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宿憑きの人  作者: 花黒子
3/3


 警察の事情聴取には「心神喪失状態」だったとして処理されたあと、自分は会社を辞めた。

 社長は引き止めてくれたが、休日に皆で言ったハイキングで突然、消えていなくなる社員はさすがに迷惑過ぎるだろう。


「どうやら完全に頭がおかしくなった」

 笑顔で妻にそう告げると笑っていた。

「怒る気が失せたわ。別れるつもりはないからね」

 用意していた離婚届はノールックでそのままゴミ箱に捨てられた。

「何もできないぞ」

「うん」

「急にふらっと消えるかもしれない」

「どこかに消えるなら、帰ってくる場所くらいは必要でしょ」

 

 妻に正面から向き合われると、何も隠し通せる気がしない。

 自分が隠していたはずの強がりも溶かされていくようだった。

 おかしくなった原因があるはずで、向き合っていなかった現実もあるはずだ。


「何か忘れてるんだろうな」

「思い出すのは、ゆっくりでいいのよ。貯金はある!」

 妻は頼もしかった。


 しばらくぼーっとした日々が続くと思っていたが、ブルガリアから帰ってきて3日目、久しぶりにスマホを見るとメールが届いていた。


 仕事以外ではほとんどメールなどしない。それまでも同僚や友人とはSNSで済ませていたし、妻には「変なことが書かれているから見なくていい」と言われていて以降、触れもしなかった。


 メールを開いて見ると、学生時代に民宿で泊まったことのある宿主の息子さんからだった。金のない学生には都合のいい民宿で、遠出の山登りの際によく利用させてもらっていた。務めるようになっていかなくなってしまったが、妻と出会った思い出の場所でもある。


 民宿が閉業して長く経つが、宿主が亡くなられたそうで写真の裏に書かれたメールアドレスを頼りに連絡してきてくれた。


 夏には取り壊すというその民宿を見て、はっとした。

 神隠しで訪れた宿そのものだった。


「どうして忘れてたんだ……」


 学生時代の思い出と神隠しにあった時の記憶が写真のように次々と頭に浮かんだ。

 データ入力のパートから帰ってきた妻にすぐ伝えて、宿主の息子さんにメールを返した。


『お悔やみ申し上げます。もし買い手がおらず、取り壊すなら、買い取らせていただけませんか』


 退職金はあったし、改装工事は自分でもできる。電気の配線も資格は持っている。

 妻も初めは戸惑っていたが、ネット環境さえあれば仕事はできると最終的には承諾してくれた。


 翌日、宿主の息子さんからメールが返ってきて、翌週には内見させてくれることになった。


 都心から離れた山奥で、周辺は高齢化のため耕作放棄地の畑が多い中、その宿はぽつんと佇んでいた。

 ところどころ壁がかびていたし、畳はボロボロだったが、囲炉裏はしっかりしていたし、奥の風呂場には今でも栓を外せば温泉が流れてくるという。

 アンテナは少ないが、ネットも使える場所ではあった。


「本当にいいのかい?」

 宿主の息子さんから再三忠告されたが、この宿に呼ばれて、二度も神隠しにあった。自分からすればようやく現実で見つけた宿だった。取り壊されると、向き合えなくなってしまう。

 

 

 春の終わり、梅雨が始まる前に引っ越した。

 畳を張り替え、土壁を補修して住める環境だけ確保。二人暮らしだったので、荷物は少ない。

 家を修繕しながら、住み始めた。

 買い出しに出かけるときは少し車を走らせないといけないし、ガソリン代もかかるので1週間分は買い込む。田舎町はゴミを出すだけで揉めると聞いていたので周囲への気配りも必要だ。


 妻には不便な生活を強いて申し訳なかったが、「落ち着くからいいんじゃない」と言っていた。


 風呂場のロッカーには古いたわしとモップだけ。新しいものに取り換え、隙間風が吹いてくる窓のサッシを修理。タイルはきれいに掃除すれば、まだまだ使えた。

 霧深い日には、妖怪や化け物が来るのではないかと思って、玄関だけは掃除しているが今のところまだ来ない。

 

 家具も揃って、家に風が吹いてくるような隙間がなくなった頃、買い出しに出かけた妻が黒い小さなリュックを渡してきた。


「トランクのシートの裏に突っ込んであったけど」

「あっ……」


 中には、ベビー服にタオル、ノートが入っていた。

 ノートにはこれから生まれてくる子供の名前の案が書かれていて、必要なものをリストアップされていた。ベビー服はブルガリアの民族衣装のような刺繍が縫われていて、タオルは誰かから貰った鹿児島土産だった。


 妻は昨年の秋、妊娠中毒症で子供をおろしていた。

 自分は妻の妊娠を聞いてバカみたいに浮かれて、生まれてくる赤ん坊を受け入れる用意をしていたことをようやく思い出した。


 病院から帰ってきて夜中、泣いていた妻を見て、抱きしめることしかできなかった。

 妻をカウンセリングに行かせて、水子の神社にもお参りして、人生をかけて背負っていくものだと心では思っていたのに、自分は感情を表に出すことはなかった。


 リュックを開けて、止まっていた時が流れ始める。今になって止めどなく涙があふれ出た。

 妻は泣いている自分を見て、そっと抱きしめながら戸惑っていたようだ。自分でも、急に眼を開けながら泣く夫なんか嫌だと思う。

 



 後に調べてわかったが、世界には親が子どもを脅すときに使う妖怪が数多い。子取婆、雨女、ブギーマン。鹿児島にはヨッカブイという妖怪がいるし、ブルガリアにはトルバランという怪物がいる。

 写真を見たら、神隠しの時に見た化け物にそっくりだった。


 霧深い日の夜には、囲炉裏で火を熾して彼らを待つことにしている。もしかしたら生まれてこなかった子を連れてくるかもしれない。

 

 コツン。


 上がり框に入浴料のどんぐりが転がった。


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