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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
始まりの国
12/19

合理の隣で

ヴァルデンにて。中盤です。

 夜が、ゆっくりと退いていく。


 ヴァルデンの空は、日の出前がいちばん美しい。

 闇が完全に消える前、地平線だけが淡く色づき、畑と丘の輪郭が浮かび上がる。


 その時間帯に、リラは歩いていた。


 外套の前をきちんと留め、眠気を押し殺して。

 昨日言われた通り、日の出前に。


 理衡教りこうきょうの中央施設。

 神殿と呼ぶには装飾が少なく、行政棟と呼ぶには静かすぎる場所。


 塔の影で、ひとり立っている人物がいた。


「……早いですね」


 振り返らずに、声だけが来る。


「遅れる理由がありませんでしたので」


「理屈は嫌いじゃないわ」


 そう言って、ヴェルナ・アリキュールは振り返った。


 白を基調に、黒と緑が走る神官服。

 鋭い目つき。

 目の下に、薄い影。


 今日も、あまり眠っていないのであろう。


「来たからには、無駄にはしません」


 そう言って、ヴェルナは歩き出す。

 リラは半歩後ろをついていった。


 朝の空気は冷たい。

 土と穀物の匂いが混じっている。


「昨日の続きを、話しましょう」


「……理衡教りこうきょう、ですよね」


「ええ」


 ヴェルナは立ち止まり、塔の下から国を見下ろした。


「ヴァルデンは連合国家です。

 文化も、民族も、言語も違う。

 それでも一つにまとまっている理由がある」


 淡々とした口調。

 だが、言葉に迷いはない。


「共通の神はいません。

 奇跡も、聖典も、偶像もない」


 リラは少し驚いた。


「宗教なのに……?」


「ええ。だから、宗教という呼び方自体が仮称です」


 ヴェルナは続ける。


「理衡教の教義は一つだけ」


 彼女は、空を背にして言った。


「最も多くを生かし、最も損をしない選択を尊ぶ」


 その言葉は、冷たいはずなのに、不思議と重かった。


「善悪ではありません。

 感情でもありません。

 結果です」


「……慈悲は?」


「最適解の中に含まれるなら、採用されます」


 含まれないなら、捨てる。

 そう言っている。


 リラは、昨日の会食を思い出していた。


「この思想がなければ、連合はとっくに崩壊していた」


 ヴェルナは、淡々と説明を続ける。


「かつて、ここには三つの国がありました」


 アグリオス。

 ベルクライン。

 セラフリム。


 農業、工業、交易。

 それぞれが強く、それぞれが足りなかった。


「情に流れ、切り捨て、裏切り合い、

 その度に、小さな戦争が起きた」


 声に感情はない。

 だが、知っている人の語り方だった。


「理衡教は、宗教というより」

「国家運営の“共通ルール”です」


 リラは、息を呑んだ。


(思想が、国を束ねている……)


