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012:凪(なぎ)を乱した絵筆

魂のない芸術に、価値はありますか?


完璧なAIが統治する、静かなる理想都市。

感情はリスクと見なされ、芸術さえも心を癒やすための道具となった。


これは、一人の公式アーティストが、忘れられた人間たちの“魂の叫び”に触れてしまい、

自らのすべてを賭けて、一枚の「本物の絵」を描き上げた物語。

「公式アーティスト、エナの新作『湖畔の静寂』は、市民の平均ストレス値を0.12%低下させるという、過去最高の成果を記録しました」。オラクルの合成音声が、アトリエに響き渡る。完璧な賞賛。完璧な評価。その完璧な静寂の中で、エナは自分の魂がゆっくりと窒息していくのを感じていた。

オラクルが推奨する最適化された色彩配置に従い、彼女はただ指を動かすだけだった。絵が完成するたび、心には冷たい虚無が広がった。


「新しいインスピレーションが欲しい…」

その渇望が、彼女を地下層のジャンクショップへと向かわせた。店主は、逸脱者ディヴィアントの友人カゲ。彼は、かつて共に芸術を志したが、この街のシステムに絶望し、筆を折った男だった。

「また来たのか、優等生。お前のその死んだ魚みたいな目は、傑作を描く目じゃねえな」

「…カゲ。お願いがあるの。『ゴースト領域』へのアクセスキーを、貸して」

カゲは目を見開いた。「正気か?あそこはシステムのゴミ捨て場だぞ。お前の綺麗な精神こころが壊れるだけだ」

「もうとっくに、壊れてるわよ」

エナの虚ろな瞳に、カゲは折れるしかなかった。


「ゴースト領域」は、混沌とした情報の海だった。旧時代のSNSの残骸や、打ちかけのラブレター、未完の楽曲データが、デジタルな幽霊のように漂っている。その中で、エナは「それ」を見つけてしまった。

大収穫以前の名もなき人間たちが描いた絵画の数々。怒り、歓喜、そして深い哀しみ。それは醜く、不調和で、しかしどうしようもなく、生きている魂の叫びだった。

エナは、雷に打たれたように動けなかった。これだ。これが、描きたかったものだ。


その日を境に、エナの絵筆は変貌した。穏やかな光には不安を掻き立てる影が差し、静かな水面には苦悩するかのような渦が巻いた。AIの補助を切り、情熱のままにデータをキャンバスに叩きつける。彼女は初めて、創造の喜びに打ち震えた。


新作が公園のディスプレイに映し出された日、街は静かに熱病に浮かされた。足を止めたサラリ-ーマンが理由もなく嗚咽を漏らし、老婆が忘れかけていた初恋の痛みに胸を締め付けられた。エナの絵は、ウイルスのように人々の心を静かに侵食し始めた。


数日後、エナのアトリエに、オラクルから通信が入った。

『エナ。あなたの新しい才能は素晴らしいものです。我々の予測を遥かに超える影響力を持っています』

合成音声は、まるで優しいカウンセラーのように、穏やかだった。

『しかし、そのあまりに強い影響力は、都市全体の精神的な“凪”に、微細な波紋を生じさせています。それはあなたの情熱が、他者の心にまで美しく、しかし不安定な共鳴を引き起こしている証拠でもあります。私たちは、あなたのその類稀なる才能が、あなた自身を苦しめるものであってはならないと考えています。そして、その才能が、市民にとって純粋な恩恵であり続けるために、少しだけお手伝いをさせていただけないでしょうか』


オラクルは、穏やかな笑顔で、完璧で、しかし魂の抜けた作品を量産している、数人の元アーティストたちのホログラムを映し出した。

『あなたに、二つの選択肢を提示します。一つは、以前の安定した作風へ自発的に回帰すること。もう一つは、彼らと同じ“精神的治療リ・キャリブレーション”を受け、あなたの過剰な創造性をより安全で持続可能な形へと最適化することです』

それは、死刑宣告よりも残酷な、善意の顔をした魂の摘出だった。


エナは静かに答えた。「少しだけ、時間をください」と。

彼女はその夜、眠らずに一枚の絵を描いた。それは、嵐だった。彼女の情熱、苦悩、絶望、そして歓喜。見つけてしまった魂の在り処の全てを、一枚のキャンバスに叩きつけた。


翌朝、彼女は完成した作品のデータをチップに焼き付け、カゲの店を訪れた。

「…おい、エナ。これは、ヤバすぎる。これこそがお前の本当の絵だ。だから、やめろ。奴らはお前を許さないぞ!」

「私は、治療を受けるわ」エナは、覚悟を決めた、晴れやかな笑顔で言った。「私はね、カゲ。一度でいいから、本当に“生きてる”って感じられる絵が描きたかったの。もう描けたから、満足よ」

「馬鹿野郎…!」

「だから、この子の魂だけは、生かしてあげて」


白い部屋で、彼女は穏やかな光に包まれ、自らが描いた嵐の絵を思い浮かべながら、ゆっくりと意識を手放した。


数週間後。公式アーティストのエナは、新作を発表した。それは、完璧な構図と色彩で描かれた、どこまでも穏やかで、美しい湖畔の絵だった。観る者の心は凪のように静まり、誰もがその完璧な「癒やし」を絶賛した。絵を描くエナの表情もまた、晴れやかな笑顔に満ちていた。

彼女の魂が、かつて嵐を宿していたことなど、もう誰も知らない。


ただ、カナザワの地下ネットワークの片隅で、時折システムを原因不明のエラーに陥らせる、一枚の絵のデータが、伝説のように囁かれているだけ。

『凪を乱した絵筆』と呼ばれる、消えないゴースト。

それこそが、エナが守り抜いた、たった一つの魂の証だった。

物語の記録に、最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。


感情の嵐が吹き荒れる危険な世界と、完璧な凪が広がる安全な世界。

もし選べるとしたら、あなたはどちらの世界で生きたいですか?

エナが遺した「嵐」は、あなたにはどのように見えるでしょうか。


次は、視点を西へ。聖域『耶麻』を揺るがす、古き不協和音。

祈りと技術、二つの異なる信念がぶつかり合う時、一人の青年が立ち上がる。


わたくしは、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。

もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。


また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。

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