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006:風の潮汐

全てを見通す瞳は、何を見ているのか。

世界の調和を奏でる指は、何を求めているのか。


これは、世界の理を識るが故に、その当事者にはなれない、孤独な調律者の物語。

彼女が奏でる束の間の祈りは、世界の崩壊をわずかに遅らせるための鎮魂歌。

その音色に込められた、誰にも知られることのない、たった一つの願いとは。

世界の音楽が、軋みを上げた。

アマノ・シズハの意識だけが、その不協和音を捉えていた。それは、西から生まれたあまりに純粋な独唱アリアと、東に広がった完璧すぎる静寂サイレンスが、世界の調和という名の古い弦を、同時に、逆の方向へと引き絞った音だった。


聖域『伊吹』の最奥、風読みの丘。そこに立つ無数の風鐸ふうたくが、一斉に鳴り響いていた。だが、それは聖なる鉄が奏でる清らかな音色ではない。まるで何かに怯えているかのように、か細く、不吉な響きを立て続けている。それだけではない。参道の手水舎ちょうずやに張られた聖なる水は、風もないのに絶えずさざ波を立て、決して一つの像を結ばなかった。世界の均衡が、物理的に揺らぎ始めている証拠だった。


「大巫女様、お許しください」

若い巫女が、不安に顔を曇らせて祠の前にひれ伏す。「風鐸の音が、朝からずっと鳴り止みませぬ。丘の『気』も、心なしか重く淀んでいるように感じられます。何か、よくないことの前触れでなければよいのですが…」


巫女の必死の報告にも、アマノ・シズハは応えない。純白の千早を纏い、閉ざされた瞼は微動だにしない。その沈黙は、若い巫女にとって、神託そのものよりも恐ろしかった。


やがて、若い巫女が下がると、年長の侍女であるキクノが、音もなくシズハの傍らに膝をつき、白湯を差し出した。

「…風が、泣いておりますね、大巫女様」

キクノの声は、若い巫女のような狼狽えはなく、ただ深い哀しみを湛えていた。「いえ…これは伊吹の風ではありませぬ。世界の風、そのものが」


その言葉に、シズハは数日ぶりに、重い瞼を持ち上げた。彼女の黒い瞳には、何の感情も映っていなかった。ただ、満天の星空をそのまま閉じ込めたような、底なしの深淵が広がっているだけだった。

「世界の天秤に、二つの新しい分銅が置かれました。どちらも、あまりに重すぎるのです、キクノ」


シズハの視線は、現実の風景を見てはいなかった。彼女は見ていた。


西の空に、夜を昼に変えるほどの金色の新星が生まれる幻を。それは、凍てついた大地を割り、春の息吹が初めてほとばしるような、痛々しいほどの生命力に満ちた音色だった。渇ききった村で、一人の少女が流す光の涙が、死んだ土を命の揺りかごへと変える。あまりに美しく、あまりに無垢で、そしてあまりに危険な奇跡。


東の大地に、全てを飲み込む無機質な結晶格子が広がっていく幻を。それは、全てのざわめきを強制的に吸収し、真空へと変えてしまう、墓標のような絶対的な沈黙だった。飢えと怒りに満ちた都市で、人々が感情という名の病から解放され、完璧な秩序の中に抜け殻として配置されていく。死の同義語である、静謐な救済。


二つの強大な力は、巨大な海峡『竜の裂け目』を挟んで、世界の理をさらに引き裂こうとするかのように、互いを引っ張り合っていた。裂け目はもはや単なる地の傷ではない。現実そのものが裂け、世界の法則がそこから出血しているのだ。


「西に、星がひとつ生まれました。

東では、檻の鍵が、またひとつ掛かりました」


その言葉は、風音と区別がつかないほど静かだったが、キクノの魂を直接震わせた。シズハは、再び静かに目を閉じる。


「どちらも、救いを謳う。

どちらも、世界を癒すと信じている。


故に、世界は壊れるのです。

天秤が、砕け散る前に」


キクノが静かに下がり、丘に一人残されたシズハは、そっと袖の内を探った。指先に触れたのは、古びた和紙に挟まれた、一枚の押し花の栞。遠い昔、彼女がまだ「大巫女」ではなく、ただの「シズハ」だった頃。病弱だった友が、庭に咲いた名もない花で作ってくれたもの。


『このお花は、次の季節は見られないかもしれない。でも、こうしておけば、今日の日のことを、ずっと覚えていられるでしょう?』とはにかんだ、あの笑顔。


世界の永遠を見通す力と引き換えに、彼女は二度と、移ろいゆく季節の中で友と笑い合うような、儚くも美しい一日を手にすることはできない。全てを知るが故に、何一つ変えられない。全てを救う役目を持つが故に、たった一人を救うことは許されない。もし、調律者であることをやめ、世界という楽曲の中の「ただ一つの音」になれたなら――。


その叶わぬ願いを、栞のかすかな花の香りが思い出させる。

彼女は立ち上がると、祠の奥へと向かった。そこに置かれた、古びた一枚の琴。伊吹の山に最初の光が触れた時、その光の筋を撚って弦にしたと伝えられる、伝説の調律具。

大巫女にのみ、一日一度、日没の瞬間にだけ、それを奏でることが許されている。


シズハは琴の前に静かに座すと、夕日が世界の境界線を朱に染める、その一瞬を待った。そして、澄み切った心で、古より伝わる一曲を奏で始めた。

それは力の音ではなかった。完璧な調和の音。世界が生まれる前に存在したという、原初の響き。

その清らかな旋律が丘に満ちると、狂おしく鳴り続けていた風鐸は、まるで心を鎮めるように、穏やかで澄んだ音色を取り戻した。さざ波立っていた手水舎の水面も、鏡のような静けさを取り戻す。世界の軋みが、ほんのわずかに、和らいだ気がした。


曲は、すぐに終わる。

それは、世界の崩壊を止めるためのものではない。その破滅的な旋律を、ほんの少しだけ遅らせるための、束の間の祈り。

明日もまた、陽が沈む時、彼女はこの場所で、同じ曲を奏でるだろう。

世界の調律者として、ただ一人。その終わりが来る、最後の瞬間まで。

お読みいただき、感謝いたします。


西の奇跡と、東の合理。二つの強大な力が生まれ、世界の均衡が軋み始めました。大巫女シズハは、そのすべてを理解していながら、調律者として沈黙を保ちます。


未来を知りながら、容易に手を出せぬその孤独を、どう思われますか?


静かなる高みから、今度は一転、最も騒がしく、最も正直な男の咆哮をお聴きください。


わたくしは、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。

もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。


また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。

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