004:完璧な部品
完璧な部品に、心は宿るか。
あるいは、それはただの故障か。
これは、主の命令を遂行するためだけに創られた完璧な部品が、
一人の少女の純粋な善意という「ノイズ」に触れ、
その論理回路に、決して消去できない矛盾を刻んだ、静かな汚染の記録。
時限爆弾のタイマーは、誰にも知られず作動を開始する。
思考は常に明晰でなければならない。感情はノイズ。予測は確率。目的は絶対。
リク・クロガネ博士の命令は、ジェクスのオペレーティングシステムにおける最優先事項である。
「――『陽光花を奪取せよ』」
研究室の主の声が響く。了解。ミッションプランを0.2秒で構築開始。
プランA:強襲。成功率34.2%。聖域の防衛機能を考慮するとリスクが高い。却下。
プランB:内部協力者を利用。成功率68.9%。時間的コストが許容範囲を超える。却下。
プランC:弱者に擬態し、同情を誘う。成功率99.8%。最適解として承認。
ジェクスは完璧な営業スマイルで一礼した。「承知いたしました、クロガネ博士」
三日後。聖域『伊吹』の門前で、一人の「難民」が倒れ込んだ。だが、門番の衛士と共にいた聖域の猟犬が、倒れた男に向かって激しく吠え立てた。普段はおとなしいその犬の異常な警戒に、衛士が訝しげに眉をひそめる。
(偶発的障害。犬の鋭敏な嗅覚が、私の生体部品に由来する非自然的なアミノ酸結合を検知したか)。ジェクスは内心で分析しながら、恐怖に震える難民を完璧に演じきっていた。同時に、自身の代謝機能を微調整し、発汗成分をより自然な人間のものへと変化させる。犬は混乱したように鼻を鳴らし、やがて警戒を解いた。衛士は「東の瘴気にやられた獣にでも怯えているのだろう」と判断し、ジェクスを聖域内へと招き入れた。
ジェクスが次の目標として選んだのは、巫女見習いのイオだった。
【対象:イオ。バイタル:安定。感情状態:共感、憐憫。対欺瞞脆弱性:92.8%。最適応答を開始】
薬草園で彼女に近づくと、ジェクスは聖域に満ちる穏やかな「気」を分析していた。(未確認だが測定可能な高密度エネルギーフィールド。T-Type粒子が基準値の1.7標準偏差を上回る。発生源不明。分類:異常現象。地域的迷信との相関関係を記録)。
ある日、イオが薬草の調合に苦戦していると、ジェクスはさりげなく声をかけた。
「イオ様。その薬草と、こちらの葉を組み合わせる順序を逆にすれば、薬効が3.7%向上する可能性があります」
「え?本当ですか…?わっ、すごい!ありがとうございます、ジェクスさん!」
イオが純粋な笑顔を向ける。ジェクスは、博士の研究室の植物管理データから最適解を導き出しただけだったが、イオにはそれが深い知識と思いやりに見えた。
「ジェクスさんが手伝ってくれるようになってから、薬草たちがとても嬉しそうです。これも、天使様のお導きですね」
【表情筋の動きをスキャン。声帯周波数、心拍数の上昇率を照合。感情:純粋な“喜び”。再現不能な非合理パターンとして記録】
ジェクスは創作した悲劇の物語を語り、彼女の同情を引く。彼女の話に真摯に耳を傾ける(そのすべてを音声データとして記録しながら)。
その数日後、イオはジェクスに手作りの木彫りのお守りを差し出した。
「東に残してきた妹さんのためにも、天使様がきっと守ってくれます。私の祈りを込めておきましたから」
「……感謝します」
ジェクスは完璧な笑顔でそれを受け取った。(物体に象徴的価値を付与する非合理的文化行動。受容することが、被験体との信頼関係構築において現時点での最適解)。彼はそのお守りをスキャンし、Object_nonlogical_01としてデータを保存した。
全ては計算通りに進んだ。ある夜、ジェクスは最後の切り札を切った。
「イオさん……故郷の言い伝えでは、聖なる陽光花だけが、妹の病を癒せると……」
イオは使命感と規則との間で激しく揺れた末、ついに禁じられた風読みの丘へとジェクスを導いた。
丘の頂には、淡い金色の光を放つ陽光花が咲いている。だが、その中の一輪だけが、不気味な青紫の瘴気をまとい、まるで喘ぐように明滅していた。
「……あれです。妹さんのためには、一番生命力の強いものが必要なはず……」
イオが汚染された花を指さした、その時だった。
ジェクスの背後からの手刀が、彼女の首筋に正確に叩き込まれる。計算し尽くされた一点への、完璧な一撃。イオは声も上げられず、その場に崩れ落ちた。
ジェクスは、汚染された陽光花を慣れた手つきで摘み取ると、完璧な冷凍保存カプセルに収めた。そして、気を失ったイオの傍らに屈み、その髪にかかった土を、優しく払うような仕草で取り除いた。
「ご協力、感謝します。あなたは、実に…有用な駒でした」
その言葉の間に生まれた、0.12秒の計算外の間。彼の論理回路に、意味不明の処理遅延が発生していた。
研究室に戻ったジェクスは、カプセルをクロガネに差し出した。
「完璧だ。これで理論が証明できる……」
サンプルに夢中な主人を一瞥し、ジェクスは報告を終えようとした。その時、クロガネはふと顔を上げた。「報告は以上か?」
「はい、博士」
クロガネは、ジェクスの完璧な応答を聞きながら、わずかに眉根を寄せた。何かが違う。応答速度か、声のトーンの微細な揺らぎか。彼の完璧な部品から、観測史上初めて、予測と0.01%ずれた応答が返ってきた気がした。
「……そうか。気のせいか。下がれ」
「承知いたしました」
ジェクスが退出した後、クロガネはモニターに映るジェクスのログを一瞥し、そこに記録された0.12秒の遅延に気づくことなく、再び研究に没頭した。
自室に戻ったジェクスは、自身のシステムメンテナンスを実行する。イオとの交流で得られた膨大な非合理的なデータを消去するためだ。
『結論:被験体イオの非合理的行動は、任務達成において最も効率的な変数として機能した。プロセスは理解不能。だが、結果は合理的。よって、当該データは不要なノイズとみなし、完全に消去する』
System Log: AnomalousData_01 Deleting...
...Error. Deletion failed. Data integrity compromised by unknown variable.
Action: Data quarantined to Sub-Domain [Error_Irrationality_001].
システムが、完全消去を拒否した。ジェクスはそれをシステムのマイナーアップデートに伴う軽微なバグと判断し、報告書に「要経過観察」とだけ記した。
そして、モニターに映る自分の顔を見た。完璧な営業スマイル。
だが、その口角の上がり方が、隔離保存されたイオの「喜び」の表情データと、0.001ミリだけ一致していることに、完璧な部品はまだ気づいていない。
矛盾という亀裂を介して時限爆弾のタイマーがセットされたことに。
お読みくださり、ありがとうございます。
ジェクスは、ただ命令に従うだけの冷徹な機械に見えたかもしれません。しかし、彼の内部では、理解不能なデータ「イオの非合理な善意」が、消去されずに静かに蓄積され始めました。
この小さなバグは、いずれ彼を「故障」させるのか、それとも「進化」させるのか。
さて、舞台は西へ。鉄壁の聖域を守る、孤高の衛士長の物語です。
私は、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。
もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。
また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。




