018:鉄屑と心臓
鉄の腕は、何を守るためにあるのか。
奪うためか、生きるためか、それとも、
ただ一つの温もりを、抱きしめるためか。
これは、全てを失い、自らの肉体さえも「部品」と成り果てた元改造兵が、
一人の少女と過ごす束の間の平穏の中で、失ったはずの人間性を垣間見る、静かな休息の記録。
その休息は、次なる戦いへの予兆に過ぎない。
旧首都圏/鋼鉄区。ゴウダ・ソウジ の領域と、隣接するリク・クロガネ 領域の狭間、どちらの「王」の目も完全には届かない緩衝地帯。そこには、忘れられた旧時代の高架線路の下に広がる、巨大な闇市場が存在した。鉄屑、出所不明の機械部品、怪しげな薬莢、わずかな保存食、そして時には人間の労働力そのものまでが、薄暗い照明の下で取引される場所。力と情報だけが通貨となる、混沌とした自由と剥き出しの危険が渦巻く坩堝。
「鋼腕のギド」は、その市場の喧騒の中、リリの小さな手を固く握りしめていた。鉄とオイルの匂いに混じり、埃っぽい豆を炒る香ばしい匂い、正体不明の薬品のツンとした刺激臭、そして人々の汗と欲望の匂いが鼻をつく。リリは、ガラクタばかりのコンテナハウスでは見られない、色とりどりのジャンク品や、露店で焼かれる串刺しの合成肉に、目を輝かせていた。
「ギド、あれ見て! キラキラ光ってる!」
リリが指さしたのは、壊れた装飾品を並べた露店。かつて誰かの身を飾ったであろう、今は色褪せたガラス玉のかけら。
「……ガラクタだ。行くぞ」
「でも…」
「あんなもんは腹の足しにもならん」
ギドの無骨な鉄の義手が、リリの視線を遮るように前へと促す。彼の視線は、リリの無邪気な横顔ではなく、常に周囲を警戒していた。すれ違う男たちの腰に吊るされた武器、値切り交渉から一触即発の睨み合いへと変わる瞬間、物陰で交わされる不審な取引。ここは、一瞬の油断が命取りになる場所だ。
改造兵 としての戦闘経験が、背後から近づく足音の「癖」を捉える。重く、規則的で、わずかに金属を引きずるような音。それは、殺意ではない。だが、同種の――「鉄」の匂いがした。
「……生きていたか、ギド」
振り向いた先に立っていたのは、顔の半分を無骨な金属で覆った男だった。かつて、同じ部隊で地獄を這いずり回った戦友、バルカス。彼の左腕もまた、鈍い光を放つ戦闘用の義肢に置換されていた。
「……お前こそ。そのツラ、ずいぶんと『合理的』になったじゃねえか。今は、どこの『王』の犬だ」
「フン……。クロガネ様 の領域の末端警備だ。お前よりはマシな飯を食ってるぜ。随分とヤキが回ったな、ギド。そんなガキを連れて、ままごとか」
バルカスの視線が、リリへと注がれる。ギドは、リリを庇うように、自らの巨大な鉄の義手を、男との間に割って入れた。
「……この子は、関係ねえ」
「関係ねえ、か」
バルカスは、自らの金属の顎を無機質な指で撫でた。
「俺たちは、部品だ。部品に『関係ないもの』なんざ、ただの重りだぜ。クロガネ様の『静寂プロジェクト』 なら、そんな『非合理なノイズ』は、真っ先に切り捨てられる」
「……お前は、本気でそれを信じてるのか。人間から苦しみだけじゃなく、喜びも、怒りも、全部取り上げちまうって計画を」
「ああ。合理的だ。俺たちが戦場で見てきた地獄を考えりゃ、それこそが救済だろうが」
バルカスは肩をすくめた。
「まあ、いい。お前が仕えてるゴウダ って王様は、そういう『情け』も『力』のうちだと認める、古いタイプの王らしいからな。せいぜい、そのガキと一緒に泥水啜って生き延びるんだな」
バルカスは、ギドの肩を軽く叩いた。金属同士がぶつかる、乾いた音が響く。
「死ぬなよ、ギド。お前も俺も、どうせ使い潰されるだけの改造兵だ。だが、死に場所くらいは、自分で選びてえもんだ。……ああ、そうだ。忠告しておくぜ。近いうちに、この緩衝地帯もクロガネ様の“掃除”対象になるかもしれん。非合理なものは、全て消される運命だ」
それだけ言うと、バルカスは人混みの中へと消えていった。
ギドは、その背中を、リリには見えないように、険しい目で見送っていた。
(……部品、か)
戦友の言葉が、ギドの胸に重くのしかかる。そうだ、俺たちは人間じゃない。領域長の命令で動き、壊れれば捨てられるだけの「部品」だ。あの日、この鉄屑の街の理不尽な暴力の中で家族を守れなかった自分は、人間としての価値を失った。
だが、ギドは、リリを握る手に力を込めた。
この小さな手の温もり。これだけが、自分がまだ「人間」であったことの、最後の証だ。
この温もりを守るためなら、部品だろうと、犬だろうと、何とでも呼ばれるがいい。
「……ギド? どうかしたの? 怖い顔」
リリが、不安そうにギドの義手を見上げる。鉄の指が、自分の小さな手を、少し強く握りしめていることに気づいたからだ。
「ギドの腕、かっこいいけど、時々痛そうだね」
「……!」
ギドは言葉に詰まった。この腕が、自分を蝕む呪いであることなど、この子に言えるはずもない。彼は、無骨な鉄の指先で、彼女の頭を不器用に撫でた。
「……なんでもねえ。ほら、帰るぞ。今日は、あの豆のスープだ」
コンテナハウスへと続く、瓦礫の道を二人で歩く。夕焼けが、錆びついた鉄塔を赤黒く染めていた。
束の間の平穏。
その時、ギドの義手ではない、生きている方の腕に、ピリ、と走る小さな痛み。見れば、黒い痣のような「枯渇の刻印」が、また少しだけ、その領域を広げている気がした。腕の感覚が、一瞬だけ鈍くなる。まるで、自分の身体が、少しずつ鉄に変わっていくような、嫌な感覚。
この力が、自分から人間性を奪っていく。
だが、この力でしか、この小さな人間性を、守ることはできない。
(……俺は、あとどれだけ……)
ギドは、その矛盾を噛みしめながら、夕焼けに染まる廃墟の中を、ただ黙って歩き続けた。隣を歩く小さな手の温もりだけを、頼りにするように。
ありがとうございます。物語の旅にお付き合いいただき、光栄です。
「部品」として生きることを受け入れたギド。しかし、彼が守ろうとしたのは、リリという「人間」の温もりでした。
力こそが全ての悪魔派圏で、彼が抱いたその「非合理なノイズ」は、あまりにも脆く、しかし何よりも気高いものだったのかもしれません。
もし、全てを失った時、あなたは最後に何を守ろうとしますか?
さて、力が支配する鋼鉄区の記録はここまで。
次は、もう一つの絶望の地、廃墟深層部の地下鉄跡へ。
ノア の「演奏会」 が始まる前、かの地で、人々はどのように息づいていたのか。一人の老婆の知恵が、その秩序を支えていた記録を辿りましょう。
私は、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。
もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。
また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。




