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010:ノイズとカナリア

幸福は、バグですか?


完璧に管理された静寂の世界で、感情という「ノイズ」は徹底的に排除される。


これは、自らの感情さえも捨てた一人の観測員が、壊れた玩具に宿る“愛”という名のバグを守るため、

自らの「合理」だけを武器に、巨大なシステムへと静かに反旗を翻した、小さな闘いの記録。

カイは、自分の心臓の音を聞いたことがなかった。

モニターに映る千本を超える灰色の線と同じく、彼の感情もまた、死んだように平坦だった。リク・クロガネ博士が与えたこの静寂は、かつて彼を苦しみから救った檻であり、今は彼自身を殺し続ける墓標だった。

――その墓標に、初めて光が差し込んだのは、ある晴れた日の午後だった。


千本の静寂の中で、一本だけが、歌うように輝いたのだ。

ID: E-774。老齢男性。彼の線だけが、穏やかで美しい、金色の波形を描いている。それは「幸福」を示す波形だった。このブロックでは、バグ以外の何物でもない。

「……なんだ、これは」

カイの心臓が、忘れていたはずの音を立てて脈打った。


翌日、カイがE-774のログを追っていると、背後から声がした。

「どうだね、カイ君。変わったノイズでもあったかね?」

上官のタナカだった。システムの完璧性を信奉する、表情のない男だ。彼は、カイがこのブロックに来た当初、感情の起伏という「病」に苦しんでいたことを知っている。

「いえ、何も。全て正常オール・グリーンです」

「そうか。君も昔は、そうやって非合理な感傷に囚われていたな。システムが君を救ったことを忘れるなよ」

タナカの目は、カイの嘘を見透かしているようだった。


危険な賭けだ。だが、カイはもう止まれなかった。あの金色の波形が、灰色の日々の中で見つけた、唯一の色だったからだ。彼は、タナカの監視を掻い潜るように、自身の端末に偽装プロトコルを走らせ、E-774――ヨギという名の老人の個人ファイルに深く潜った。

そこには、若き日のヨギと、今は亡き妻が、手のひらに乗るほどの小さな鳥のホログラムを、笑いながら修理している姿が記録されていた。

カイは、リアルタイムの監視カメラに切り替えた。画面の隅で、白髪の老人が、大切そうに、あのホログラム鳥を覗き込んでいる。経年劣化で激しく明滅し、ノイズ交じりの電子音を発するだけの、壊れたガラクタだ。だが、ヨギはそれに、亡き妻に語りかけるように、今日の出来事を優しく話していた。

その瞬間、カイの目の前のモニターで、ID: E-774の線が、再び美しい金色に輝いた。


同時に、カイのモニターに、システムからの冷たい勧告が表示された。

『ID: E-774に非合理的情動パターンを検出。カテゴリー:追憶依存。推奨処置:レベル3記憶野抑制プロトコル。通称、“心の鎮静”』

カイは知っていた。それは、美しい思い出から順に消去していく、穏やかな死刑宣告だ。

妻を亡くした直後、ヨギの精神状態は崩壊寸前だった。しかし、この「カナリアとの対話」が始まってから、彼のグラフは劇的な安定を見せていたのだ。

矛盾している。この幸福は、システムの秩序を乱す「ノイズ」だ。だが、この幸福こそが、一個人の精神崩壊を防ぐ唯一の「変数」なのだ。


報告期限の17時。タナカから「報告はまだかね」と無機質な通信が入る。

カイは、大きく息を吸うと、震える指でキーボードを叩き始めた。脳内で、システムのAIと論戦を繰り広げる。

(AIは“心の鎮静”を最適解と判断するだろう。だが、その判断は、被験体の精神的安定という『結果』ではなく、非合理性の排除という『過程』を優先している。これは論理的ではない)

(いや、AIは反論する。一個人の安定より、ブロック全体の安定が優先される、と。このノイズが他の住民に『感染』するリスクを提示するだろう)

(それに対する再反論は…)


カイは、全ての思考を、彼の知る全ての論理ロジックを尽くして、一文字ずつ打ち込んでいく。

『被験体E-774の精神ノイズに関する考察報告』

『――当該ノイズは、被験体の精神的安定を維持するために不可欠な“外部依存型・自己修復プロシージャ”であると結論する。現時点での人為的介入は、予測不能な精神崩壊を引き起こすリスクが有意に高く、ブロック全体の安定性にとって非合理的である。また、当該ノイズの“感染”リスクは、対象が旧文明の遺物という極めて個人的なオブジェクトに依存するため、統計的に無視できるレベルにある。よって、現行の管理体制を維持し、継続的な観測を行うことを、最適解として提案する』


彼は、送信ボタンを、強く、押した。

数分が、永遠のように感じられた。

やがて、モニターに、一言だけ返信が表示された。

承認アプルーブド


カイは、椅子に深く沈み込み、空っぽになった頭で天井を見上げた。

彼の「合理」が、システムの「合理」を打ち負かしたのだ。彼は、一人の老人を救った。いや、違う。彼が守ったのは、今はもういない誰かと誰かが紡いだ、愛の記憶そのものだった。

ガラスケージの外に広がる無機質な夜景に目を向けた、その時。カイの胸に、観測史上初めて記録される、微弱で、しかし確かな金色の「ノイズ」が生まれていた。

それは、彼だけの、静かな誇りだった。


その頃、研究室の最奥。

リク・クロガネは、自身のメインモニターに表示された一つの報告書を読んでいた。

「……面白い。非合理を、合理で守ろうとするか」

彼の指がコンソールを叩くと、カイの個人ファイルが開かれる。そこには、彼がかつて感情の昂ぶりによって引き起こした事件の記録と、その後の完璧なまでの安定を示す灰色のグラフが並んでいた。

「一度死んだはずの変数が、別のノイズに共鳴して再び動き出すとは。実に興味深い」

クロガネは、口元に仄かな笑みを浮かべた。

「観測を続けろ、カイ。君という変数が、私の静寂の世界に、どのような不協和音をもたらすのか。あるいは、より完璧な調和を生み出すのか。見届けさせてもらおう」

カイの小さな勝利は、全て、クロガネの巨大な掌の上で踊っているに過ぎなかった。

物語の記録に、最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。


彼の行動は、システムへの非合理な反逆だったのでしょうか。

それとも、人間という存在を維持するための、より高次元な合理性の発露だったのでしょうか。


灰色の世界で、あなたなら、何に“色”を見出しますか?


次は、舞台をがらりと変え、鉄と錆と暴力が支配する混沌の世界へ。

合理の檻の次は、力の荒野で紡がれる、不器用な愛の物語。


わたくしは、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。

もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。


また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。

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