013:父の遺した不協和音
祈りだけでは、届かない声がある。
技術だけでは、救えない心がある。
これは、異端者の息子として蔑まれた少年が、父の遺した「不協和音」の真実を追い求め、
そして、祈りを捧げる巫女の少女が、信じるものの違う幼馴染の「魂の音」を聴き届けるまでの、静かな闘いの記録。
「また、この音だ」
カイは、聖域『耶麻』の分厚い石畳にそっと耳を当てた。荘厳な祝詞の響きの奥で、大地そのものが発する、ごく低い不協-和音。それは他の誰にも聞こえない。まるで忌まわしき父の血の証のように、カイの骨身にだけ染みついていた。
ここ数ヶ月、「竜の啼哭」と呼ばれるこの現象は、人々の心を苛んでいた。屈強な衛士たちは城壁の巡回を倍にし、商人たちは日が暮れる前に早々と店を畳む。聖域全体が、見えざる敵を前に息を潜めているかのようだった。すれ違う人々が、カイの姿を認めると、あからさまに顔をしかめて道を避ける。その視線が何よりも雄弁に語っていた。「穢れだ」「あの異端者の息子がいるからだ」と。
「カイ!」
凛とした声に顔を上げると、幼馴染のミオが、巫女装束をはためかせて立っていた。彼女の瞳には、親しい者だけに向ける憂いが浮かんでいる。だが、その憂いの奥に、カイに向けられる他の者たちと同じ「憐れみ」の色が混じっていることに、彼は気づいていた。
「お願いだから、祈りの輪に加わって。あなたのお父様の穢れを、私たちが共に祓うから。あなたも、聖域の一員でしょう?」
「……無駄だよ、ミオ」カイは立ち上がり、石の粉を払った。「これは穢れじゃない。もっと冷たくて、規則的な……音だ。だから、あんたたちの祈りじゃ止まらない」
「どうしてそんなことを言うの!?」
ミオの悲痛な声が、カイの心を締め付ける。彼女の言う「穢れ」とは、異端の工匠として聖域を追われ、死んでいった父のことだ。父の不信心が、この災いを招いたのだと、誰もが信じていた。カイ自身も、そう思い込もうとすることで、この聖域での居場所をかろうじて保っていた。父を憎むことで、父と同じ「異端」ではないと証明しようとしていた。
その日の午後、事件は起きた。
定期巡回中だった衛士の一人が、突如崩れた監視台の瓦礫に足を砕かれたのだ。ミオは現場に駆けつけ、血に濡れた衛士の足に手をかざした。
「痛みの精霊よ、鎮まりたまえ…!」
彼女の祝詞に応じて、淡い金色の光が傷口を包む。衛士の苦悶の表情は和らぐが、砕けた骨が元に戻ることはない。それどころか、光が強まるほどに、傷口から溢れる血は黒ずんでいく。聖域の霊力をもってしても、癒やしきれないほどの「歪み」が、この地に満ちている証拠だった。ミオは自らの無力さに、唇を噛みしめた。祈りは万能ではない。この聖域は、絶対的な安寧の地ではない。その事実が、冷たい楔のように彼女の胸に打ち込まれた。
その光景を、カイは遠巻きに見ていた。衛士たちの「やはり、あの男の父親の呪いだ」という囁き声を聞きながら、彼は固く拳を握りしめる。
(親父、あんたは本当に、災いを招いただけの異端者だったのか?)
真実が知りたい。そして、もしそうでないのなら――父が背負わされた汚名を、俺が終わらせなければ。
その想いが、カイを固く閉ざされた父の工房へと向かわせた。
埃と、オイルの匂い。そこは、祈りの代わりに、道具と設計図が並ぶ、別の聖域だった。
中央には、耶麻の精密な模型。そして壁一面には、音の波形を示す無数の計算式。カイは息を呑んだ。父は、呪いを研究していたのではなかった。
竜の裂け目から発せられる、人間には聞こえない低周波。それが、耶麻を構成する石材が持つ固有振動数と完全に一致し、共振現象を引き起こしていること。そして、このままでは数十年後に、耶麻は自らの振動で崩壊するという、恐るべき結論。父は聖域を「救う」ための研究をしていたのだ。
彼は、埃をかぶった一冊の日誌を手に取った。震える指でページをめくる。
『――誰も信じてくれぬ。だが、この音は確かに聖域を蝕んでいる。精霊の怒りなどという、曖昧なものではない。これは物理法則だ。ならば、必ず法則で止められるはずだ』
『ミオ様が、カイに優しくしてくださっていると聞いた。あの子は私と違う。どうか、聖域で幸せに…。我が身はどうなろうと構わぬ。ただ、あの子たちが生きるこの場所を、守らねば』
父の震える文字が、そこにあった。
「……親父…!」
涙が溢れた。父は異端ではなかった。理解されず、それでも最後まで聖域を案じていた、孤独な守護者だったのだ。カイは、父が遺した逆位相の音で共振を打ち消す「調律装置」を、自らの手で完成させることを誓った。
カイが工房に籠って数日後、噂を聞きつけたミオが血相を変えて飛び込んできた。
「カイ!衛士たちから聞いたわ!またお父様のガラクタを弄っているって…!やめて!あなたまで、お父様と同じように…!」
