2度目
翌年の春。会社の同僚たちと山へ登ることになった。
心療内科から貰う薬の量も減り、医者から「友人と少し外に出てみては」と言われていたので、社長から「日光にある戦場ヶ原に行ってみないか」と誘われたときはありがたかった。
事務員の女性やその彼氏など、総勢5名で行くため、安心だ。山ではなく高原なので見通しもよく、たとえどんなに濃い霧が出ていてもハイキングコースさえ離れなければ遭難することはない。
当日は会社がある駅に集まり、大きめのレンタカーを借りて5人でまとまって日光へ向かう。
「大人の遠足だ」
社長はこの日のために山登りの準備をしていたらしい。服装もハイキングだというのに本格的だ。
決算も終わり仕事も落ち着いてきた。業績は世界経済の煽りをもろに受けたが、悪くはないというところ。社長は運転をしながら、一時は潰れそうだったと思い返していた。
「なんか食べる?」
事務の子が、持ってきた大量のお菓子を見せてきた。
「ハイキングでも遭難したら海まで下りて行かないといけないでしょ」
非常食として持ってきたらしい。それにしても何日遭難するつもりだろう。
「遭難したときは海に行くより、山に登った方がいいよ。坂を下りていってもどこに行くかわからないけど、山の頂上にはだいたい山道があるから」
「確かに。遭難者は詳しいのね」
「伊達で遭難したわけじゃないさ」
この頃には話のネタにもできていた。
「お菓子は交換しよう。俺も少し持ってきたから」
「お菓子の交換会なんて、子供のころ以来だわ」
俺が持っているお菓子は少ないが、ソフトキャンディとチョコは用意している。
「じゃ、私これにしよう」
事務の子はブルガリアの山が印刷されたヨーグルトキャンディを選んでいた。
「俺はシュワシュワする飴を貰おう」
口に入れると飴が溶けラムネ成分が溶けだすお菓子のようだ。
サービスエリアで蕎麦を食べ、うねる山道を通り中禅寺湖に着いたのが10時頃だった。男体山と中禅寺湖の先、赤沼茶屋にレンタカーは停めた。
男体山と赤城山の神々が争い、湖だったところが湿原化したと言われる戦場ヶ原だが、のんびり小鳥が鳴いている。
少し前に木道が補修されて歩きやすくなっていた。湿原を守るために通された木製の道だが、ハイキングには適している。
森を抜ければ、戦場ヶ原の展望台。枯れた草が金色に輝き、遠く男体山まで広がっているように見えた。
展望台で休憩していると、冷たい風が吹いてきた。雨が降るかもしれず、同じようにハイキングに来ていた人たちも写真を撮ってとっとと先を歩いていった。
休憩を済ませ、再び歩き始めた。
展望台を抜ける頃には、ウィンドブレーカーがなかったらちょっと耐えられないくらい冷たい風が吹いていたが、森に入った途端に風が止み、徐々に霧が出てきた。
暖かい空気に冷たい風が入り込んだのだろう。
「いやぁ、これは遠くまで見えないぞ」
先頭を歩く社長が心配そうに言った。
「木道さえ外れなければ大丈夫です」
ハイキングは2時間ほどなので遭難する方が難しいのだが、俺はそんな道で遭難したことがあるのでそこまで言えない。
「あれ、帽子を置いてきたの?」
事務員の子に言われて、自分が展望台で帽子を置いてきたことに気がついた。
「先に行ってて、ちょっと取ってくるから」
「一人で行くのは……」
「見えてる距離だよ。さすがに大丈夫さ」
笑顔でそう答えたのが運の尽きだった。
帽子を取りに行き戻っている最中、突風が吹いた。
