていた。
人の流れが途切れたところで、ヴェルナが立ち止まる。
そして、他の者が聞こえない距離まで、リラを招く。
「リラ」
「なに」
もう敬語はない。
それだけで、胸が少し温かい。
ヴェルナは言った。
「リラらしくていい」
短い。
でも、芯に刺さる。
「あなたには、あなたの世界の救い方がある」
それは「私の後継者」という言葉ではなかった。
別の道を行け、と言っている。
同時に、認めている。
リラは、息を飲んでから言った。
「……私、まだ甘いよ」
「甘い」
ヴェルナは即答する。
「でも、甘さを武器にしてない。そこが違う」
リラは、少しだけ目を伏せてから、穏やかに笑った。
*
旅立ちの日の朝。
ヴァルデンの空はやはり乾いていて、畑の匂いが強い。
視察団の馬車が並び、ノクスヴァイの旗が控えめに揺れている。
見送りの列は多くない。
必要な者だけが、必要な距離で立っている。
ヴァルデンらしい別れ方だ。
その中に、静かに佇むヴェルナがいる。
いつもの神官服。いつもの鋭い目。いつもの薄い影。
リラが馬車へ向かいかけた、その時。
ヴェルナが一歩前へ出た。
リラの足が止まる。
ヴェルナは、周囲の視線など気にしない声で言った。
「次は、私があなたから学ぶ番かもしれない」
リラは笑うしかなかった。
そんな言葉、ここで言う人じゃないのに。
「やめて。私、調子に乗る」
「乗りなさい。必要な時は」
ヴェルナの口調はいつも通りなのに、少しだけ温度があった。
そして、最後に。
「迷ったら、またここに来なさい。
理由は聞かない。食事を一緒にしよう」
その一言で、胸の奥がほどける。
理屈じゃない。
ヴァルデンで学んだ全てが、この言葉が本心であることを証明してくれる。
リラは頷く。
「うん。絶対にまた、会いに来る」
言ってから、ほんの少しだけ口角を上げる。
「その時、肉料理は多めでお願い」
ヴェルナが一瞬だけ目を細めた。
笑みではない。
でも、確かに“それ”だった。
「……贅沢ね」
そう言って、彼女はいつもの顔に戻る。
いつものように、余計な感情を置いていかない。
リラは馬車に乗り込み、振り返った。
ヴェルナは立っている。
この国の塔のように、動かずに。
馬車が進む。
畑が遠ざかる。
丘が小さくなる。
外界は怖いだけじゃない。
そう思える場所が、確かにある。
同時に――
王国へ戻れば、また別の正しさが待っている。
それはヴァルデンでの正解とは、また違ったものになるだろう。
でも、もう逃げない。
逃げないことを、ここで覚えた。
リラは前を向いた。
馬車の窓から入る風が、確かに彼女の背を押していた。
評価、コメント、お待ちしてます。




