002:合理の鎮魂歌(修正版Ver.2)
合理は、救いか、絶望か。
苦しみから逃れるため、人はどこまで心を捨てられるのか。
これは、非合理によって全てを失った一人の科学者が、
飢えた民の叫びさえも美しい数式へと変換し、
世界から「痛み」という不協和音を根絶しようとした、歪んだ救済の記録。
その鎮魂歌は、誰のために奏でられたのか。
「食料をよこせ!」「俺たちを見殺しにする気か!」
第七居住ブロックのゲートを、飢えた住民たちの怒号が叩いていた。ミナは、腕の中でか細い声で泣く息子を強く抱きしめた。ゲートの向こうで暴動に加わっている夫の身も案じられたが、それ以上に、息子の腹の虫が鳴る音が、彼女の罪悪感を苛んでいた。このブロックの支配者、リク・クロガネ。悪魔のような科学者だと誰もが噂する。だが、その悪魔の力にしか、自分たちはもう縋れない。ミナは、恐怖と表裏一体の、非合理な希望を抱いてしまっている自分に気づいていた。
その全てを、リク・クロガネは、壁一面のモニターで静かに観測していた。
けたたましく鳴り響くアラートも、地鳴りのような罵声も、彼の耳にはただの予測可能なデータとして処理される。世界という名の楽譜に生じた、耳障りな不協和音。ただ、それだけだった。
「主任。住民のストレス指数が閾値を超えました。暴動発生確率、97.4パーセント」
副官ジェクスの涼やかな声が響く。
「食料合成プラントの状況は?」
「ゴーストの影響で機能停止中です。ですが物理的な破損はありません。汚染さえ除去すれば即時再稼働可能かと」
「そうか。なら住民はもう少し飢えさせておけ。極限状態のストレスデータは、静寂プロジェクトの貴重な基礎値になる」
クロガネは、ぬるくなったコーヒーを口に運びながら冷たく言い放った。住民の飢えなど、どうでもいい。だが、このクロガネが構築した合理の世界で、正体不明の「非合理」が法則を乱している。それが、我慢ならなかった。
「……観測不能な変数。矛盾した法則性。なんと美しい…。この非合理は、私の論理体系を完成させるための、最後のピースだ」
彼の灰色の瞳が、初めて、仄暗い熱を帯びた。
廃墟の深層は、彼の論理ですら淀む空間だった。重力を無視して瓦礫が浮遊し、壁には存在しないはずの景色が染みのように浮かび上がっては消える。クロガネは腕の端末を操作し、絶えず揺らぐ空間座標の歪みを計測、安全なルートを算出していく。ヘッドセットから流れるホワイトノイズが、ゴーストによる低レベルの精神干渉を相殺していた。
「精神攻撃パターン、デルタ-7。予測範囲内だ」
彼は自身の脳が感じる恐怖や悲しみすらも、冷静に分析し、変数として思考の数式に組み込んでいく。
やがて彼は、汚染の源――巨大な結晶体のように明滅する、ゴーストの核心へと辿り着いた。それは、旧文明が遺した気象コントロールタワーの残骸だった。「全ての人に、穏やかな天候を」という善意で作られたはずのシステムが、150年の時を経て暴走し、今や混沌をまき散らす呪いと化している。
「善意が生んだ非合理の極みか。実に、救いようがない」
クロガネが変換装置を起動しようとした、その瞬間。ゴーストの精神攻撃が、彼の心の最も深い傷を抉った。
――視界が、灼けつくような過去の光景に塗り潰される。
薄暗い部屋。病にやつれた妹の、浅い呼吸。科学的な治療法はあった。だが、遠く、高価だった。両親は、なけなしの金で治療薬を買う代わりに、「奇跡」に縋った。来る日も来る日も、神に祈りを捧げた。
『兄様、おなかがすいた…』
『大丈夫だよ、僕が必ず助けるから』
少年だったクロガネは、そう約束した。だが、なすすべもなく、ただ妹の手を握りしめることしかできなかった。
そして、ある朝、その手は、氷のように冷たくなっていた。
祈りも、希望も、愛も、何一つ、彼女を救えなかった。あまりにも、非合理な結末。
「……そうだ。非合理は、いつだって美しいものを奪う」
幻影を振り払うように、クロガネは現実へと意識を浮上させた。彼の瞳から、先ほどの仄暗い熱は消えていた。そこにあるのは、全てを凍てつかせる、絶対零度の殺意。
「世界の不協和音を、調和させるのではない。この非合理という名の雑音を、私の完全なる静寂へと『調律』するのだ」
彼は空間にコンソールを投影し、その指が狂気の作曲家のように超高速で舞い始めた。凄まじい光と共に、逆位相のエネルギーが照射される。ゴーストは苦しむかのように、空間そのものを震わせ、無音の絶叫を上げた。クロガネの脳内には、情報の濁流が膨大なエラーコードとなって流れ込む。だが彼はその混沌の奔流の中から、その悲鳴の「旋律」をリアルタイムで掴み取り、自らの論理で「翻訳」し、書き換えていった。混沌としたエネルギー構造が、光の奔流となって寸分の狂いもない、美しい数式へと再構築されていく。
研究室に戻ったクロガネを、完璧な静寂が迎えていた。
耳障りなアラートも、住民の怒号も、今はもうない。モニターには、静まり返った居住ブロックが映し出されている。人々はゲートの前に設置された配給機から、ゆっくりと吐き出される灰色の栄養ブロックを、無言で、無心で、受け取っていた。感謝も、喜びも、安堵すらない。ただ生存というプログラムを遂行するだけの生体端末だ。
モニターの一角が、暴動のきっかけとなった母子、ミナとその息子を映し出す。息子はもう泣いていない。母親も、安堵の表情すら浮かべず、ただ虚ろな目で、与えられた栄養ブロックを息子の口元へ運んでいる。
「これが、救いだ」
彼はコーヒーを一口すすると、誰に言うでもなく、恍惚と静かに呟いた。
「……これでいい。これが、最も美しい解だ」
それは、世界から非合理を根絶するという歪んだ理想を、彼がまた一歩進めた瞬間だった。
その様子を、副官ジェクスは音もなく主人の背後から見つめていた。
主人の目的は達成された。合理的。
だが、目的を達成した主人が見せた、あの恍惚とした表情。それは、ジェクスの論理回路では「非合理的な感情の昂ぶり」としか解析できない。この変数が、いつか主人の完璧な論理を破壊する最大のバグになるか、あるいはシステムを次の段階へ昇華させる特異点となるか。
ジェクスは、その観測データを消去しなかった。
『AnomalousData_02: Master_Emotional_Deviation. Observation continued.』
自身のシステムの最も深い階層へ、誰にも知られず、そのデータを静かに保存した。
完璧な部品の内に、最初の亀裂が生まれた瞬間だった。
お読みいただき、ありがとうございます。
リク・クロガネが見せる、歪んでいながらも純粋な「救済」の形、いかがでしたでしょうか。彼は、苦しみという非合理を心から憎んでいます。故に、感情すらも変数として処理し、人々から奪い去る。
その冷徹な論理に、あなたは恐怖と嫌悪のどちらを強く感じましたか? それとも、どこかに共感を覚えましたか?
次は、もう一つの「完璧な世界」――AIが統治する、籠の中の都市の物語です。
私は、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。
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また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。