霧は一層濃くなり3メートル先も見えなくなった。
「おーい!」
同僚たちに声をかけてみたが、返事はない。スマホはいつの間にか圏外になっている。
それでも、木道さえ外れなければ出口までは辿り着く。
一歩一歩確かめながら、整備されたばかりの木道を歩いていると、木が腐って木道が消えてしまった。
少しだけ霧が晴れた先には、ただの山道が続いているだけ。
急激に気温も下がってきた。
「もしかして、また、か……」
木道を出てはいけない気がして、その場でじっと待つことにした。
道さえ見失わなければ、どこに神隠しにあっても、遭難者として助けは来るはずだ。
それが一度遭難した者として、最大限迷惑をかけない行為のはずだった。
タッタッタッタ……。
子どもの足音が近づいてきた。思わず、座っていた木の板から尻を浮かせて、立ち上がって霧の向こうに目を凝らす。どうせなにか妖怪か化け物でも出るのだろうと思っていたら、外人の子どもが軽装でやってきた。年のころは10歳ほどだろうか。
「どこから来たんだい?」
そう優しく聞いても、何語かわからない言葉でとにかく大変なことになったことを訴えかけてきた。英語でもなければフランス語でもなさそうだ。ただ、ヨーロッパの言葉であることはなんとなくわかる。
少女の目は青く、髪は栗色で、アングロサクソン系の顔をしていた。腕には鳥肌がずっと立っていた。アウターをなにも着ていない。
すぐに自分のウィンドブレイカーを着せて、身体をこすって温めた。ポケットに入っていたソフトキャンディを食べさせると、ようやく少し落ち着いていた。
陽の光は射さずに、どんどん気温は下がっていくばかり。自分一人なら耐えられていたかもしれないが、ガタガタと震える少女と一緒だと、避難する場所を探さないわけにはいかなかった。
身体が冷えて動けない少女を背負い、ひたすら山道を下る。ここがどこなのか考えることはやめた。少女の生存を最優先させる。
山道を急いでくだっていると、霧は再び徐々に深くなっていく。
ずるりと滑って転びそうになりながらも、背中の少女にだけは地面に付けないように肩と額で受け身をとる。おそらく擦り傷程度は。骨が折れたわけではない。
「ごめん」
言葉がわからないのに、謝ってしまう。
振り返ると、少女が前方に何かを見つけ、目を見開いていた。
俺は前方に目を凝らす。
「え?」
霧の向こうに黒い建物が見えた。
「どうしてここにあるんだよ……」
例の神隠しにあった宿だった。
背中では、歯を鳴らす子どもがいる。選択の余地はない。
引き戸を開けて、中を確認せずにそのまま風呂場へと向かう。ランプの明りの下、湯はしっかり沸いている。
服も脱がずに俺は湯船に飛び込んだ。服は後で洗って干せばいい。
今はとにかく少女の身体を温める。
ガラリ……。
入口の引き戸が開かれた音が鳴った。
ひたひたひた……。
迫りくる化け物の足音に心臓が縮み上がるが、子どもを隠すためなら自分が食われてもいいと思えば肝も据わる。
風呂場に来たのは、袋を担いだ人型の化け物だった。
「トルバ……」
ちゃぽん。
少女が何か喋ったが、化け物が袋を担いだまま湯船に入ってきてしまい、何も発せなくなった。
化け物は、腹の底から響くようなうめき声をあげて、ゆっくりと湯に沈んだ。泥が同心円状に広がり、一気に風呂場には卵が腐ったような臭いが広がる。
少女と自分は鼻をつまんで、身動きもできずに必死に耐えた。
ブハッ!
