001:涸れた沢と祈りの代償(修正版Ver.2)
痛みは、世界の声だ。
少女の祈りは、自らを犠牲にする、優しい刃だった。
これは、たった一人の大切な人を救うため、世界の痛みをその身に引き受けた少女の、始まりの物語。
再臨の神子は、歓声の中で静かに覚醒する。その果てしない宿命の重さを、まだ誰も知らない。
「……さくや……?」
か細い声が、乾いた唇から絞り出される。サクヤは、幼馴染のハナが横たわる寝床のそばで、固く握りしめていたその手を見つめた。熱が高く、指先は力なく冷たい。三日前、村の命綱である沢の水が止まってから、病弱なハナは日に日に弱っていった。
村の中央広場では、長老たちが天を仰ぎ、乾いた祝詞を唱え続けている。だが、天に応える気配はない。村を覆うのは、人々の不安と、そしてサクヤだけが感じる、土地そのものが上げる苦しい悲鳴だった。
(助けなきゃ)
ハナを。そして、この苦しんでいる「だれか」を。
サクヤは立ち上がった。決意を固め、広場へと向かう。
「長老様!」
祈りの輪の中心にいた白髪の老人が、ゆっくりと振り返る。
「サクヤか。お前も祈りに来たか。そうだ、今こそ心を一つに…」
「いいえ!」サクヤは、長老の言葉を遮った。「私、沢の源流へ行きます。何が起きているのか、この目で見て、止めてきます」
広場が、水を打ったように静まり返った。長老の穏やかだった顔が、みるみるうちに険しくなる。
「ならん!源流は精霊様の聖域。水が枯れたのは、我らの祈りが足りぬからじゃ。穢れた人間が足を踏み入れれば、更なる怒りを買うだけだ!」
「でも、祈っているだけじゃハナは死んじゃう!それに、土地が『痛い』って叫んでるのが、私には聞こえるんです!」
「…まだ、ソウウンの爺の戯言を信じておるのか」長老は、吐き捨てるように言った。「あの工匠派の老いぼれは、祈りを忘れ、鉄と油にまみれた異端者。お前までその道に染まるでないわ」
長老の言葉が、サクヤの胸に突き刺さる。だが、彼女の脳裏には、今はもういない師の、優しい笑顔が浮かんでいた。サクヤは一度自室に戻ると、父の形見箱から、使い古されて黒光りする一本のスパナを掴み取り、それを腰帯に差した。
長老の制止を振り切り、彼女は走り出した。その背中を押していたのは、失いたくない一人を想う祈りと、自らを苛む痛みの正体を知りたいという焦燥。そして、師が遺してくれた、たった一つの教えだった。
涸れた沢を遡る道は、世界の墓場のようだった。乾いた石がからからと鳴る。不自然な静寂の中、サクヤの足が止まった。子供の頃、ソウウン爺さんと、まだ豊かだったこの沢で話した記憶が、鮮やかに蘇る。
――数年前、まだソウウンが生きていた頃。
「爺ちゃん、どうしてお祈りしないの?みんな、沢の精霊様に感謝してるのに」
幼いサクヤの問いに、油にまみれたソウウンは、にかりと笑った。
「わしはわしのやり方で、毎日感謝しとるさ」
彼は、沢の流れを堰き止めていた大きな流木を、手製のテコで巧みに動かした。水の流れが変わり、淀んでいた場所に、再び清流が走り出す。
「いいかい、サクヤ。祈る目は尊い。だがな、それだけじゃ足りん。世界を『観る目』も持たなきゃならんのだ」
ソウウンは、サクヤの小さな手に、使い古されたスパナを握らせた。ひんやりとした鉄の感触。
「水はどう流れ、木はどこに根を張り、石はどう支え合っているか。世界の『仕組み(ことわり)』を知ろうとすること。それもまた、立派な祈りの形なんじゃ。もし、この沢が病気になったら、ただ祈るだけじゃない。どこに棘が刺さって痛がっているのか、その目で見て、手で抜いてやるんだ。祈る目と、観る目。両方持って初めて、お前は本当に、この世界と話ができる」
(――爺ちゃん。私、やってみるよ。私の『観る目』で、この沢の痛みを…!)
サクヤは再び走り出した。師の言葉が、恐怖に震える心を温めていた。
彼女はただ歩くのではなかった。ソウウンに教わった通り、世界の「仕組み」を観ようと、五感を研ぎ澄ませていた。
(何かがおかしい…)
ただ水が干上がっただけではない。沢の底の石は、不自然にひび割れ、まるで内側から熱せられたように脆くなっている。枯れた苔を指でなぞると、ぱらぱらと砂のように崩れた。生命がただ失われたのではない。もっと暴力的に、「殺された」ような痕跡。そして、土地が発する「痛み」は、上流へ向かうほどに強く、鋭くなっていく。それはまるで、見えない毒が、沢そのものを血管として大地を蝕んでいるかのようだった。
半日後、サクヤはついに痛みの根源へとたどり着いた。
そこは、かつて小さな滝壺だった場所。だが、水は完全に涸れ、不気味な静寂に包まれていた。そして、その中心に、全ての異常の原因はあった。
一見、ただの岩。だが、サクヤが「観る目」で注意深く観察すると、その岩が、周囲の地層と明らかに異質なものであることに気づく。表面には、苔も生えず、不自然なほど滑らかで、幾何学的な文様が刻まれている。彼女が感じていた全ての「痛み」が、この岩の地下深くから、脈動するように放たれていた。
(これだ。爺ちゃんの言ってた、「棘」の正体…!)
