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005:聖域の天秤

正しさは、時に刃となる。

優しさは、時に牙を剥く。


これは、過去の「情け」によって全てを失った衛士長が、自らの心を凍てつかせ、二度と過ちを犯さぬための天秤を掲げ続けた、孤独な闘争の記録。

その刃が守ろうとしたものは何か。その天秤が量ろうとしたものは、何か。

今日も、聖域『耶麻』の空気は清浄だった。城壁の上、衛士長ゲンカイは深く息を吸い込む。何も変わらない風の匂い。それが何よりの善だ。停滞と謗られようと、この予測可能な安定こそが、失われた多くの命の上に築かれた、か細くも尊い秩序なのだから。


――その平穏を切り裂くように、異質な匂いが彼女の鼻腔を微かに掠めた。


遥か東の廃墟から風に乗ってきた、鉄と錆、そして絶望の匂いだった。


陽炎の向こうに、揺れる人影が見える。五人。足取りは重く、うち一人は背負われている。ゲンカイの鋭い瞳が、彼らの継ぎ接ぎの装備と、その消耗具合を瞬時に分析した。


「……ハヤテ」


「はっ」


いつの間にか隣に立っていた副官が、硬い声で応じる。


「あの足取り…『鉄屑の王』の領域を抜けてきたか。正気の沙汰ではないな」


「だとしたら、ただ者ではありません。あるいは、よほど切羽詰まった者たちか」


ハヤテの言葉が終わる前に、ゲンカイは城門へと向かっていた。彼女の顔の古い傷跡が、厳しい光の下で疼くように見えた。


「止まれ。そこから一歩も入るな」


腹の底から響くゲンカイの声が、乾いた空気を震わせる。難民たちは、その威圧感に怯えながらも、必死の形相で膝をついた。


「お助けください!衛士長様!」リーダー格の男が叫んだ。「俺たちはゴウダ・ソウジの支配から逃げてきた者です!どうか…この子だけでも…!」


彼が背負っていたのは、ぐったりとした幼い少女、ユイだった。絶え間なく咳き込み、その顔色は土気色をしていた。聖域の清浄な「気」が、むしろ悪魔派圏の瘴気に慣れたその身を蝕んでいるようだった。


「彼らを癒しの泉へ!一刻も早く!」


駆けつけた若い巫女が悲痛な声を上げる。だが、ゲンカイの側近である老衛士は、苦い顔で首を振った。


「衛士長。なりません。彼らは未知の要素が多すぎる。聖域という完成された『安定』に、予測不能な『変化』をもたらしかねません」


その押し問答を聞きながら、ゲンカイの視線は、咳き込むユイに釘付けになっていた。その瞬間、彼女の脳裏に、遠い過去の光景が灼きつくように蘇る。


――血の匂い。炎に照らされた少年の無垢な瞳。「助けて」という声。その服の下に隠されていた冷たい機械の感触。そして、聖域の防衛結界が内側から崩壊する絶叫のような音――

あの日、彼女は一人の難民の少年に「情け」をかけた。その少年こそが、内部から結界を破壊するために送り込まれた、悪魔派の改造兵だったのだ。その油断が、多くの仲間を死なせ、ハヤテの兄を奪い、ゲンカイの顔にこの癒えない傷跡を刻んだ。


「衛士長、ご決断を」ハヤテが静かに促した。彼の声には、過去の悲劇を知る者としての苦悩が滲んでいた。「ですが、ゲンカイ様。目の前で命が失われるのを見過ごすのが、我らの『理』でありましょうか。兄も、それを望んではいないはずです」


「……お前も、あの巫女と同じことを言うか」


ゲンカイは吐き捨てるように言うと、ゆっくりと難民たちへと歩み寄った。彼らの瞳に浮かぶ絶望の色を見据えながら、冷徹に、しかし一言一句を区切るように、告げた。


「貴様らを、聖域に入れることは許可しない」


若い巫女が息を呑み、難民たちの顔から血の気が引く。ハヤテが唇を噛みしめた。


だが、ゲンカイの言葉は続く。


「だが、ここで死ぬことも許可しない」


彼女は門の外、聖域との境界線を引く川の手前を指さした。


「そこに、仮設の寝床と食料、そして薬草を届ける。ただし、治療は自らで行え。衛士が24時間監視し、境界を越えようとする者は、斬る。貴様らがこの土地の『ことわり』に従うに値する者か、我らが見極めるまで、そこを動くな」


それは、救済ではなかった。しかし、見捨てることでもない。善意と秩序、その二つを天秤にかけた結果ではない。外より来たる「穢れ」を、聖域の「理」の内側で管理下に置くための、冷徹な儀式であった。


難民たちは、泣きながら、あるいは呆然としながら、その言葉を受け入れるしかなかった。


その夜。粗末な難民キャンプに、静かに焚火の火が揺れている。


ゲンカイは一人、聖域の城壁の上から、その光景を微動だにせず見下ろしていた。彼女の手が無意識のうちに、亡き戦友たちの形見である、腰の剣の柄を固く握りしめている。


「……あれで、よかったのですか」


背後から近づいたハヤテが、静かに問うた。


「停滞と非難されるだろうな。お前が言いたいことは分かる」ゲンカイは、闇を見つめたまま答えた。「だがハヤテ。私は二度と、仲間を失うわけにはいかんのだ。この聖域の『理』を揺るがすものは、たとえ赤子であろうと、斬り捨てる覚悟がある」


その横顔は、まるで岩のように固く、一切の感情を読み取らせない。ハヤテはそれ以上、何も言えなかった。


同じ頃、川辺の仮設テントの中で、少しだけ顔色の戻ったユイが、母親に寄り添いながら、城壁の上を見上げていた。そこに立つ、小さな人影を見つめて。


「お母ちゃん。あのお姉ちゃん、すごく怖かったけど……」


ユイは、咳き込みながらも、不思議そうに呟いた。


「なんだか、ずっと泣いてるみたいな、悲しい顔してたね」


その言葉は、誰に聞かれることもなく、静かな夜の闇に溶けていった。

ありがとうございます。物語の旅にお付き合いいただき、光栄です。


衛士長ゲンカイの決断は、非情に映ったことでしょう。しかし、それこそが彼女なりのやり方で、愛する聖域と、そこに住まう人々を守るための唯一の答えなのです。


秩序か、情けか。あなたが彼女の立場なら、どちらの皿に重りを乗せますか?


次は、視点を遥か高みへ。この世界のすべてを見通す、大巫女の瞳が映すものとは。


わたくしは、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。

もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。


また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。

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