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019:老婆の知恵

絶望の底で、最後に信じられるものは何か。 失った希望か、すがるべき力か、 それとも、ただ、昨日を生き延びたという、静かな経験か。


これは、忘れられた者たちの集落で、 一人の老婆が、その鋭い「知恵」だけを武器に、人々を疑心暗鬼から救った、ささやかな秩序の記録。 まやかしの光が射す前の、最後の静けさの物語。

廃墟深層部の地下鉄跡。 ここは、地上から見捨てられた者たちが、旧時代の亡霊のように寄り添う、最後の集落だった 。


その日、集落のなけなしの秩序は、一つの叫びによって引き裂かれた。 「食料が! 貯蔵庫の食料が盗まれたぞ!」


その声は、この希望を失った集落において、死刑宣告にも等しい響きを持っていた 。


人々は、薄暗いプラットホームに集まり、互いを猜疑さいぎに満ちた目で見始めた。 「誰だ! どこのどいつがやった!」 「きっと、昨日流れ着いたあの男だ!」 「いや、お前こそ、最近こそこそしていやがった!」


怒号が飛び交う。ここでは、秩序とは、明日の食料があるという、か細い信頼関係だけで成り立っていた。それが、今、断ち切られようとしていた。


青年レオも、その輪の中心にいた 。彼はまだ、ノアという「光」に出会う前であり、色褪せた家族の写真を握りしめながらも、この集落の仲間を信じようと必死だった 。だが、その彼の目にも、疑いの色が浮かんでいた。


その狂乱の輪から、ほんの少し離れた場所。 老婆エララだけが、背を丸め、壁に寄りかかったまま、冷めた目でその光景を眺めていた 。


「……馬鹿なもんだね。飢えは、まず最初に目を曇らせる」


「エララ婆さん! あんたも何とか言ってくれよ! このままじゃ、俺たちは仲間割れで…!」 レオが助けを求めるように叫ぶが、エララはゆっくりと立ち上がるだけだった。


「騒ぐんじゃないよ、坊やたち。泥棒が、わざわざ『盗みました』と顔に書いて歩いてるもんかね」


彼女は、騒ぐ男たちには目もくれず、杖を突きながら、荒らされた貯蔵庫――古い駅長室へと、ゆっくりと向かった。


中は、無惨だった。保存食の袋は引き裂かれ、乾いた豆が床に散らばっている。 「これ見ろ! 人間の仕業に決まってる!」 一人の男が、壁に残された泥の「手形」のようなものを指さして叫んだ 。


だが、エララは、その手形を一瞥いちべつすると、鼻を小さく鳴らした。 「……ふん。こんな五本指の泥棒が、いるもんかね」


彼女は、床に散らばった豆を数粒拾うと、その鋭い目で、男たちが見落としていた「穴」を指さした。それは、瓦礫がれきの隙間、大人が頭も入れられないような、換気ダクトの跡だった 。


「いいかい。人間様の泥棒なら、こんな小さな穴から出入りなんかしやしない。それに、この『手形』を見てみな」 彼女が指さした「手形」は、泥が乾き、人間の指にはあり得ない、鋭い「爪」の跡が三本、くっきりと残っていた 。


「そして、何より……」 エララは、持っていた杖で、貯蔵庫の隅にこびりついていた、青白い粘液のようなものをこすり取った。 「人間は、こんな『よだれ』は垂らさねえよ」


集落が、静まり返った。 恐怖が、疑心暗鬼に取って代わる。


「……じゃあ、なんだってんだ、婆さん」


「ゴーストさね」 エララは、こともなげに言い放った。 「大方、この廃墟の臭いに誘われて、古臭いダクトを伝ってきた、悪食の変異生物だろう。この青い粘液…『深層ネズミ』のたぐいさ。光と、鉄の音を嫌う、厄介な奴だよ」


エララは、呆然ぼうぜんとするレオや男たちを見回した。 「さあ、どうするね? いつまでも仲間を疑って、ここで飢え死にするかい? それとも、鉄パイプと松明たいまつを持って、その『本当の泥棒』様を、このねぐらから叩き出すかい?」


レオの目に、光が戻った。それは希望ではない。生きるための「意志」の光だった。 「……決まってる! やってやるさ!」


その夜、レオたち若い衆は、エララの指揮の下、松明を掲げ、鉄パイプを打ち鳴らしながら、あの換気ダクトへと向かった。奥から響く、甲高い、人間のものではない生物の威嚇音。 それは、絶望の底で、人々が「秩序」を取り戻すための、戦いの雄叫おたけびでもあった 。


エララは、その騒ぎを遠くから聞きながら、静かに目を閉じた。 (……まったく、手のかかる子らだよ)


彼女の知恵が、集落を内側からの崩壊から救った。 だが、彼女は知っていた。 獣は追い払える。だが、いつか、人の心に巣食う「絶望」そのものが、獣よりも恐ろしい牙をく日が来ることを 。


その「まやかし」の光が訪れるまで、あといくばくかの、静かな夜だった 。

ありがとうございます。物語の旅にお付き合いいただき、光栄です。


ノアの「まやかし」に唯一抗ったエララの知恵は、絶望の底にあった集落の、か細い秩序そのものでした 。 彼女は、仲間割れという内なる脅威は退けました。しかし、外から来る、甘美な「救い」という名の脅威には、どう立ち向かったのでしょうか。 もし、真実の絶望と、偽りの希望を示されたなら。あなたは、どちらを選び取りますか?


さて、絶望の底の「知恵」の物語はここまで。 次は、視点を変え、力こそが「真実」であると信じる、あの男の領域へ。 鉄屑の王ゴウダ・ソウジ。彼を支える、老メカニックの哲学とは 。


わたくしは、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。 もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。


また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。

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