正しさの形
第一部。後半です。
国同士の正式な取り決めの元だからか。
検問も形式的で、無駄な詮索はない。
歓迎の言葉もない。
ただ、確認される。
目的と期間と、こちらがもたらすもの。
街へ入ると、空気が少し違った。
整備された石畳。
機能的な建物。
人の流れは合理的で、立ち止まる者が少ない。
視線は合うが、感情は交わらない。
――乾いてる。
それが、最初の印象だった。
歩いている途中、ふいに小さな影が視界を横切った。
幼い女の子だ。
走っていた足がもつれ、石畳に躓く。
「あっ——」
反射的に、リラは駆け寄った。
膝をつき、手を差し伸べる。
「大丈夫? 怪我は——」
その手は、取られなかった。
女の子は、後ずさる。
母親らしき女性が、すぐに間に入った。
警戒するような目。
「……何の用ですか」
低く、平坦な声。
「いえ、転んだみたいだったから……」
言い終わる前に、遮られる。
「私たちに、何を求めているんです?」
一瞬、意味が分からなかった。
「見返りですか?」
「それとも、後で何か請求されるんですか?」
母親の声は、責めていない。
怒ってもいない。
ただ、確認しているだけだ。
リラは、言葉を失った。
「……いえ」
「ただ、助けようとしただけで」
母親は、子どもを背に庇ったまま、少しだけ考える素振りを見せる。
「……結構です」
それだけ言って、去っていった。
女の子は、一度だけ振り返り、
何も言わずに歩いていく。
残されたのは、差し出したままの手。
ゆっくりと、それを下ろす。
胸の奥が、ひどく静かだった。
“善意“はここでは価値にならない。
助ける理由がなければ、
助けられる理由もない。
合理的。
冷静。
無駄がない。
それが、この国の美徳なのだ。
リラは立ち上がり、周囲を見渡した。
誰も、この出来事を気に留めていない。
日常の一部として、流れていっただけ。
文化が違う。
そう頭では分かっているはずだった。
けれど。
胸の奥に残った小さなひびが、
簡単には消えてくれなかった。
――ここは、西方連合国家ヴァルデン。
善意では、何も動かない国。
リラは、外套の前を留め直し、
静かに歩き出した。
まずは、知るところから始めなければならない。
この国の、
正しさの形を。
*
ヴァルデンに入って最初に案内された建物は、城というより――機関だった。
石造りの外壁は無駄がなく、飾り気もない。
門をくぐる時、衛兵は礼をするでもなく、ただ書類を確認して頷いた。
視察団の入国は、国同士の取り決めで決まっている。
だから通る。滞りなく。感情を挟む余地もない。
(……楽、ではあるけど)
リラは胸の奥が少しだけ落ち着かないのを感じながら、案内役の背中を追った。
歩く廊下には絵も旗もない。あるのは掲示板と番号だけだ。
「会議の後、会食が予定されています」
淡々とした声で告げられる。
「会食……なんですね」
「はい。形式上は」
*
会議が終わり、移動をする。
会食の席は広間ではなく、会議室を少しだけ整えたような部屋だった。
長い卓、均一な椅子、距離を測ったように置かれた食器。
花は一輪だけ。香りもしない。
席に着く人々もまた、整っていた。
官僚、実務者、連合の各地域から選ばれた代表者。
服装は統一されていない。だが、どれも“機能”が先に立っている。
飾りの多い者はおらず、装身具も少ない。魔道具を嫌う国だという話を、リラは思い出す。
(……ここでは、派手に着飾る事に価値がない)
ノクスヴァイ側は、肩書きの格が見える着衣が多い。
だがヴァルデン側は違う。偉い者ほど、余計な情報を削ぎ落としている。
進行役が立ち、淡々と名前を呼ぶ。
「西方連合国家ヴァルデン、代表団――」
一人ずつ、短く自己紹介が続いた。
出身地域、担当分野、今回の議題における責務。
決して和やかな雰囲気ではない。
ノクスヴァイ側も紹介される。
リラは、自分の名前が呼ばれた瞬間だけ、背筋を伸ばした。
リラ・ヴェルノア。宰務局、外交官補佐。
小さく頭を下げ、笑顔を作りかけて――やめる。
この場に、笑顔は“用途”がない。
紹介が終わると、料理が運ばれてきた。
それを見た瞬間、リラの心の中が、思わず跳ねた。
皿は白。盛りは少ない。
だが、香りが強い。穀物の甘さと、焼いた脂の匂い。
薄い肉に、濃い色のソース。酸味と塩気が先に立つ。
付け合わせは根菜。切り方も整然としており、味の整いも完璧であることを確信させる。
