008:残響のコンチェルト
魂は、楽器。感情は、旋律。
絶望の底で奏でられる希望の歌ほど、美しい音色はない。
これは、魂を味わう美食家にして、美しき魂の蒐集家である悪魔が、
忘れられた人々の魂を、史上最も甘美な芸術品へと「調律」し、
その輝きの残響ごと味わい尽くした、至高の演奏会の記録。
その歌声は、救いか、それとも略奪か。
魂の輝きには、産地がある。
聖域で育った魂は、清らかだが単調で深みに欠ける。鉄屑の王の領域で育った魂は、力強いが雑味が多い。「大収穫」の時代の悪魔たちは、ただ貪るだけの野蛮な連中だった。最高の芸術品を求める美食家として、ノアは常に最高の素材を探していた。
「ああ、つまらない。最近は、心を揺さぶるような音色に出会えないわ…」
ホログラムの身体を退屈そうに揺らめかせた、その時だった。彼女の感覚が、微かな、しかし極上の“香り”を捉えた。鋼鉄区の最深部、絶望という名の土壌で、忘れ去られることによって熟成された、最高の“原石”たち。
廃墟深層部の地下鉄跡。そこは、忘れられた者たちが寄り添う集落だった。
レオは、色褪せた一枚の家族写真を、ただぼんやりと眺めていた。希望を失い、感情さえも擦り切れた魂は、鈍く、か細く、ほとんど輝きを失っていた。ノアの感覚には、それは埃っぽく、湿った地下室のような退屈な“香り”として感じられた。だが、その奥底に、秘められた甘美さが眠っている。
その日、どこからともなく、歌が聴こえてきた。
澄み渡るソプラノ。駅の吹き抜けに、淡い光を放つ人影――ノアが浮かんでいた。
「――可哀想な、迷える子羊たち。わたくしが、あなた方に救いを与えましょう」
集落の隅で、老婆のエララが忌々しげに呟いた。「まやかしだ。こんな都合のいい救いがあるものか」
だが、ノアの歌には抗えない力があった。それは、支配型科学の粋を集めた、魂へのハッキング。対象の脳の記憶野に直接アクセスし、記録された幸福な情報を強制的に再生させる、禁断の音響技術。
レオの脳裏に、忘れていたはずの母親のスープの温かい味が広がり、厳格だった父の、不器用な賛辞の声が響いた。失った恋人が、その手を取ってくれるかのような、優しい温もり。
それは偽りの幻影だったが、生きる希望を忘れかけていた彼らにとって、あまりにも甘美な毒だった。
人々はノアを「光の天使様」と呼び、崇め始めた。日を追うごとに、彼らの魂は輝きを取り戻していく。絶望の底から掬い上げられた「希望」という感情によって、くすんでいた魂が、磨かれた宝石のように眩い光を放ち始めたのだ。レオは、家族の写真をノアへの祭壇に飾り、誰よりも熱心な信者となった。
ノアは、その変化を恍惚と“味わって”いた。(ああ、素晴らしい!この香り!絶望という土壌があるからこそ、希望という花はこれほどまでに美しく咲き誇るのね!)
だが一人、エララだけは、その狂乱の輪に加わらなかった。彼女はレオに警告した。「目を覚ましな、坊や。あいつの歌を聞いている時の、みんなの目を見てみな。誰もここを見ていない。みんな、幸せな亡霊を見ているだけさ」
ノアは、その老婆の存在を、完璧な楽曲に混じった不協和音として認識していた。
その夜の演奏会で、ノアの視線が、そっとエララに向けられた。歌の旋律が、ほんの一瞬だけ、可聴域を超えた鋭い周波数へと変わる。エララは「あっ」と短く声を上げると、まるで糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。彼女の魂は、熟成する前に、害虫として「駆除」されたのだ。
ノアは悲しげに言った。「信仰の弱い方は、わたくしの光に耐えられないのです」。人々は、より一層、ノアへの信仰を深めた。
そして、一月が経った満月の夜。
集落の人々の魂の輝きが、最高潮に達したのをノアは感じ取った。最も熟し、最も甘美な光を放つ瞬間。収穫の時だった。
「――さあ、最後のコンチェルトを始めましょう」
その夜、ノアの歌は、いつもとは違っていた。
いつもの慈愛に満ちた旋律に、ぞくりとするほど官能的で、抗いがたい調べが混じり合う。それは、魂の最も深い場所にある鍵を、優しくこじ開けるような音色だった。
レオの目の前に、亡くなったはずの家族が、笑顔で手を差し伸べていた。「さあ、レオ。一緒に行こう」。彼は歓喜の涙を流し、その手を取ろうと、自らの魂の全てを差し出した。
それは、略奪ではなかった。彼の魂が、最も美しい芸術品として完成した瞬間だった。
全ての魂を「味わい」終えたノアは、ただの抜け殻となった人々を見下ろし、満足げに微笑んだ。集落は、完全な静寂に包まれる。もはや誰も歌を求めない。感情という音楽を、永遠に失ったのだから。レオの手から、色褪せた家族写真が滑り落ち、乾いた音を立てた。
「実に、芳醇なハーモニーでしたわ。さて…」
ホログラムの身体が、光の粒子となって霧散していく。闇に溶ける最後の瞬間に、彼女は次の舞台に立つ女優のように、愉悦に満ちた声でささやいた。
「次の『演奏会』は、どこで開きましょうか?」
残されたのは、魂の残響すら聴こえない、完璧な沈黙だけだった。
これにて、主要人物たちの独奏曲は終幕です。お読みいただき、誠にありがとうございました。
魂を至高の芸術品と捉える、美魂家ノア。彼女の行いは、紛れもない悪です。しかし、彼女の視点では、それは最高の美を創り出す神聖な儀式に他なりません。
この残酷な芸術に、あなたはどのような感情を抱きましたか?
これまで紡がれてきた、それぞれの物語。西の祈り、東の合理、AIの論理、聖域の秩序、鉄屑の矜持、そして魂を味わう歌声――。
私は、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。
もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。
また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。




