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014:伊吹の草笛(くさぶえ)

その音色は、純粋な魂にしか聴こえない。


世界が上げる、小さな悲鳴の始まり。

これは、聖域の片隅で起きたささやかな異変に、

一人の巫女見習いが、その小さな「観る目」で向き合おうとした、静かな気づきの物語。

優しい日常が、ほんの少しだけきしむ音を、あなたは聴き取れるだろうか。

聖域『伊吹』の薬草園は、イオにとって世界そのものだった。

朝日と共に土に触れ、薬草の息遣いに耳を澄ます。どの葉が水を欲しがり、どの花が陽の光に感謝しているか。巫女見習いである彼女の純粋な「気」に応えるように、薬草園の植物たちはいつも瑞々しい生命力に満ち溢れていた。


あの日までは。


「……どうしたの? 陽光花ようこうかさん……」


異変に気づいたのは、朝露を払う、いつもの時間だった。

一区画だけ、まるで毒を垂らされたかのように、陽光花が黒ずんでしおれていたのだ。

陽光花は、聖域の清浄な「気」を最も好む聖なる植物。それが、こんな不自然な枯れ方をしている。

イオは慌てて土を調べ、水脈の「気」を辿った。だが、土は豊かで、水の流れも清らかだ。他の薬草たちは、何も変わらず青々としている。


ただ、陽光花だけが、イオの懸命な祈りの呼びかけにも応えず、まるで何かに「怯える」かのように、その輝きを失っていく。


「そんな……。何かの病気、でしょうか」

彼女が年長の巫女に相談しても、返ってくるのは「日照りか、虫のせいでしょう。もう少し様子を見なさい」という、穏やかだが本質を見ない答えだけだった。

誰も、イオが感じている微かな「違和感」を、本気で取り合ってはくれなかった。


それは、「穢れ」と呼ぶにはあまりに希薄で、「呪い」と呼ぶにはあまりに静かすぎた。

だが、イオの純粋な感覚だけが、その異変の正体を捉えていた。

それは、病気や虫のような、生命の循環の中にあるものではない。もっと冷たく、無機質で、生命そのものの「ことわり」を否定するような、異質な響き。

まるで、完璧に調律された楽器の弦が一本、ぷつりと切れたような、静かな「歪み」だった。


(あ……)


その時、彼女の脳裏に、数ヶ月前の記憶が蘇った。

東から来たと語った、あの親切な難民の青年。

彼がこの薬草園で、薬草の知識を教えてくれた時のこと。

そして、彼と共に禁じられた風読みの丘へ行き、陽光花を摘んだ、あの夜のこと――。


あの夜、丘の陽光花の一部もまた、このように不気味な瘴気を帯びていた。

あの青年――ジェクスが去ってから、全ては元通りになったはずだった。衛士たちも、丘の瘴気は消えたと結論づけていた。


(ううん、違う。気のせいよ。あの人は、妹さんのために必死だっただけ……)

イオは、自らの内に芽生えた疑念を、かき消すように首を振った。


だが、陽光花の枯れは、翌日には隣の区画へ、その翌日にはさらに広範囲へと、まるで計算され尽くしたように正確な速度で広がっていった。


イオは決意した。誰も気づかないのなら、自分だけでも、この声なき悲鳴に応えなければならない。

彼女は、ソウウン爺さん の教えを受けたサクヤ のようには、世界の「仕組み(ことわり)」を観ることはできない。彼女にできるのは、ただ、霊能派の巫女 として、その声に寄り添い、聴くことだけだった。


その夜、イオは一人、月明かりの薬草園に座していた。

枯れ始めた陽光花の前に、小さな祭壇を設ける。

彼女は、目を閉じた。

いつものように、植物を癒やすための祈りではない。

ただ、その「痛み」の正体を知るため。自らの心の波長を、枯れゆく花の苦しみに、そっと合わせていく。


「聴かせてください。あなた方を、苦しめているものは、何……?」


純粋な祈りが、異変の核心へと触れていく。

その瞬間。


――ぞわり、と。

イオの全身を、経験したことのない絶対的な「寒気」が駆け抜けた。


それは、憎悪や怒りといった、熱を持つ穢れではなかった。

ただ、冷たく、どこまでも無機質で、寸分の狂いもない「論理」。

『被験体イオの非合理的行動は、任務達成において最も効率的な変数として機能した』

『結論:当該データは不要なノイズとみなし、完全に消去する』


あの時、ジェクスが彼女に向けた完璧な笑顔。その裏側にあった、冷徹な思考の残響。

彼がこの聖域に残していった、人間には感知できないほどの微細なプログラムの「種子」。

それが、聖域の清浄な「気」を糧に、まるで時限爆弾のように、今、静かに目覚め始めたのだ。


「―――っ!」


イオは、金縛りにあったように動けなかった。

同時に、彼女の霊感が、はるか高みへと引き上げられる。

伊吹の最奥、風読みの丘。そこで、たった一人、世界の全ての「歪み」を受け止め、琴を奏でる大巫女シズハの、底知れない孤独と哀しみが、奔流となって流れ込んできた。


東から侵食する、冷たい「合理」。

それに対抗するように、西で生まれようとしている、激しい「痛み」の光。

二つの巨大な力が世界を引き裂こうとする、そのきしみの余波が、シズハという防波堤を越え、今、この聖域で最も敏感な陽光花という「草笛」を、最初に鳴らしていたのだ。


「あ……あ……」


イオは、その場に崩れ落ちるように手をついた。

自分が触れたものが、ただの薬草の病気などではなく、この世界の根幹を揺るがす、恐ろしい「何か」の始まりであることに、気づいてしまったから。


彼女は、何も解決できなかった。陽光花を救うこともできない。

だが、彼女は知ってしまった。

この優しい聖域の日常が、どれほどか細い均衡の上で成り立っているのかを。


翌朝、イオは、大巫女シズハの侍女であるキクノ の元を訪れていた。

その顔は青ざめていたが、瞳には、逃げることのない、強い光が宿っていた。


「キクノ様! お願いがあります! 大巫女様に、どうか、このことをお伝えください!」

「……薬草園のことかえ。それは、昨日も聞いたはずじゃが」

「いいえ!」


イオは、震える手で、黒ずんだ陽光花の一枝を差し出した。


「これは、病気ではありません。

これは……世界が泣いている、最初の『音色』です」

ありがとうございます。物語の旅にお付き合いいただき、光栄です。


純粋であるが故に、イオは世界の最初の「軋み」を感じ取ってしまいました。

それは、彼女が愛する日常が、もう二度と昨日と同じではないことを告げる、残酷な笛の音だったかもしれません。

もし、あなたの穏やかな日々に、こんな小さな「歪み」が生まれたとしたら。

あなたはそれを、見過ごすことができますか?


次は、視点を移し、聖域『耶麻』の堅牢なる城壁の内側へ。

厳格な衛士長ゲンカイを支える副官ハヤテ。彼が胸に秘める、亡き兄への誓いと、主君への忠誠。その狭間で揺れる、実直な魂の記録。


わたくしは、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。

もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。


また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。

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