64。ニンゲンと人間界!
「恋坡」
優しい低い声で、目が覚めた。ここに来ると思っていなかった人物が視界に入る。
「あれ? 暖さん、もう神在月は終わったのですか?」
暖さんは、静かに頷いた。私の隣で寝ていたはずの花魁は、すでに起きていたようで窓を開いて煙管を吸っていた。
私はさっと起きて、布団の皺を伸ばし軽くたたむ。
花魁は、窓のそばに腰を下ろして外は顔を向けて煙管からゆらめく煙を眺めている。私が布団を整えている間も、暖さんは側に座ったままだ。畳み終えてもなおふたりは動かないので、私は暖さんの隣に正座で座る。
カンッと煙管につまった葉を叩き落とし、私に視線を向けた。そして吸い込んだ煙が消えるまで、優雅にゆっくりと呼吸をする。
何も言わずに花魁は立ち上がり、新しい着物とタオルを箪笥から出した。ささっと歩いて行って、部屋の扉を開いた。
「あちきは、湯浴みに行ってきんす」
その言葉を残して、部屋から出ていってしまう。シンッと静かになった部屋に、私と暖さんのふたりだけになった。
「恋坡…… お前は誰にでも尻尾を振るのか?」
「振ってませんよ? というか、私にそんなものはついてません!」
(そもそも、私は連れ去られてここへ来たのであって。好きでついてきたわけではないのに!)
私は、頬をぷくりと膨らませて抗議をした。自分は悪くないんだと分かってもらいたかった。
それに何よりも、怪我はしていないし湯浴みもさせてもらったりもした。ここへ連れてこられた以外、特に何も無いのだ。
暖さんは、声に出して笑い出した。自分が言い出したことなのに、私はバカにされたような気持ちになった。
「笑わないでください!」
抗議の声をあげても笑ったまま、話を聞いてもらえない。暖さんは、私の膝と背中に腕で支えて横抱きにされた。思わず、目を開いて口を閉じてしまう。
「時音様が待っている」
抱き抱えたまま部屋を出て、階段を降りていく。玄関の外でおかあさんが、掃き掃除をしていた。
「あら、暖さん。もうお帰りになるのですか?」
こくんと頷いて、おかあさんの質問に対して答える。それ以上、話すことはないと抱き抱えたまま大きな赤い鳥居の方へ歩いていく。
日中で、以前来た時とは違って煌びやかさの微塵も感じられない。イルミネーションまだはいかなくとも、ライトアップだけでも見え方はかなり違うのだ。
赤い鳥居を抜けた先で、私は下ろされた。黒い扇子を取り出してふわふわと仰ぎ出した。強めの風が足元から吹き込んでくる。
以前の天狗が使っていた、葉っぱのうちわと同じような威力の風が巻き起こっていた。
暖さんにしがみついて、離れ離れにならないようにした。
ふわっと体が浮いて、時音稲荷神社を指す。日中で雲ひとつもない空には、大きく主張をする太陽が主役だ。眩しくて、思わず目を細めてしまう。
「天狗のうちわと違って、翼がなくても飛び続けることができるんだ」
少し得意げに、黒の扇子をパタパタとさせている。九尾として認められた証なのだろうから、嬉しさが滲み出るのはよく分かる。
時音稲荷神社に着くと、赤の鳥居の前に時音様が立っていた。時音様の足音に、暖さんが描く時計と同じ絵が地面に突如として浮かび上がった。
私と暖さんは、その時計の絵の上に足を入れた。光と風を感じながら、足から伝わる振動に耐える。
眩しくて閉じてた瞼をそっと開けた。時音様は、居なくて暖さんだけがそばにいた。キョロキョロと周りを見渡して時音様を探したが、どうにも周りにはいないようだ。そして、ここは ”人間界の時音稲荷神社” だった。
妖界と決定的に違うのは、虫の音色が聞こえていて千本鳥居が廃れていることだろう。
「時音様は、ニンゲンの前に姿を現せないからこちらには来ない」
「そうなのですね」
暖さんは、人間界にくるのは初めてなのだそうだ。ニンゲンを知っているが、人間界は知らない。
妖界では、私が暖さんのうしろをついていくようにして歩いていた。今は、私が先頭を歩いてその少し後ろを暖さんが歩いてい、私の家へ向かう。数日ぶりなのに、もう何年も来ていない感覚になる。
こないだ歩いていたはずの、田舎道。独特の土の匂いが漂い、涼しい風が落ちた木の葉を優しく撫でる。
ここを歩いたときは、6月で生ぬるい風が吹いていた。それが10月で、冷たすぎない心地よい空気に包み込まれている。
近くの公園の前には、大きく茂るブタクサの雑草が秋を告げている。花粉が飛び、鼻がむず痒くなる。
家の前に到着して、チャイムを鳴らす。ここへ来て、緊張をしてきた。ドクドクと耳元で大きな心臓の音を鳴らす。




