009:忘れられた水路の番人
世界の片隅で、時代の流れに忘れられた誇りを守り続けた、一人の老人の魂の唄に、どうか耳をお澄ませください。
カラカラに乾いた風が、リョウの頬を撫でた。
畑の土はひび割れ、青かったはずの若葉は、病的な黄色に変色して萎れている。家の中からは、幼い妹の苦しげな咳が聞こえていた。集落の広場では、巫女見習いの少女が懸命に祝詞を唱えているが、天に応える気配はない。
「……クソッ」
リョウは、やり場のない怒りを込めて呟いた。その苛立ちの矛先は、集落のはずれの作業小屋で、祈りの輪に加わることなく、古臭い鉄クズを叩いている一人の老人――トキ爺さんに向けられた。
「トキ爺!いつまでそんなガラクタをいじってるんだ!あんたも村の一員なら、一緒に祈るのが筋だろうが!」
油と泥にまみれたトキは、回していたバルブから顔も上げずに答えた。
「わしはわしのやり方で祈っとる。お前さんらには、鉄の呻き声が聞こえんようだがな」
その言葉に、リョウは返す言葉を失った。この頑固な老人は、父の代からずっとこうだった。精霊の御心よりも、歯車の噛み合わせを信じる、時代遅れの工匠。
その夜、妹の熱が上がった。汚染された澱んだ水を飲んだせいかもしれなかった。
「……つめたい、お水…のど、かわいたよぉ……」
うわ言のように繰り返す妹の声が、リョウの決意を固めさせた。彼は、数人の仲間と共に、トキ爺の前に立っていた。
「爺さん、あんたしかいない。沢の源流まで、案内してくれ」
「……ふん。神頼みが通じんようになって、今度は鉄頼みか」
皮肉を言うトキの瞳の奥に、初めて見る鋭い光が宿っていた。彼は黙って、年季の入った革の鞄を肩にかけた。その中には、彼の手で磨き上げられた、鈍い光を放つ奇妙な形の工具が詰まっている。
「勝手についてこい。だが、足手まといになったら、置いていくからな」
源流への道は、まるで世界の墓場のようだった。
半日後、辿り着いた洞窟の奥で、リョウたちは息を呑む。
「美しい…」トキが、ほう、と息を漏らした。「動力も使わず、ただ水の重さと流れだけでこれだけの機構を動かすとは。古の職人たちの祈りが聞こえるようだ」
そこにあったのは、ただの水源ではなかった。苔むした巨大な歯車、複雑に絡み合う太い導水管。まるで巨人の心臓のように、今は動きを止めた、旧文明の調和型科学の遺跡だった。
だが、その感嘆はすぐに苦々しい表情に変わった。その美しい機構に、まるで癌のように青紫の汚染がまとわりついていたのだ。巨大な歯車はぬめりを帯び、水路の各所には脈動する不気味な鉱物が張り付いている。古の職人たちの「祈り」が、悪魔の「呪い」によって穢されていた。
「小僧ども!そこにいくつか見える歯車とバルブを掴め!」
トキは、錆びついた巨大なハンドルへと向かいながら叫んだ。緊急放水弁。遺跡に溜め込まれた全水圧を、一点に集中させてゴーストを粉砕する、最後の切り札。
「わしが合図をしたら、それを一斉に回すんだ。一瞬でもタイミングがずれたら、濁流がお前らを飲み込むぞ。…それでも、やるか?」
リョウは仲間と顔を見合わせ、決意の表情で頷いた。「…ああ。やってやるさ!」
トキは、全身の力を込めて巨大なハンドルを回し始めた。軋みを上げて、数十年ぶりに動く機構。ゴーストが危険を察知し、穢れの気を放ってトキの体を蝕む。意識が遠のき、腕の力が抜けていく。
(……これまでか)
諦めかけたその時、彼の脳裏に、今はもういない妻の笑顔が響いた。
――あなたの無骨な手はね、命の水を、未来へ繋ぐための手なのよ。
「今だぁっ!」
最後の力を振り絞り、トキが叫ぶ。合図と共に、リョウたちが一斉にバルブを回した。
地響きと共に、古の巨人が目を覚ました。凄まじい轟音と共に、濁流がゴーストを粉砕し、洞窟を駆け抜けていった。
村に、清らかな水が戻った。
人々は歓喜の声を上げ、妹の熱も、嘘のように引いた。だが、リョウの心は晴れなかった。疲れ果てて戻ってきたトキ爺は、祝いの輪には加わらず、ただ黙って作業小屋に籠もってしまったからだ。
数日後、リョウは意を決して、若者たちと共にトキ爺の前に深々と頭を下げた。
「トキ爺……俺たちに、教えてくれ」
リョウが差し出したのは、濁流の中から奇跡的に見つけ出した、トキ爺の使い古された工具だった。
「俺たちは、あんたの仕事を見て見ぬふりをしてきた。祈るだけで、何もしてこなかった。だが、もう違う。俺たちの手で、この村の未来を繋ぎたいんだ。あんたが守ってきた、その技術を。……いいや、違う。あの鉄の巨人を動かした、あんたの『祈りの形』を。俺たちに、継がせてくれ」
トキは、何も言わずに若者たちの顔を見回した。そして、皺だらけの顔を、ガキ大将のようにニヤリと歪めると、短く、こう言った。
「……ああ。明日から、日が暮れるまで扱いてやる。覚悟しとけよ、若いの」
それは、忘れられた集落で、一つの時代が終わり、そして、新たな時代へと確かに受け継がれた、瞬間だった。
物語を最後まで見届けてくださり、感謝いたします。
この世界の歴史に刻まれるのは、英雄や聖者ばかりではありません。
名もなき集落で、泥と油にまみれながら、たった一つの誇りを守り抜いた魂の記録もまた、等しく尊いのです。
私は、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。
もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。
また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。