白い顔の化け物が風呂場から出ていったときには、身体の震えは止まっていた。
ガラリ……。
化け物が外に出た音を聞いて、気が抜けてしまう。
「あ~、くさいな……ふっ」
自分が笑うと、少女も笑っていた。大丈夫そうだ。
一度湯船から湯を抜いて、掃除をしてしまう。掃除道具は前と同じ場所。脱衣所のロッカーに入っていた。バケツにお湯を入れて、一気に泥を洗い流し、たわしとモップで残った汚れを落としていく。
作業がある分、余計なことを考えないで済む。
その間に、少女には囲炉裏で濡れた服を乾かしてもらった。服を絞って、早く乾かすため囲炉裏の上の火だなにかけていた。煙の臭いは付くだろうが仕方ない。
「あっ……」
少女が、長く繋がったソーセージを抱えて風呂場に来た。
「食べ物を見つけたのか?」
言葉がわからないが、玄関先に置いてあったと少女が説明してくれた。化け物が代金として置いていったのかもしれない。
囲炉裏で二人並んで、ソーセージに棒を刺して焼いていると、腹が空っぽだったことに気がついた。匂いだけで、涎が止めどなく溢れてくる。
焼けたソーセージを一本少女に渡したら、我慢しきれなくなって熱く焼けているソーセージにかぶりついた。
プツっと歯で皮を破くと肉汁が口に溢れでた。肉のうまみが詰まっていて、強いハーブの香りが鼻から抜けていく。口の中を火傷したが、人生で一番おいしいソーセージだった。
落ち着いたら、きれいになった風呂に入り、もう一度身体をしっかり温めた。
服が乾くまで囲炉裏の横で仮眠。寝ぼけていたら、上がり框にどんぐりのような実がひとつ落ちてきた。
天井を見上げても穴は空いていない。
コツン。
再び、板にどんぐりが置かれた。土間には民族衣装を着た手のひらサイズの小人が続々と風呂へと向かっていく。
やはりここは人ならぬ者たちの風呂宿だったのか。
少女は小人たちを見て、膝を抱えてしまった。わけのわからぬものは大人でも怖い。
風呂から上がった小人たちを見送り、しばらくして玄関先に日の光が差し込んでいた。
「霧が晴れたな」
服もすっかり乾いている。
まだ少し濡れている靴を履いて、少女と一緒に山道を下りた。白い花が咲き乱れ、ハイキングにはちょうどいい山道だった。見渡せば戦場ヶ原とは思えぬ山脈が広がっている。
うすうす気づいてはいたが、自分はまた神隠しにあったのだと受け入れた。どうやら自分は完全におかしくなったようだ。
ただ春風が気持ちよかったからか、まるで嫌な気分ではない。少女を家まで送り届けられればそれでいいとさえ思った。
山を下り続けていると石造りの古い家々が見えてきた。やはりヨーロッパのようだが、どこかはわからない。
犬を連れた老人がこちらを見つけて、手を振ってきた。蛍光色のベストを付けているので、もしかしたら少女を捜索するために山狩りをしていたのかもしれない。
老人はトランシーバーで少女を発見したことを報告しているようだった。メーカーのロゴが入ったトランシーバーがあるのだから、異界ではないだろう。
少女は老人に事情を説明してくれたが、自分はどう見ても軽装で異国の男なのであやしい。
とりあえず山道を下りていくと、少女と同じ顔の女性と似ている男性が駆け寄ってきた。どう見ても親子だろう。
両親は少女を抱きしめて、再会を喜んでいた。
これで自分の役目は終わったが、ここからが大変だった。
警官に囲まれて、訛りの強い英語では会話にならず、少女を誘拐したのではないかという疑い間でかけられたが、少女が事情を警官たちに話してくれたようですぐに解放された。
結局調書に「JAPAN」と書いてようやく日本人であることが伝わったようで、大使館に連絡がいった。
「ここはどこなんですか?」
「ブルガリアです」
大使館の人と話して、ようやく自分がブルガリアにいること、戦場ヶ原にハイキングに行ってから5日も経っていることがわかった。
もちろんパスポートなんて持っていないので不法入国だ。強制送還で日本に帰ることになった。
飛行機に乗る頃にはネットで騒がれ、奇跡の男が少女を救ったとブルガリアの山村では話題になり、日本では『お騒がせ神隠し男』として広まっているらしい。
スマホの電池はそこで切れた。
空港に迎えに来た妻の顔を見て、ようやく生きた心地がした。