作られる疑念
政治の世界において、物事は目まぐるしく動いていく。
本人の意思とは、関係なく。
宰務局の一室。
窓際の席で、男は書類に目を通していた。
エリオ・カーディスは、紙の上に並ぶ文字を追いながら、ほんのわずかに口角を上げる。
──実に、扱いやすい。
記されているのは、先日の事故処理に関する報告。
すでに正式な手続きは終わっている。
結論も出ている。
だが、だからこそ。
今さら動かすことはしない。
覆すこともしない。
必要なのは、評価を揺らすことだけだ。
エリオは、報告書の末尾にある一文に目を留めた。
〈被申立人は誠実な対応を示し、現場における混乱の沈静化に寄与した〉
美しい文言だ。
あまりに、美しい。
彼は、その一文を指先でなぞり、静かに鼻を鳴らした。
「……寄与、か」
善意で書かれた言葉ほど、歪めやすい。
エリオは、別の書類を手に取った。
非公式。
内部向け。
記録にも残らない、簡易な報告。
内容は、簡単だ。
〈事故現場に、国の人間がいた〉
〈結果として、被害は最小限に抑えられた〉
〈当該人物は、若く、判断が早いことで知られている〉
どれも、事実。
嘘は、一つもない。
だが、エリオはその報告書の最後に、こう付け足した。
〈同様の事例が、過去にも散見される〉
彼は、その紙を別の書類の束に紛れ込ませた。
誰かが読む。
いつか、誰かが覚える。
そして誰かが言う。
「……また、彼女か?」
*
同じ頃。
リラは、宰務局の別室で書類と向き合っていた。
事故後の雑務。
視察報告の整理。
細かな数字の確認。
表向きは、いつも通りだ。
だが、会議室の空気は確実に変わっていた。
視線が、合わない。
声が、少し遅れて発せられる。
会話の終わりに、余計な沈黙が残る。
──気のせい、よね。
そう思おうとして、やめた。
気のせいで済ませてきた結果が、今だということを、
私自身が、誰よりも分かっている。
無意識のうちに、右手の薬指にある指輪をなぞっていた。
思記具。記憶を“記録”する指輪。
南でのこと。
広場での空気。
職人の声。
はっきりと思い出せる。
正確に、再生できる。
だからこそ、厄介だった。
──私は、間違っていない。
その確信が、強すぎる。
けれど、政治の場で問われるのは、
「正しかったか」ではない。
「疑われなかったか」だ。
宰務局の午後は、今日も変わらず忙しかった。
リラはその喧騒の中を、昼食を終えて歩いていた。
会議室の前で足が止まる。
中から、声が聞こえる。
複数人。
いつもより、人数が多い。
──この時間に会議、予定されていたっけ?
予定表を見直す。
やはり、会議の予定は入っていない。
一瞬だけ、躊躇って。
それから、背を向けて歩き出した。
気付かなかったふりをする。
それが、今できる最善だと判断した。
背後で、扉が閉まる音がする。
その向こう側で、
彼女の名が、話題に上がっていることを、
リラは、まだ知らない。
*
城の中。
宰務局のいつもの会議室。
エリオ・カーディスは、壁際の席に腰掛け、議論を聞いていた。
発言はしない。
資料も、ほとんど開かない。
彼の役割は、場を動かすことではない。
空気を、整えることだ。
「最近、若手の動きが目立ちますな」
誰かが、何気なく言う。
「判断が早いのは結構ですが」
「慎重さを欠くのは、宰務局として問題だ」
別の声が続く。
エリオは、そこで初めて顔を上げた。
「判断が早い、というのは」
「裏を返せば、経験を補うための努力とも取れます」
穏やかな口調。
否定ではないが、確実に”彼”に向けられた声。
場の視線が、彼に集まる。
「ですが──」
エリオは、言葉を切る。
「“偶然”が重なりすぎると、人は不安を覚える」
それだけ。
名前は出さず、具体例も挙げない。
だが、誰もが同じ顔を思い浮かべる。
沈黙が落ちる。
エリオは、そこで話題を変えた。
「ところで」
「……来期の人材配置についてですが」
書類が配られる。
議論が、そちらへ流れていく。
彼は、心の中で小さく笑った。
──芽は、もう十分だ。
疑念とは、主張しなくても育つ。
水をやる必要すらない。
放っておけば、勝手に広がる。
*
夕方。
リラは、ようやく自席に戻っていた。
机の上には、処理待ちの書類が積まれている。
