ただそのためだけに
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
つぶつぶはさあ、「気配」って何で判断してる?
目? 耳? 鼻? 手足? 舌は難しいかもしれないから、あとは勘?
何かがいる、あるいはいたと判断できる感覚、けっこう大事よねえ。これが鈍っていると、普段はやらない大けがをしたりするから。
目や耳や手足は分かりやすいサインだけど、けっこう鼻も大事らしいわよ。臭いをかぐのももちろんだけど、鼻から吸う空気は脳へ送られて、その活動を助ける。
鼻がつまると、頭の働きまで悪くなるというのは、これに由来しているわけね。つぶつぶだって、息をずっと止めたまま平然としていられないでしょ? どこかであっぷあっぷして、ほかのことも考えられず、しゃにむに空気を求めようとしてしまうはず。
普通ならばやらない、できないような挙動を呼び込んでしまうこともあるかもね。
以前に、パパがいろいろ「感覚バカ」になったときの話をしてくれたんだけど、聞いてみない?
パパいわく、起こりはなくしものに関してだったらしいわ。
ペンとかはさみとかが、見つからないと大騒ぎをしてみせるけれど、実は自分が握りこんだままになっていた……なんて経験、つぶつぶにはない?
私もときたまやるけれどね。灯台下暗しというか、いま現在自分が持っているものに意識が向かないというか、初めから意識の外へ置いちゃうんだよねえ。心理的な盲点なのかしら、これも。
パパも昔から、それをやることはあったけれど、そのときはやたらと回数が多かったんだって。日に3回は同じようなことをした場合もあったのだとか。
このときのパパは、自分で振り返ってみても明らかに頭の働きや神経がにぶっていた、と話していたわ。
学校のテストはもちろん、人と少し長めの会話をするのすら、頭が苦痛を覚えて、ついぞんざいな態度をとりたくなってしまう。そのうえ、どこにぶつけた覚えもないのに腕を出血していながら痛みをまるで感じず、指摘されるまで服を汚しっぱなしだったとか。
いざ意識を集中してみれば、そのときは感覚が戻ってくる。でも、ちょっとでもほかのことへ気を回すと、たちまちおろそかになる。
痛覚ならば、ちょっとよそを見た拍子にどこかへぶつけても、まったく感じないほどだったとか。
今日のオレ、とてつもなく変だぞ? とはパパも感じたみたい。
なにせ先ほどおじさんを呼ぼうとしたとき、あやうく名前すら出てこないほどだったから。かといって熱を測っても平熱だし、今日いちにちを振り返ってみても、心身に異常をきたすようなトラブルには会っていない……はず?
記憶すら自信が持てずにいる中、夕飯後には階段の段数を踏み間違えて、あやうく足をくじきそうになる始末。
「これ、もうなにもしないほうがいいわ」と、パパはさっさと寝る支度にかかっちゃったみたい。ちょっとでも余計な動きをしたり、考えを巡らせたりしないほうが得策。お風呂はいらない旨を告げると、歯磨きとトイレ、明日の時間割合わせをささっと済ませ、いつもより何時間も早く床に入ったみたい。
いつもより早いし、お風呂も抜きにしたことで、体がリラックスモードになりきれていない。そう思っていたから、眠気がなかなか訪れないのも仕方ない。
先ほどからパパは、太ももをつねっていた。自分ではそれなりの力を入れたつもりだけど、やはり痛みを感じない。脇腹、肩、顔のそこかしこなどを試しても、やはり同じ。
すんすんと、鼻で嗅いでみる。このときパパはすでに蚊取り線香を焚いて、煙を部屋にため込んでいたらしいわ。火は消していたけれど、あの少し焦げ付いたような、除虫菊の種がかもすとされる特徴的な臭いは、そうそうごまかせない。
それを、まったく感じられなかった。
線香は横になる前から焚いている。そのときに臭いもたっぷり嗅いでいたのが、布団で横になってしばらくたつや、すっかり消えていた。
自分の手などを近づけて嗅いでみても、やっぱりその手の臭いはしない。鼻をぺしぺしと叩いてみても、開通の気配も見えなかった。
しかも、ぱたんといったん敷布団の上へ落とした腕。それなり勢いをつけたと思ったのに、なんの痛みも衝撃も感じることができなかったとか。
もしや、と声を出してみるパパだったけれど……聞こえない。
それはつまり鼓膜どころか、骨伝導のたぐいすらも機能していない……ということ。
――いま、明かり消しているけれど、やっぱ視界がきかないんだよな。これでホントにみえなくなっていたら……。
そう思いかけた矢先。
ひゅっと、パパの前に立ちはだかった……いや、「起き上がった」ものがあった。
それはパパと同じく、あおむけに寝ている状態から起き上がったの。パパの真上で、ね。
もしパパがこのまま上体を起こしたら、というシミュレーションを実現するかのような動き。でも、布団もその場にあるどれも動かさないまま、やがて立ち上がったそれは、ホバーで移動するように空中を滑って、壁の向こうへ消えていってしまったんだって。
それを見届けるや、パパにすべての感覚が戻ってくる。
すぐに飛び起きて、そいつの消えていった壁に取り付いたけれど、もちろんすり抜けるような真似はできず。追いかけることはできないし、手掛かりもないということで、いまに至るとか。
でも、もし自分の身体がすべての感覚を止めてでもあいつを追い出そうとしていたなら、やらなかった場合はどうなっていたか……パパは不安に思うこともあるんだって。