「だから、この国では、善意は信用されない」


 昨日、転んだ女の子の母親に言われた言葉が、胸に刺さる。


「助けるなら理由を示せ。

 理由がないなら、助けるな」


「……冷たいですね」


 思わず、口に出た。


 ヴェルナは、少しだけ視線を寄越す。


「そう見えるでしょうね」


 否定はしない。


「でも、そこに嘘はありません。

 それだけです」


 *


 その日から、リラはヴェルナの業務に同行した。


 調停。

 分配。

 人材配置。


 誰かが得をし、誰かが損をする。

 それを、感情抜きで切り分ける仕事。


 ある日の午後。


 議論が膠着した場面で、リラは無意識に右手の薬指に触れていた。


 ――思記具。


 過去の数字。

 以前の類似案件。

 判断の流れ。


 正確に思い出せる。


「……この配分だと、三ヶ月後に反発が出ます」


 リラは、つい口にした。


 場が、止まる。


 ヴェルナが、ゆっくりとこちらを見る。


「根拠は?」


「過去の事例と……」


 言いかけて、止まる。


 言えない。

 どうやって“そこまで正確に”分かったか。


 ヴェルナは、数秒リラを見つめた後、淡々と言った。


「その意見は採用します」


 場が動く。


 会議が終わり、人が散った後。


「……その指輪。魔道具の一種ですね」


 ヴェルナは言った。


 責める声ではない。

 確認だ。


「はい」


 隠す気はなかった。


「助けになりましたか」


「ええ」


 一拍。


「でも」


 ヴェルナは、続けた。


「正しいことが、常に正解とは限らない」


 リラは、息を飲む。


「今回は問題なかった。

 でも、それが常態化すれば――あなた自身が疑われます」


 静かな声。


「正しさは、武器にもなる。

 同時に、標的にもなる」


 リラは、何も言えなかった。


「覚えておきなさい」


 ヴェルナは、視線を外した。


「理衡教が尊ぶのは“正解”です。

 “正しさ”ではない」


 その違いを真に理解する。その境界に、リラはまだ立てていない。


 *


 その日の業務が一段落したのは、日が傾き始める頃だった。


 数字の確認。

 地域代表との短い調整。

 判断の是非を問われる場面を、ヴェルナは一切の迷いなく片づけていく。


 その背中を、リラは半歩後ろから追っていた。


 速い。

 無駄がない。

 言葉が短く、感情が混じらない。


 朝から晩まで動き、考え、学ぶ。

 厳しい。容赦がない。


 それでも、ヴェルナは突き放さなかった。


 最後の書類に署名を終えたヴェルナが、ペンを置く。


「……今日はここまで」


 そう言ってから、ふと思い出したようにリラを見る。


「リラ」


「はい」


 一瞬、間があった。


「……食事、まだでしょう」


「え?」


「一緒にどうですか」


 唐突だった。


「業務効率のためです」


 言い訳のような言葉。


 命令ではない。

 でも、誘いとも言い切れない。


 それでも――

 リラの胸の内では、小さな花火が上がっていた。


 ――え、今の……誘われた?


「……はい。ぜひ」


 顔には出さない。出せない。


 ヴェルナはすでに踵を返して歩き出している。


「私の部屋よ。外食は効率が悪い」


 いかにも彼女らしい理由だった。


 *


 通された部屋は、国を束ねる宗教の頂点とは思えないほど、質素だった。


 広いが、装飾はほとんどない。

 書棚、机、調理スペース、簡素な寝台。

 だが、部屋の奥に小さな食卓があり、そこだけは生活の匂いがあった。


「座って待っていて」


 ヴェルナは外套を脱ぎ、寝台の脇にかけた。


 背筋を伸ばして待つ。

 しばらくして、微かに音が変わった。

 器が触れ合う気配。

 火にかけた鍋が、静かに息をする音。


 次の瞬間、温度を含んだ香りが、ゆっくりと部屋に満ちてくる。

 油と穀物、少しの酒精。

 私のお腹が、正直に反応した。


「料理は得意じゃないけど、嫌いじゃない」


 そう言って運んできたのは、香草と塩漬け肉。

 穀物を煮たスープ。

 そして、濃い色の酒瓶。


 ――これ好物、だ


 リラは、すぐに分かった。


 もてなすために選ばれた料理ではない。

 “好きだから出した”食事だ。


 こんなものを出されて、嬉しくならないわけがない。

 むしろ、困る。


 胸の奥が、きゅっと熱くなる。


 ――平静。平静よ、リラ。


 外交官補佐の矜持が、辛うじて仕事をしている。


 食卓に並んだ料理は、派手さこそないが香りが強い。

 肉はしっかり焼かれ、脂の匂いが食欲を刺激する。


「……いただきます」


 二人同時に、ほとんど同じタイミングで箸を伸ばす。


 一口。


 リラは思わず、喉の奥で息を呑んだ。


(……これ、好き)