いつもより、多い。
……仕事が減ったわけじゃない。
むしろ、増えている。
けれど。
決定に関わる場から、少しずつ外されている。
雑務。
確認。
後処理。
責任はある。
でも、裁量はない。
リラは、書類を一枚めくりながら思った。
──これが、“疑われる側”か。
誰も責めない。
誰も罰しない。
ただ、触れにくくなる。
それが、一番きつい。
ふと、自分の指で光る指輪が目に入る。
これがあれば、私は自分を証明できる。
記憶も、判断も、すべて正確だ。
でも。
それを示した瞬間、
「なぜ、そこまで分かる?」
という疑問が生まれる。
──詰んでるじゃない。
リラは、思わず苦笑した。
正しくあるほど、危うくなる。
能力を持つほどに、説明が難しくなる。
机に伏せたまま、目を閉じる。
その時。
遠くの会議室から、人の出る気配がした。
複数人。
いつもより、遅い時間。
誰かが言う。
「では、その件は──」
声は、途中で扉に遮られた。
リラは、顔を上げなかった。
知らない。
今は、知らなくていい。
ただ、はっきりしていることが一つある。
──流れが、変わった。
それは事故のせいじゃない。
裁きのせいでもない。
“見られ方”が、変わったのだ。
リラは、そっと指輪を外し、引き出しにしまった。
今は、頼るべきじゃない。
そう判断した自分を、少しだけ誇りに思いながら。
*
宰務局の奥。
普段は使用頻度の低い、小会議室に灯りが入っていた。
重厚な扉が閉まり、外の音はほとんど遮断されている。
集まっているのは、限られた顔ぶれだけだ。
アデル・グランハルト。
ミレア。
数名の上級官僚。
そして──
壁際に、エリオ・カーディス。
彼は、相変わらず発言しない。
ただ、そこにいる。
「では、次の議題に移ります」
進行役が淡々と告げる。
「若手人材の配置と育成について」
机の上に、新しい書類が配られた。
紙の擦れる音が、やけに大きく響く。
「最近、いくつか問題が顕在化しています」
別の官僚が言葉を続ける。
「能力は高いが、現場判断に偏りが見られる」
「周囲との調整よりも、結果を優先する傾向がある」
名前は出ない。
だが、誰もが同じ人物を思い浮かべていた。
アデルは、腕を組んだまま黙っている。
ミレアは、視線を落とし、書類を追っていた。
「一時的に、視野を広げさせる必要があるのでは」
「国内では、かえって注目が集まりすぎる」
「外へ出す、という選択肢もありますな」
その言葉に、空気がわずかに動く。
エリオは、その変化を逃さなかった。
ほんの、ほんの僅かに。
頷いた者がいる。
反対の声は、上がらない。
ミレアが、ゆっくりと顔を上げた。
「……留学、ですか」
あくまで事務的な声。
「環境を変えることで、本人の成長を促す」
「同時に、周囲の懸念も一時的に沈静化できる」
理屈としては、完璧だった。
アデルは、ようやく口を開く。
「本人の意思は?」
一瞬の沈黙。
「……確認は、これからです」
誰かが答える。
エリオは、そのやり取りを静かに見ていた。
──確認する、か。
決まってから聞く。
それが、この世界のやり方だ。
議論は、細部へと移っていく。
期間。
派遣先。
名目。
だが、核心には触れない。
誰も「決定」という言葉を使わない。
誰も「命令」とは言わない。
ただ、可能性だけが、丁寧に積み上がっていく。
やがて、進行役が言った。
「では、本件については──」
言葉は、最後まで続かなかった。
誰かが書類を閉じる音。
椅子が引かれる気配。
それで、十分だった。
会議は、終わったのだ。
エリオは、最後までその場を動かなかった。
全員が退室してから、
ようやく、ゆっくりと立ち上がる。
何も言わない。
何も書き残さない。
だが、盤面は動いた。
廊下へ出る直前、
エリオは一度だけ振り返る。
閉じられた会議室の扉。
「……悪くない」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
その頃。
別の階で、リラはまだ書類に向かっていた。
何も知らず。
何も告げられず。
ただ、確実に──
次の場所へ向かう流れの中に置かれていることだけを、
まだ知らないまま。
閑話が続きました。
次回から、西方連合国ヴァルデンへ向かいます。