(……とんでもなく、美味しそうなのが出てきたわね)
顔には出さない。
けれど内側では、子どもみたいに喜んでしまう。
一口。
肉は硬い。だが噛むほど旨味が出る。
ソースが、舌の奥を刺す。強いのに、後に残らない。
(……美味しい。特にこのソース。少し緑茶の風味もするし、どれほど時間をかけて作られているんだろう)
お酒が注がれた。
赤い。渋い。香りは薄い。
“酔うための液体”という感じが、妙にこの国らしい。
会食は静かに進んだ。
誰も誰かを褒めない。笑わない。
料理の説明もない。
ただ一人、リラだけが料理を味わっているようだった。
食後の甘味だけが、少し意外だった。
白い焼き菓子。粉糖の雪みたいなもの。
甘さは控えめで、舌に残らない。
(白……ルシアの、あの白いのを思い出す)
一瞬、胸が温かくなる。
だがそれすらも、ここでは余計な感情だと思い直し、リラは姿勢を戻した。
そして――食後。
連合国の代表の一人が、ぽつりと言った。
「……分配率の件ですが。再検討の余地があるようにも思える」
一言で空気が変わった。
会食が、会議になる。
まるで最初から、そのために料理があったみたいに。
「合意文の表現が曖昧です。こちらとしては不利になる」
「曖昧さは、あなた方の文化でしょう?」
「再検討を」
「再検討は、双方のコストです。こちらが負担する理由は?」
声は荒れていない。怒気もない。
ただ、刃がある。
リラの隣に座るノクスヴァイ代表の男は、少しずつ言葉が硬くなっていった。
形式と体面で進めるノクスヴァイ側。
だがヴァルデンは体面を価値に換算しない。
「友好のために――」
その言葉が出た瞬間、ヴァルデン側の誰かが言った。
「友好は価値ではありません。結果が価値です」
ぴたり、と会話が止まる。
リラの背筋に冷たいものが走った。
(……これが、この国の空気)
善意は通じない。
善意は、“疑い”になる。
議論は、昼の会議の続きを正確に再生しているようだった。
いや、昼よりも鋭い。夜だから、余計な飾りが落ちる。
代表が折れる気配はない。
ヴァルデンも譲る気配がない。
(このままだと、明日からの視察が“敵対の場”になる)
リラは息を整えた。
自分の出番ではない。そう分かっている。
でも――ここで崩れたら、長期視察自体がまずい事になる。
(どうする。どうする、私)
“正しくあろう”とすると、いつも同じ癖が出る。
自分が矢面に立てばいい。
自分が損をすればいい。
そうすれば、場が丸く収まる。
(……また、それ?)
でも、他に手が思いつかない。
リラは立ち上がった。
「失礼します」
声が震えないように、立つ両足に力を込める。
視線が集まる。ヴァルデンの冷たい目。ノクスヴァイ側の警戒の目。
「ノクスヴァイ王国代表団、宰務局 外交官補佐官のリラ・ヴェルノアと申します。こちらの不手際が、交渉の遅れを招いているのであれば――」
リラは、条件の一部を“こちらの負担”として提示する言葉を組み立てた。
それは、自分が責任を背負う提案だ。
代表の面子を保ち、ヴァルデンの利益も確保する。
(これなら、収まる。私が、動けばいい)
――その瞬間。
「お座りなさい」
冷たい声がその場に響いた。
リラの席の向かい、左前に座っていた女性。
白を基調に、黒と緑が差す神官服のような装い。
鋭い目つき。目の下に薄い影。疲れが、隠しきれていない。
部屋の空気が変わった。
“立場”が入ってきた時の、あの感覚だ。
「あなた、リラ・ヴェルノアといいましたね。
ヴェルナ・アリキュールです」
誰かが姿勢を正す音が聞こえる。
宗教の頂点――連合の主軸。
この国を束ねる“思想”の象徴。
ヴェルナは、リラの提案の途中を切り取って言った。
「あなたが損を被れば、今日の席は終わるでしょう」
淡々と。事実だけを並べるように。
「しかし、明日からは終わりません。
『ノクスヴァイは、個人を差し出す国だ』と理解されるだけです」
リラの喉が詰まった。
「それは――」
「あなたが正しいことをしたいのは分かります」
ヴェルナは、そこで初めてリラの目を見た。
視線が鋭い。刺すようなのに、逃げ場がない。
「ですが、“正しさ”の形が幼い」
「あなたは、損を払うことでしか場を整えられない」
冷たい。
残酷。
でも、真実だった。
リラは立っていられなくなりそうになる。
けれど、ここで崩れたら余計に“未熟”を証明する。
