83。色彩!
私は、暖さんの手をなんの躊躇いもなくとった。私にとってここが、私の世界。
暖さんは、手から滑り込ませて抱き上げてかなり高さのある人力車から降ろす。暖さんの頭上を私の顔が通過して、ふわりと浮いた足が地面に優しく触れる。
着地した私は、先ほどの高い景色ではなくいつもの低い空間に戻ってくる。見上げる暖さんは、今まで見たことのないほど笑顔だった。
暖さんは、綺麗に弧を描いた唇を私の耳元に寄せた。スッと息を吸い、笑いを含んだ低い優しい声で囁く。
「もう、人間界に帰りたいって言っても返さない」
暖さんは、私が今だに握りめている末広をするりと手からとり、私の帯に差し込む。そして、固まった覚悟を逃さないとでも言いたげに私の手を握り自分の顔につける。その妖艶な笑みに、私は目を泳がせてしまう。顔がほてり、唇をパクパクとさせた。
「この。妖界は、私にとっての世界ですから。暖さんの元から、離れる気はありませんし!」
なんとか自分の言いたいことを言い終え、チラリと暖さんを見上げた。暖さんの笑顔が、太陽の光を帯びて眩しさが増す。私のまつ毛に、暖さんの光が落ちてくる。
しかし急に周りの空気が一変して、ジトっと重たい空気に包まれた。空には、紅茶の芳しい香りを運ぶような優しい太陽が照らしている。遠くで雷が鳴る音がする。口の渇きを感じて、私は生唾をごくりと飲み込む。
甘い揺れと苦い揺れの間に立っているような、不安定さを感じる。足に力をこめて、地面に足を差し込むようにしっかりと立つ。目の前が真っ白光に覆い尽くされて、地面の揺れを感じた。差し込むほど力を入れていた足から、地面が離れていく。
目の奥に光の眩しさが残り、あたりを確認ができない。あたりを駆け巡る風は、冷たくて着込んでいる白無垢を通り越して肌に到達する。握られた手だけが唯一の温かみだ。
手を引っ張られて、私のことを抱き寄せられる。地面から離れた足がつくと同時に、目の前の景色が聡明になった。私から離れた暖さんが、近くの黒狐を呼び私の寄れた白無垢をさっと直してくれる。
そんな黒狐を他所に、私は周りを見渡した。今足をつけている地は、人間界の時音稲荷神社だった。田舎の土の匂いに、モワッとする湿度の高さ。梅雨の花が美しく、雨で濡れて紫の光をきらりと放っている。
(本当に、ここは梅雨の時期の人間界。これで私は本当に、ここともお別れだ)
提灯ほどの大きさの大きな鈴を持つ猫が、チリンと綺麗な音を立てて近づいてきた。今度はこの猫と雅楽隊を先頭に私と暖さん、その後ろに先ほどのような行列を作っている。
暖さんに白い狐面を付けられた。暖さんの顔にも同じものが、もうすでにつけられている。もうこれで、誰の表情もわからない。先ほどまで優しく包んでくれていた暖さんのては、そのまま離れて行った。
ゆっくりと歩き出す。重たい空気を弾き返すかのように、弾んだ鈴の音を鳴らす。私たちの歩く後ろで、大きな音を立てて真っ赤な番傘を刺された。すると、大きな雨粒がこの行列にまとわりつく。
雨の香りが鼻腔をくすぐり、番傘に当たる雨の音がリズムを刻む。16年間生活をしてきたこの街を、一歩一歩踏み締めて進んでいく。
きっと妖たちからすれば、たかが16年なんだろうことはよく分かっている。しかし、私からすれば大切でもありもがき苦しんだ日々だった。かけた私の心に、傘では防げない雨が大きな雫となり落ちてくる。
冷たい雨によって、暑い時鳥とした空気は消えていく。狐面の隙間から見えた暖さんの黒の袴の裾が、行ったり来たりしている。真っ白の色にチラつく黒色は、私のことを優しく見守ってくれているように感じ詰まる息を吐き出す。
練習でした、美しい姿勢で歩く。ゆっくりと回った街は、ここへ来た時よりも軽い空間に変わっていた。
(私たちの言い伝えでの ”狐の嫁入り” を自分が体験するなんて。誰も想像してなかったよね)
時音稲荷の赤の鳥居が、鮮烈な色彩を振りまいている。




