61。今までの私じゃない!
私はこのチャンスを逃すまいと、足を動かして脱兎のごとく逃げ出す。
扉を勢いよく開けて、足音なんて気にしてる余裕もなく自分の足跡が響き渡った。その足跡で寝ていた遊女たちが、何事かと部屋から寝ぼけ眼で私を視線で追う。
視線を一身に浴びつつも、とにかく私は逃げることを優先させた。
息が上がって苦しくても、足を止めることはしない。花魁の部屋は一番上の一番奥と、逃げるには最悪の場所に位置していた。
後ろから、化け猫が追ってきている。それを振り切り、玄関の扉を開いた。間一髪のところで、嫌なことから目を背けるように玄関の扉を勢いよく閉めた。
「何をしているの?」
息もそぞろに、後ろから声をかけられて心臓が跳ね上がった。
後ろを振り返ると、あさがおやのおかあさんが、眉を下げて心配そうにしていた。
「花魁と、化け猫に……」
私が言い終わらなくとも、おかあさんは理解したようで大きくため息をついて額を抑えている。
玄関の扉を開かれ、化け猫が私に飛び掛かろうとしたところをおかあさんが静止した。
おかあさんが化け猫に触ると、本当の猫に変わった。三毛猫で、祖父母の家にいた猫にそっくりだった。
祖父母の猫は、私が近寄ると逃げ出すような子だった。たまに擦り寄って来てくれるのに、触ると逃げていくという想像をされる猫そのものだった。
猫の姿になった化け猫は、玄関から顔を出した花魁の方へぴょんと身軽に逃げ飛んだ。そして、するっと顔を擦り付けてどこかへ走っていってしまった。
その仕草までもが、祖父母が飼っていた猫のようだった。もうかなり昔のことなので、生きていないだろうが今の猫がそうなのではとさえ思えてくる。
「お、おかあさん」
花魁は罰が悪そうな顔をして、部屋へ戻ろうとした。部屋から見物をしている遊女たちが、ことの成り行きを固唾を飲み込み見守っている。
その視線は、髪も服も乱れた花魁に突き刺さる。以前出会った時の気高い花魁の面影は、微塵も感じられない。
俯き微動だにしない。おかあさんから叱責の言葉を貰うことが、唯一の救いとでも言いた気だ。大きなため息が、おかあさんから聞こえてくる。
「奥の部屋で話しましょう」
おかあさんが、その花魁に助け舟を出す。ここの場を鎮めるためにも、それが得策だった。
花魁は小さく頷いて、長く引きずる裾を軽く持ち上げて奥の部屋へ入って行った。
私はおかあさんに、肩に腕を回されてついて行かざるおえない状況になった。小さくため息をついて、足を再度あさがおやに踏み入れた。
おかあさんが手を叩いて、遊女たちを部屋に戻らせる。柔らかい雰囲気を漂わせた彼女も、ここの見世を切り盛りしているんだと再認識をする。
私たちも花魁の入った部屋に入った。
(私にどうしろというの?)
そう思うと、体がズンと重たさを増す。ただでさえ運動不足のこの体、先ほど普段使わない筋肉を使って重たいのだ。
自分はただ巻き添えを食らっただけなのに、説教を代わりに受けに行く気分だ。
「花魁? 分かるわ、好きな気持ちに素直になりたいのも」
おかあさんも元遊女。花魁の気持ちや立場も理解できる存在だ。そのおかあさんが、自分の気持ちを理解してくれたと、花魁の顔が晴れた。机に手をついて、前のめりで顔を輝かせている。
しかし、おかあさんは手のひらを花魁に向けて動くなと言葉ではなく行動で示す。
花魁の生き生きとした顔から光を失う。気の毒になるほど顔全体から力が抜けていく。
「はじめから、素直になっても良いことがないって理解していたでしょう?」
ゆっくりと席に腰を下ろす。下を向き、長い髪に顔が隠れてしまう。どんな表情をしているのか分からないが、花魁の纏うオーラが真っ暗だ。
私は、そんな花魁をじっと見つめることしかできない。声をかける言葉なんで見つからない。
「あちきの方が好きなのに。主さんの方がいいのでありんすか。あちきでは勝てねえというの……」
おかあさんは、本日何度目かのため息をつきながら首を振ってやれやれとでも言いた気だ。
「……勝つ負ける、という感覚は分かりませんが。私も好きですよ、暖さんのことが」
私だって昔のままではいられない。好きという感情が、私を強くする。




