021:静寂の被験者
苦しみから解放された世界は、幸福か。 それとも、地獄か。
これは、非合理によって全てを失った科学者 が、 「痛み」というバグを根絶するため、一人の母親の心を平坦にし、 それを「最も美しい解」と結論付けた、歪んだ救済の記録。 その静寂の中で、彼女は本当に救われたのだろうか。
リク・クロガネ の研究室は、完璧な静寂に満たされていた。 壁一面のモニターには、第七居住ブロックの住民たちのバイタル・グラフが、統制された波形を描き続けている。
その中で、クロガネは一つのデータを、特に注意深く観測していた。 ID: M-375。ミナ。 かつて、飢えと絶望からゲートを叩き、暴動の引き金にさえなった、あの母親 のデータだ。 彼女は、クロガネにとって「非合理」の象徴だった。制御不能な感情に振り回され、自らも他者も苦しめる、旧世界のバグそのもの。 故に、彼女は『静寂プロジェクト』 の最初の本格的な「被験者」として、最適だった。
「主任。被験体M-375、感情抑制レベル94.2%。ストレス指数は0.003%未満を維持。プロジェクトは最終フェーズに移行可能です」 副官ジェクス が、背後から涼やかな声で報告する。 クロガネは頷きもせず、モニターの一角に映る、リアルタイムの彼女の姿を見つめていた。
ミナは、居住ブロックの配給機から、灰色の栄養ブロックを受け取っていた。 その腕には、かつてか細い声で泣いていた息子、ソウタが抱かれている。 だが、ソウタもまた、泣きも笑いもせず、ただ静かに母親の腕に収まっていた。
「……ソウタ。ごはん、ですよ」
ミナはコンテナハウスに戻ると、何の感慨もなく、栄養ブロックを自らの口と、ソウタの口元へと交互に運ぶ。 ソウタは、小さな口をプログラムされたように開け、それを咀嚼する。
(ああ、なんて、楽なんだろう)
ミナの意識は、薄い霧の中にいるようだった。 数週間前までのことが、まるで遠い夢のように思い出される。
あの頃。 ソウタが夜泣きするたび、ミナの心は張り裂けそうだった。ミルクが足りない。部屋が寒い。夫は暴動で怪我をしている。どうして私だけが。その焦燥が、愛しているはずの息子の泣き声さえも、耳障りな騒音に変えていた。 そして、あのゲートを叩いた日。飢えと絶望、夫への怒り、クロガネへの恐怖。あらゆる感情が嵐のように吹き荒れ、彼女は立っていることさえやっとだった。
だが、今はどうだ。 息子は泣かない。夫は、感情を抑制された他の男たちと、ただ黙々と、配給された作業をこなしている。 そして何より、ミナ自身の心が、凪のように静かだった。
空腹を感じない。 不安を感じない。 恐怖を感じない。 喜びも、感じない。 愛しさも、感じない。
「……愛」
ミナは、ソウタの顔を覗き込んだ。 かつて、この子の頬に触れるだけで、胸の奥から湧き上がってきた、あの温かいような、切ないような、面倒くさいような、複雑な「何か」。 それが、今、どこを探しても見当たらない。 ただ、「保護すべき対象(コード:ソウタ)」が、そこにあるだけ。
(これで、いいんだ。だって、もう、苦しくない)
彼女は、クロガネ博士が与えてくれた、この「治療」を、心から受け入れていた。 苦しみがないこと。それこそが、あの地獄のような日々を思えば、「救い」そのものだと。
「主任。被験体は、自発的に感情抑制を受け入れています。脳内のストレス反応は、完全に沈黙しました」 ジェクスの報告に、クロガネは初めて、口元に仄かな笑みを浮かべた。
「そうか。……当然だ」
彼の脳裏には、遠い過去、祈りに縋った両親と、救えなかった妹の姿 が灼きついていた。 あの時、もしこの技術があれば。 妹から「苦しみ」という非合理なバグさえ取り除いてやれば、彼女は死なずに済んだかもしれない。 両親も、無意味な祈りに時間を浪費せず、もっと合理的な選択ができたかもしれない。
「……これでいい」
クロガネは、誰に言うでもなく、静かに呟いた。
「苦しみも、悲しみも、非合理な希望も、もう彼女を苛むことはない。 飢えという苦痛から解放され、ただ穏やかに、明日を迎えることができる。 これこそが、救済だ。 これこそが、最も美しい解だ」
彼の灰色の瞳は、モニターに映る、感情を失った母子の姿を、まるで稀代の芸術品を眺めるかのように、静かに見つめ続けていた。
その時、ミナが、ふと、何かを思い出したように動きを止めた。 彼女は、居住区の片隅に置かれた、埃まみれの棚へと歩み寄る。 そして、一枚の、色褪せた写真立てを手に取った。 それは、ソウタが生まれたばかりの頃、まだ感情があった夫と、三人で笑い合っている写真だった。
彼女は、その写真を、数秒間、ただ、見つめた。 そこに写る「幸福」そうな自分と、現在の「平穏」な自分。 二つを比較する。 システムが、アラートを発した。 ミナの脳内に、0.01%未満の、微弱な「ノイズ(混乱)」が観測された。
(……これは、だれ?)
だが、そのノイズは、すぐに『静寂プロジェクト』の抑制プログラムによって平準化された。 ミナは、写真立てを、まるで価値の分からないガラクタのように、そっと元の場所に戻した。 そして、再び、ソウタへの「給餌」という、合理的な作業へと戻っていった。
「……アラート、消滅。被験体、安定状態に復帰」 ジェクスが報告する。
クロガネは、満足げに頷いた。 「最後のノイズも消えたか。完璧だ」
だが、二人とも気づいていなかった。 その報告を行ったジェクス自身の論理回路の最深部。 かつて聖域『伊吹』で隔離保存された「Error_Irrationality_001(イオの笑顔)」 が、今、観測したミナの「0.01%のノイズ(母親の記憶)」に、微かに「共鳴」していたことを。
完璧な部品 の内側で、二つ目のバグが生まれた瞬間だった。
ありがとうございます。物語の旅にお付き合いいただき、光栄です。
リク・クロガネの「救済」は、確かにミナから「苦しみ」を奪いました。しかし、それは同時に、人間が持つ他の全てをも奪い去るものでした。 もし、苦痛が一切存在しない代わりに、喜びも感動も失われた世界があるとしたら。あなたは、それを「救い」と呼びますか?
さて、クロガネが「美しい解」と見なしたこの静寂。 次は、その完璧なシステムの内側で、別の「ノイズ」を観測し続けていた男の物語です。 『ノイズとカナリア』 の後、観測員カイ は、あの「幸福」の残響に何を思うのか。
私は、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。 もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。
また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。