彼女は、腰に差したスパナを握りしめた。祈るだけではダメだ。壊すだけでもダメだ。
彼女は、岩の周りを何度も歩き、その表面に刻まれた幾何学文様を、指で、目で、そして魂で、必死に読み解こうとした。それは、悪魔が作り出した呪いの「設計図」だった。複雑に絡み合う線の流れ。その中心で、ひときわ小さく、しかし決定的なエネルギーの「結び目」となっている一点を、彼女の「観る目」がついに捉えた。
(ここだ…!この棘の、心臓部…!)
彼女は、その「綻び」にスパナの先端を当てた。そして、目を閉じ、深く息を吸う。
もう片方の手を、スパナの柄に、そっと重ねた。
それは、祈りの形だった。
彼女は、ただの村娘サクヤとしてではなく、霊能派の巫女の血と、工匠派の師の教えを受け継いだ、ただ一人の存在として、心の中で叫んだ。
(――飲んで!)
自分の内に宿る、温かい生命の光。そのすべてを、祈りとして、スパナへと注ぎ込む。
冷たい鉄の道具が、彼女の祈りを受け、聖なる「気」の伝導体へと変わっていく。
それが、引き金だった。
スパナを介して、大地に突き刺さった悪意の奔流が、彼女の全身を逆流してきた。
突き刺さった金属塊――呪いの杭から流れ出す、純粋な「毒」の痛み。大収穫の時代に残されたこの呪物は、150年もの間、ゆっくりと大地を蝕み続けていたのだ。そして、土地の精霊が必死に抑え込んでいたその汚染が、三日前にとうとう限界を超え、水源の心臓部へと達して一気に溢れ出した。サクヤが感じ取ったのは、まさにその瞬間の、大地の断末魔の叫びだった。
「―――っ!!」
声にならない絶叫を上げ、涙を流しながらも、サクヤはスパナから手を離さなかった。ハナの笑顔を、村の緑を、そしてソウウンの教えを、ただ一心に思い浮かべて。
すると、彼女の涙がこぼれた場所から、淡い金色の光が生まれた。
彼女の激痛と引き換えに、温かい光がスパナを通じて杭の「心臓部」へと流れ込み、浄化の波紋となって広がっていく。悪意の設計図は内側から崩壊し、黒い金属塊は聖なる光に焼かれて甲高い音を立て、やがて塵となって崩れ落ちた。
そして、浄められた泉から、清らかな水が、再びこんこんと湧き出し始めた。
村が歓喜に沸いたのは、それから間もなくのことだった。
光の粒子を乗せた奇跡の水が沢を駆け下り、人々は泣きながらその恵みを分ち合った。疲れ果てたサクヤが村に戻った時、彼女は祝いの輪には加わらず、真っ直ぐにハナの元へと向かった。
寝床に横たわるハナの、浅く苦しそうだった呼吸は、穏やかで深い寝息に変わっていた。死人のように青白かった頬にも、たしかに温かい血の気が戻っている。サクヤが見守る中、ハナの瞼がゆっくりと持ち上がり、その瞳にサクヤの姿を映すと、安心したように、弱々しいが確かな微笑みが浮かんだ。
サクヤの頬を、安堵の涙が一筋だけ伝う。「……よかった」と、ただそれだけを呟いた。
その夜。
村がお祭りのような騒ぎの中、サクヤは一人、外に出て夜空を見上げていた。
世界は、一変していた。
村人たちの喜びの声。その向こうで、さっき芽吹いたばかりの若草のささやきが聞こえる。遠くの森で、梟が獲物を見つけた鋭い喜びが伝わってくる。風が運ぶ、どこか別の土地の嘆きも聞こえる。
喜びも、悲しみも、生も、死も。世界のあらゆる声が、絶え間なく彼女の中に流れ込んでくる。
サクヤは、ハナと村を救った。その代償として、もう二度と、ただの村娘には戻れない。
そして、理解してしまったのだ。今日癒した痛みは、この世界に満ちる無数の痛みの、ほんの一滴に過ぎないことを。
歓声の輪の中にいるはずなのに、どうしようもなく、一人だけ違う場所に立っているような感覚。
「どうして、世界はこんなに痛いの……?」
答えのない問いが、唇からこぼれる。
喜びの中に芽生えたのは、静かな覚悟などではなかった。
自らの内に流れ込み続ける世界の痛みに、意味を見出さなければならないという、逃れることのできない宿命の始まりだった。
再臨の神子は、その果てしない旅路の入り口で、ただ静かに星を見つめていた。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。
純粋な願いが引き起こした、最初の奇跡。しかしサクヤは、その代償として世界のすべての痛みを引き受けることになりました。
歓声の輪の中で彼女が感じた孤独を、少しでも感じ取っていただけたなら幸いです。
もしよろしければ、この物語を読み終えたあなたの心を、一言でもお聞かせいただけませんか。
次は、全く異なる場所――冷徹な合理が支配する、東の鋼鉄区で響く鎮魂歌の物語です。