 塩気が強い。

 でも、後味が軽い。

 香草の苦味が、肉の旨味を引き締めている。


 顔に出そうになるのを、必死で抑える。


 その様子を、ヴェルナは横目で見ていた。


「……今、感想を飲み込んだわね」


 リラは、しまった、と思った。


「え?」


「表情が一瞬だけ緩んだ」


 ヴェルナは淡々とスープを口に運びながら言う。


「美味しい時の顔」


 指摘されて、もう隠しきれなかった。


「……はい」

「とても」


 ヴェルナは、少しだけ口角を上げた。


「でしょう」


 その一言に、妙な誇らしさが滲んでいた。


 ――なにそれ、ずるい。


「この肉は脂が重いから、香草を強くする」

「そうすることによって、より肉の旨みが際立つ」


「分かります」

「この後味、次の一口の感動を引き上げてる」


 言った瞬間、リラは自分で驚いた。


(あ、私、今……)


 ヴェルナも、一瞬だけ手を止めた。


「……そう。それ」


 目が合う。


「分かる人、久しぶり」


 そこからだった。


 料理の話が、止まらなくなったのは。


「この酒、最初は渋いけど

舌が慣れると、甘みが出るでしょう」


「出ます。しかも、この料理にぴったり合ってる」


「でしょう」

「だから、この組み合わせ」


 二人とも、気づけば食事の手が止まっていた。

 話すことが楽しくて、食べるのを忘れかけていた。


 仕事の話は一切出ない。

 政治も、合理も、責任も。


 ただ、

 “好きな味“について語り合った。


 ヴェルナが、ふっと息を吐いた。


「……不思議ね」


「……?」


「仕事以外で、こんなに喋ったの、久しぶり」


 その声は、ほんの少しだけ柔らかかった。


 リラの胸が、じんわりと温かくなる。


「……私もです」


 食事が終わる頃、外はすっかり夜になっていた。


 酒瓶は空き、皿は綺麗に片づけられている。

 片付けは、私も一緒にやった。


「明日も早い」


「……はい」


 名残惜しい。

 でも、引き止める理由はない。


 扉の前で、ヴェルナが一度だけ振り返った。


「リラ」


「はい」


「……悪くなかった」


 褒め言葉としては、あまりにも簡素だ。

 でも――ヴェルナにとっては、最大級だった。


 部屋を出て、宿へ戻る道。


 夜風が、頬に心地いい。


 何かが変わった。

 はっきりとは言えないけれど。


 リラは小さく息を吐き、歩き出した。


 明日が、少し楽しみになっている自分に気づきながら。


 一度が、二度になり。

 二度が、いつの間にか“毎日”になった。


 食事中、敬語が減り。

 指摘が、少し柔らかくなり。


 ある日、言われた。


「様、はいりません」


「……え」


「仕事中以外は」


 それだけ。


 でも、それだけで距離が縮まった。


 *


 いつものように仕事を終えた、ある夕方。


 ヴェルナは、誰にも見せない場所へリラを連れて行った。


 塔の最上階。

 理衡教の頂点だけが立てる場所。


 そこから見えるのは――


 広大な畑。

 段々に連なる丘。

 高低差のある土地に、点在する集落。


 不揃いなのに、成立している風景。


「……すごい」


 リラの声は、震えていた。


「これが、ヴァルデン」


 ヴェルナは言った。


「合理の結果よ」


 しばらく、二人で沈黙した。


「……どうして」


 リラは、そっと聞いた。


「どうして、私にここまでしてくれたんですか」


 ヴェルナは、少しだけ目を伏せた。


「似ているから」


「……私が?」


「ええ」


 視線が合う。


「あなたも、判断を間違えない側の人間」

「だからこそ、危うい」


 そして、初めて。


 疲れたように、少しだけ笑った。


「放っておけなかっただけ」


 それは、合理ではなかった。

 でも――確かに、優しさだった。


 風が吹く。


 国が、静かに息をしている。


 この場所で。

 この人と。


 リラは、確信していた。


 ここで、自分は変わる。

 そして――もう戻れない。

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