60。むせかえる部屋!
黒狐は、思い出して鳥肌が立ったように背中をピンと伸ばして目を見開いた。
そして、忘れようと瓶を拭く手を慌ただしく動かし始める。
律さんも立ち上がり、先ほどとは違う棚を毛はたきでパタパタと埃を落とし始めた。
私は落ちて来た埃を吸い込んでしまい、むせてしまった。煙たくて、さすがに扉を開けて換気をしようとした。
高い音のベルを鳴らして、扉を開いた。外へ出て、ゲホゲホと咳をして新鮮な空気を吸い込む。
律さんのお店が暇なのは、この埃たちが物語っているようだ。
ふと外に視線をやると、柳の木の下で泣いている小さな子供を見つけた。
扉を開けたばかりで部屋の中の埃ぽさは、まだ抜けていなさそうだ。いま中に入るのも嫌なので、その子供のところへ駆け寄ることにした。
「どうしたの? 迷子なの?」
子供がひとりうずくまって泣いているということは、迷子では無いかと考えた。あたりを見回してみても、この子供だけなよう。
話しかけてみても泣いているだけで、何も答えてくれない。ましてや、顔を膝の間に入れて顔すら見せてもらえないのだ。
私は痺れを切らして、その子供のそばに座り背中を優しく撫でた。白狐が黒狐にしていたように、安心してもらえるかと考えた。
顔はそのままで、手だけ私の腕を掴む。そして、先ほど奥の部屋に押し込められたときに聞こえて来た声がこの子供から聞こえてきた。子供らしからぬ声だった。
「つっかまえた!」
ニヤリといやらしく笑う。その声に、私の背中を冷たいものが駆け巡る。そして、茶色の猫耳に尻尾がだらりと出て来た。
私は先ほどの黒狐の表情と話の内容を思い出した。声を出せば、お店の扉は開いているので助けを求められるそう思った。
しかし、恐怖からか声が出ない。化け猫は小さな漬物壺を取り出して、木蓋を開いた。壺の中から黒い霧がたちこもる。
カランッと音を立てて、私は真っ暗な中に入った。手で周りを探ると、ひんやりとした感覚がある。おそらく、先ほどの漬物壺の中なのだろう。手のひらを使って叩いてみると、陶器の鈍い音が響いた。漬物壺の中だからか、鈍い音は反芻して聞こえる。
「律さん! 黒狐、白狐!」
自分の声が壺の中で、耳が痛いほどの声量で聞こえてきた。外音は、全く聞こえないあたり自分のこの声も外には聞こえてないだろう。
どこに運ばれているのかも、全く見当がつかない。気をつけてとあれほど言われたのにも関わらず、巻き込まれてしまったことに不甲斐なさを感じる。
振動も無いのでもしかしたら、柳の木の下に放置されているのではないかと思いはじめた。
(私は、このままどうなっちゃうんだろう)
木蓋を開けようかと、飛んでみてもどうにも届かない。かんざしを使って、叩き割ることも考えた。でも、一度壊れてしまって直してもらった手前そんな手荒なことはできない。第一、貰った大切なかんざし。そんなことに使えるはずもない。
体力を無駄にするわけにもいかず、じっと外に出れる時を待つことにした。
かなりの時間、真っ暗な壺の中に閉じ込められていた。今まで揺れもなかったのに、急に大きな振動を感じた。
そして、いつぶりかの外の光を浴びた。真っ暗なところから急に光を浴びて、目が眩しくて開けられない。
気がついたら、周りは以前にも見たことのある景色だった。
「ご主人様〜。仕事はしっかりして来たよ?」
私を攫った化け猫が、撫で声を出して甘えているようだ。化け猫を本当の猫のように頭を撫で回している女。
この女、以前も会った人物。花魁だった。
「なっ! あなたは!」
私の声にキッと睨まれる。そして、化け猫を撫でるのをやめて立ち上がり私の方へ虎のように鋭い眼光を向けられた。その眼光に、私は思わず後退りをした。
「なんで主さんなんでありんすか? わちきの方が誰よりも相応しいのに!」
怒鳴るようにして私に文句を言ってくる。化け猫がにゅっと顔を出して、私のことを無表情のまま見てくる。
でも、私だってここで黙っているわけにはいかない。心配をかけるだけたくさんかけて、攫われたら助けを待つだけなんて嫌なのだ。
自分にできることなら、たくさんある。今までの自分では、こんなふうに考えられなかった。
私を必要としてくれる人に対して、卑屈になるのは失礼だ。何よりも、私はそれ応えたい。
「暖さんは、渡しません!」
キーンと耳が痛いほど、声を張り上げて自分の思いをぶちまける。
花魁は、私が反論をしてくるとは思わなかったようで唇を震えさせるだけで声になっていない。
驚いているいまが、私の逃げるチャンスだと思った。