ヴェルナは、リラの代わりに卓へ向き直った。
「本日の議題は、友好ではなく、配分です」
一言で場が固まる。
「ヴァルデン側の要求を、半段階だけ下げます。
その代わり、ノクスヴァイは輸送路の整備に人員を出してください」
誰かが言いかける前に、ヴェルナは続けた。
「利益はヴァルデンが少し多い。ええ、承知しています。
ただしそれは、整備の主導権をノクスヴァイが握ることで相殺できます」
合理的すぎる提案。
一見、ヴァルデンが得をする。
でも“長い目”で見ると、ノクスヴァイも負けていない。
ノクスヴァイ代表は、言葉を返さない。
反論の言葉が見つからない。
それだけ整っている。
ヴァルデン側も沈黙した。
反対する理由はある。だが、反対した場合の損が計算できてしまう。
数秒の静寂の後、ノクスヴァイの代表が口を開いた。
「……合意する」
それで決まった。
会食が、会議として終わる。
拍手もない。乾杯もない。
ただ、記録だけが残る。
人々が立ち上がり、淡々と散っていく。
リラはまだ立ったままだった。
悔しさではない。
羞恥でもない。
自分が“守ってきた正しさ”が、薄い紙みたいに思えた。
ヴェルナが、リラの横を通り過ぎる。
その瞬間、リラは思わず口を開いた。
「……ヴェルナ様」
呼びかけに、ヴェルナは足を止めた。
振り返らない。背中だけで答える。
リラは一歩だけ近づいた。
「さっきの……私の提案は、間違いでしたか」
ヴェルナは、ようやく横顔だけ向けた。
「間違いではありません。短期的には“正しい”。
だからこそ、危険です。あなたは、短期でしか正しさを見ていない」
胸が痛い。
まるで掌に、古い傷があるみたいに。
「……私は」
言葉が出ない。
自分が何を言いたいか分からない。
ヴェルナは、淡々と締めた。
「今日はもう休んでください。
考えるなら、頭が動く時に」
そう言って去ろうとする背に、リラは堪えきれず言った。
「待ってください」
ヴェルナが止まる。
今度は、ちゃんとリラを見た。
リラは腹を括った。
この国は、遠回しが通じない。
「私はあなたに――学びたいです」
自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。
「今日みたいに、正しさを“誰かの損”で終わらせるんじゃなくて」
「ちゃんと、盤面で勝てるように……」
言いながら、自分が少し子どもみたいだと思う。
でも、今はこれが精一杯だった。
「仕事以外の時間で構いません。
あなたの側で、見て、学ばせてください」
「……お願いします」
ヴェルナはすぐに答えなかった。
鋭い目で、リラを測る。
(メリットがないなら、助けない国)
(助けたなら、思惑がある国)
その通りなら、ヴェルナはこう言うはずだ。
「見返りは?」と。
だがヴェルナは、少しだけ眉を寄せた。
「……あなた、疲れているのに、よく喋りますね」
口調は冷たいのに、内容が妙に人間臭い。
リラは一瞬、笑いそうになって堪えた。
「必要だと思ったので」
「必要、ですか」
ヴェルナは小さく息を吐いた。
「いいでしょう。条件があります」
来た、と思った。
「私の時間は有限です。あなたの成長が、私の仕事の効率に繋がると判断できる場合のみ」
「弱音を吐くなら、最初に吐いてください。後で吐かれると面倒です」
(……厳しい。でも、嘘がない)
リラは頷いた。
「吐きません」
「言いましたね」
ヴェルナは、ほんの一瞬だけ口角を上げた。
笑みというより、“確認”の動き。
「では明日。朝、日の出前に来てください」
「遅れることなど、ありませんね?」
「……はい」
リラの胸の奥で、熱が灯った。
恐怖もある。想像以上に過酷になるだろう。
でも、それ以上に――成長できる。
(私、まだ変われる)
ヴェルナは背を向けた。
「リラ・ヴェルノア」
呼ばれて、リラは背筋を伸ばす。
「あなたは、優しい」
「だから、危うい」
一刀両断。
でも、それが今夜一番、胸に刺さった。
「優しさを捨てろとは言いません。
ただ――使い方を覚えなさい」
そう言い残し、ヴェルナは去った。
会食の部屋に残されたリラは、しばらく動けなかった。
料理の余韻は、もう消えていた。
代わりに残ったのは、乾いた空気と、確かな予感。
ヴァルデンで、何かが変わる。
きっと、自分が変わる。
そしてそれは――甘くはない。
評価、コメント、お待ちしてます。