「これはガラクタじゃない!聖域を救う唯一の希望だ!」
カイは必死に設計図を見せるが、ミオは首を横に振る。
「物理の法則ですって?私たちを救ってくださるのは、精霊と天使様への祈りだけよ!お願いだから、子供の頃のように、私と同じものを信じて!」
「あの頃とは違うんだ、ミオ!あんたが祈りで衛士の足を治せなかったように、祈りだけじゃ届かないことがあるんだ!」
その言葉は、ミオの最も痛いところを突いた。彼女は唇を噛み、悲しげに瞳を伏せる。「…どうして、信じてくれないの」。そう呟いて、彼女は工房を去った。二人の心は、決定的にすれ違っていた。
その三日後。
聖域が、断末魔のような叫びを上げた。これまでとは比較にならない激しい共振が襲い、正門の巨大な城壁が、今にも崩れ落ちようとしていた。
ミオたち巫女は、必死に祝詞を唱える。だが、まるで嘲笑うかのように龜裂は広がり、絶望が人々を支配した。
(……ダメ、なのか。私たちの祈りでは、届かない……)
ミオが膝を折りかけた、その時。彼女は見た。
たった一人、巨大な金属の音叉のようなものを抱え、崩れゆく正門の土台へと走る、カイの姿を。
その瞳には、恐怖も絶望もなかった。ただ、父の想いを、そして聖域の未来を背負った、確固たる光だけが宿っていた。
ミオは、子供の頃を思い出していた。高い木から落ちて動けなくなった自分を、カイが手作りの滑車とロープで助け出してくれた日のことを。「祈るだけじゃ、ミオは助けられないだろ」と、泥だらけの顔で笑った、あの日の瞳。今、カイがしていることは、あの時と何も変わらない。彼のやり方で、ただ必死に、大切なものを守ろうとしているだけなのだ。
(――あの光は、穢れなどではない)
ミオの中で、何かが弾けた。
彼女は衛士たちの前に立ちはだかり、叫んだ。
「誰もカイに手を出すな!彼は、彼のやり方で聖域を守ろうとしている!」
そして、巫女たちに向き直る。
「皆さん、今こそ私たちの祈りを一つにする時です!門が崩れるその瞬間まで、聖域で最も清らかな霊力を、あそこに集めます!」
ミオが指さしたのは、カイが装置を設置しようとしている、まさにその場所だった。
ミオの覚悟が、巫女たちの最後の力を引き出した。聖域中の「気」が渦を巻き、黄金の光となって正門の土台へと注ぎ込まれる。それは、崩壊を寸分でも遅らせるための、魂の絶叫。
そして、皮肉にも、工匠であったカイの父が理論上、最も効率的だと書き遺していた「装置の起動条件」――高密度のエネルギー場による共振増幅――を、霊能派のミオが、その祈りによって完璧に作り上げていた。
「うおおおおっ!」
霊力の奔流の中心で、カイは最後の部品を叩き込んだ。そして、起動スイッチを入れる。
世界から、音が消えた。
地を揺るがした不協和音が、完全に沈黙した。
その代わりに、どこからともなく、清らかで、心が洗われるような、美しい持続音が響き渡る。
父の遺した不協和音が、聖域の崩壊から救った瞬間だった。
呆然と立ち尽くす人々の中心で、衛士長が、ゆっくりとカイの元へ歩み寄る。そして、無言のまま、深く、深く頭を下げた。
ミオもまた、カイの傍らへと歩み寄り、ただ静かに佇む。
カイも、彼女を見つめ返していた。
「…ありがとう、ミオ」
「ううん…。ごめんなさい、カイ。私、あなたの音を、聴こうとしていなかった」
言葉は、もうそれだけで十分だった。信じる道は違えど、守りたいと願うものは同じなのだと。
それは、異端の工匠の魂が報われ、二つの派閥の間に、初めて小さな橋が架かった、静かな奇跡の音色だった。
ありがとうございます。物語の旅にお付き合いいただき、光栄です。
異端者の息子カイが鳴らした「調律」の音と、巫女ミオが捧げた「祈り」の光。
二つは、決して交わらないと思われていた「技」と「霊」の道でした。しかし、最後に聖域を救ったのは、その二つが重なり合って生まれた、ただ一つの「守りたい」という名の音色でした。
信じる道が違えば、それは対立するしかないのでしょうか。
それとも、カイとミオのように、同じものを守るために重なり合う、新たな響きを見つけられるのでしょうか。
次は、視点を最前線の『耶麻』から、薬草と祈りの聖域『伊吹』へ。
一人の純粋な巫女見習いが感じ取る、日常に潜む小さな「歪み」。それは、世界が奏でる、次なる不協和音の序章かもしれません。
私は、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。
もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。
また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。




