分かっちゃいるのに
唐突ではあるが、1ヶ月ほど時を遡る。
ここは京都市内のある高校、1年3組の教室。
そこでは教師の声すら響かず、ひたすらシャーペンと冷房の音だけがする。
集中力が切れたような顔の数名を除いて、誰も黒板を見もしない。
俯き加減で、一心不乱に何かを書いている。
しかし教員もぼんやり椅子に座ったまま、それを咎めない。
きっと皆さまも、何が起きているか察したことだろう。
あるいは思い出したくない記憶を伴って。
そう、
夏休み直前の、期末テストである。
そんな、くしゃみをすれば戦犯扱いの空気の中
教室の左手、窓側から3列目の前から4番目。
席替えがあろうとなかろうと、50音順ではそこが定位置の少女
平田陽は、一人静かに強張っていた。
──落ち着け、落ち着け……──
彼女は脳内で、呪文のように繰り返す。
そんなことをするより問題について考えた方が絶対にいいのだが。
今の彼女はこうでもしないと、一瞬で頭が真っ白になってしまう。
それぐらい追い詰められている。
今この描写が、何人かのトラウマを抉っていることだろう。
しかし、
意外に思われるかもしれないが。
実は彼女、かつてのあなたや私のように
『問題が解けなくて絶望している』
のではない。
むしろその逆。
“次の選択肢の中から、『源氏物語』の著者として正しいものを選びなさい。
ア.赤式部
イ.紫式部
ウ.透式部
エ.式部・ザ・ゴールド”
イだ
陽の頭の中で声が囁く。
だが騒ぐほどのこともない。
こんなのは常識、授業を真面目に受けていない生徒でも聞き馴染みがある言葉。
教師からしても、0点だけは絶対に回避させるための『取らせる』問題。
答えは紫式部。
分かっている。
分かっているのに
──待って! 止まって!
やだ! やめて!──
どうしてだろう。
本当にどうしてだろうか。
手は勝手に答案用紙に『エ』と書き込み、
それを消しゴムで消すことができない。
彼女の額を汗が流れる。
あまりのことに息が上がってくる。
視界がカーッと狭くなってくる。
朝の冷房までついた教室、熱中症でもあるまいに。
でも体が言うことを聞かない。
陽は軽く頭を左右へ振ると、諦めて次の問題へ進む。
“次の選択肢の中から、文中『』内の現代語訳として正しいものを選びなさい。
ア.門の下の博雅が、上にいる玄象という鬼を「鬼が人より上なことがあろうか」と叱ると、鬼は門から降りてきた。
イ.門の下で博雅が玄象という曲を演奏していると、伴奏して邪魔する者がいた。「このようなイタズラをするのは鬼だろう」と博雅は思った。
ウ.玄象という舞曲で鬼役に決まった博雅は内容に腹を立て、門の上の部屋に住む脚本家へ「これは人にやらせるような役ではない」と文句を言って書き直させた。
エ.博雅が門の上で玄象を弾く者は「人ではなく鬼だろう」と思うと演奏が止まった。”
これも長くややこしいことがグダグダ書いてあるが、彼女には分かる。
答えはエ。
であるにも関わらず、
エ! エ! エ! エ!
何度心の中で唱えても、
紙には『ウ』と書いてしまう。
──イヤっ! どうして!?──
陽の目に涙が浮かぶ。
しかし残酷なことに手は止まらず、
次の問題へ。
次の問題も……
こうして陽は見事に赤点を取り、母に
『あまり成績悪いと、部活辞めてもらうからね!』
と怒られたのが、ついこのまえ。
一応今はまだ続けさせてもらっており、
夏休みのある日の午後。
今日は3年生引退後、初めての他校との練習試合。
ソフトボール部でチーム2番手のピッチャーである彼女は、今まさにマウンドへ。
「ごめんヨーちゃん」
「大丈夫っす」
2年生エースが作った2アウト満塁のピンチ、火消しのリリーフ登板である。
試合は好きだが、こうも痺れる場面、灼熱の快晴だとベンチにいたいような。
そんな雑念を振り払うように投球練習。
調子は悪くない。
得意のシュートによる、右打者左打者問わぬインコースへの出し入れ。
今日はボールに指がよく掛かって、変化が強く出せている。
生命線となる制球もピッタリ決まっている。
いける。
強い手応えが右手のボールに宿る。
右打席に入るのは、相手チームの4番。
しかしそんなことは気にならない。
今投げられる最高を出せば、難なく抑えられる。
自信がある。
満ち溢れている。
もし一つ懸念点があるとすれば。
相手は府大会、近畿大会で大活躍した逸材。
すでに多くの実業団チームが目を付けているとか。
万が一デッドボールでケガなんかさせたら、ってくらいの話……
そう頭をよぎった瞬間、
「うぐっ!」
セットポジションに入った体が強張る。
バチッと強力な接着剤で固められたような。
肘関節がなくなってしまったような。
──ダメ、ダメ──
祈るような心の声と、鼓膜を通る血管のドクドク鳴る音が混ざる。
失神しそうなシチュエーション。
熱中症でもないのに視界がグルグル回る。
とにかく、デッドボールだけは出してはいけない。
手にでも当てて骨折させたら目も当てられない。
キャッチャーはいつものスタイルとインコースに構え、シュートのサイン。
鉄の棒になってしまった首をなんとか左右に振る。
女房役は少し考えると、アウトコースにチェンジアップ要求。
──よし、これなら──
これならそうそう当たることはない。
暴投になったらランナーが帰って先輩に悪いが、ケガさせるよりマシ。
いや、何を言っているのか。
抑えるに決まっている。
自身最高のボールを投げれば抑えられると、さっきまで信じていたではないか。
陽は力強くボールを握り込み、
前方へ大きく踏み出し、テイクバックから腕を回し、
加速する体を投球に込める勢いで、
しかし、
もう一度、一瞬だけ、
デッドボールなんて出したら
そうよぎった瞬間、
「あ」
時が止まった気がした。
バトル漫画みたいに、世界がスローモーションに感じた。
その、全てが鮮明に見えすぎる世界の中で、
ボールは無情にも、相手打者のこめかみへ
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