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宿憑きの人  作者: 花黒子
1/3

1度目


 目の前を霧が覆っている。

 スマホの天気予報では晴天とされていたが、存外外れるものだ。


「たまの休みなんだからどこかへ遠出してみれば」


 妻にそう言われて、当初の俺は奥多摩へ鮎を釣りに来ていた。

 東京とは思えない緑豊かな山麓には、コロナ明けから観光客が押し寄せていた。観光スポットには釣り人が多く、早々に竿を仕舞い、山登りに切り替える。

 梅雨も明けて、日向よりも木陰が気持ちいい季節になっていた。

 山登りなどいつ以来だろうか。

 以前は職場の仲間と来ていたはずだが、皆、徐々に忙しくなってきて、いつの間にかひとりになっていた。コロナ禍になり、自粛生活をしているうちに、外に出ることも少なくなってしまった。


 山道の日陰を歩いているとはいえ、じっとりと汗が噴き出し、Tシャツが濡れていく。運動をしていなかったせいもあり、山間部まで来るとすっかりびしょ濡れだ。上に羽織っていたネルシャツまで濡れてきたので、休憩がてら着替えることにした。山道とはいえ、時々、人は通るので半裸にはなれず、とりあえず山道から外れる。

 大木の下、人目に付かないところで全身に虫よけスプレーをかけて、着替えて山道に戻ろうとしたら、いつの間にか周囲に霧が立ち込めていた。


 そんなに山道から外れていないはずなので、元来た場所へ戻ってみたのだが、山道が見つからない。そのうちに、気温が下がり、どんどん霧は濃くなっていく。


「おーい! 誰かー!」


 大声で叫んでみたが、返事はない。

 歩き回るのは危険だが、身を寄せる場所もない。とにかく山頂まで行けば、霧も晴れて山道に出るだろう。そう思って森の中を歩いたが、一向に山頂も見えず、体力を奪われていく。

 小川の音が聞こえ、それを頼りに進んでいくと、ようやく身を隠せそうな崖の窪みを見つけた。


「こんな低い山で遭難か……」


 観光客が多いのだから誰かしらに見つかるだろうと思っていたが甘かった。山を舐めてはいけない。

 見上げれば、垂れ下がった苔から雨水が垂れて、水たまりを作り始めている。雨宿りはできても長居はできないだろう。

 バックパックの中から、いざという時のためのチョコを取り出して食べた。まさか本当にこんなことが起こるとは。幾度となく予想していたが、実際に起こると本当に周りが見えなくなってしまう。


「落ち着こう」


 自分に言い聞かせて、大きく息を吸って吐く。何かを食べて少し安心したのか、ふと目を閉じてしまった。


 目を開けると周囲が暗くなっていた。スマホを取り出してみると、時刻は19時を回っていた。電波はもちろん圏外。小雨は止んでいたが、うっすら霧は残っている。

 俺は完全に遭難していた。動かず朝まで待てば、霧も晴れるだろう。麓に停めていた駐車場の料金が気がかりだ。

 尻が雨水に濡れて冷たい。できれば乾かせるような場所があるといいのだが……。


 立ち上がって周囲を見たが、草木が生い茂っている谷の底からでは何も見えない。


 ピチャン。


 近くの水たまりをなにか獣のようなものが通った。日本にいる肉食の獣は熊ぐらい。さすがにそれほど大きくなかった。狸やハクビシンだろう。もしかしたら、今いる場所は彼らの寝床だったのかもしれない。


 徐々に暗闇に目が慣れ、周囲のものも見えるようになってきた。

 見上げれば星空も見える。いつの間にか霧が晴れていた。

 小川さえ見失わなければどうにかなるか、と草木で覆われた坂を上ってみる。


 坂の上には廃屋があった。窓が割れ、室内から蔓が伸びている。入り口の横には、くすんだ看板が立てかけられていて、スマホの明かりを頼りに見てみたが、名前はわからなかった。

 周囲には他に建物はない。猟期の休み処かとも思ったが、軒もあるし立派過ぎる。

山小屋を建てるほど高い山でもないので、おそらく山の中にある宿だったのだろう。

 開けようと思ったが、鍵がかかっているのか開かない。玄関でもいいので休めるといいのだが……。


 止んでいた雨がパラパラと降ってきた。

 再び星空が見えなくなっていた。


 

「仕方ない」


 石で引き戸のガラスを割って、鍵を開け中に入る。水カビの臭いと濃い緑の匂いが鼻につく。

 スマホの明かりを頼りに室内を見ると、広めの玄関を上がると廊下が伸び、左手に囲炉裏のある部屋。廊下の先にある階段は崩れていて二階へ上がることはできなさそうだ。

 階段脇の天井から「風呂↑」と書かれた案内板が吊るされている。


 小さな古民家の宿で間違いないようだ。

引退後の隠れ家としてはいいが、さすがにこんな山奥では経営ができなかったのだろう。天井が崩落して瓦礫だらけ。廊下の床が抜けて、草が育っている。

 瓦礫の中から木の板を拾い、囲炉裏で火を焚いた。ズボンを脱いで濡れた尻を乾かしていると、鳥肌が立ってくる。さすがに夏を過ぎると、夜は冷えるようだ。それでも風は入ってこないし屋根があるので安心できる。


ピチョン……ピチョン……。


 宿の奥の方から、水が落ちる音が聞こえてくる。雨漏りでもしているのだろうと思っていたが、音は風呂の方からだ。もしかしたら温泉でも湧いているのか。

 暗がりの中、下半身はパンツ一枚で風呂場へと向かった。

 蔓が垂れ下がる脱衣所を抜けると、暖かい湿った空気が充満している。元栓は閉まっているものの、湯気が排水溝から立ち上っていた。


「温泉も汲み上げていたのか」


 源泉かけ流しなら、温泉が出てくるのかもしれない。

 元栓をクイッと開けてみると、トボドボとお湯が出てきた。どうせ遭難した夜は長い。窪みで寝たのもあり、今夜は眠れそうにないので、湯船を洗い、足だけでも温めることにした。

一旦、元栓を閉じて、どこかにモップでもないかと探したら、脱衣所のロッカーに亀の子たわしが残っていた。

 たわしひとつで湯船を洗うのは時間がかかりそうだが、今の俺は都会の喧騒からも離れ、遭難中だ。腹も減って何かしていないとストレスも溜まる。

 俺はゆっくり時間をかけて、湯船と洗い場をたわしでごしごしとこすり、できるだけコケや水カビなど、汚れを洗い落としていった。黒かったケロヨンの桶もしっかり黄色にもどした。


 再び元栓を開けて、湯船に湯を溜める。

 溜めている間についにスマホの充電が切れ、風呂場が真っ暗になった。仕方がないだろう。


「足湯だけ出来ればいいや」


 チャポン。


 温泉の熱が汗で冷えた身体を足元からじんわりと温めていく。

 落ち着いて、よく考えれば俺のやっていることは犯罪だ。廃屋とは言え器物損壊罪に家宅侵入罪。遭難したと事情を話せば、情状酌量の余地はあるだろうか。持ち主には素直に謝ろう。修繕費なら少しは弁償できるか。


 そう思って暗闇の中で笑っていたら、洗い場になにかの気配がした。

 

 ひた、ひた、ひた。


 獣のような息遣いとともに、裸足でこちらに向かってくる音。一瞬、熊かと思い身構えたが、それほど大きく重量があるような足音ではない。目の見えない老人が紛れ込んできたのか、幽霊か。とにかく、そのなにかがジャブンっと湯船に入った。

 

「おおぇえい~……あぁ~……」


 なにかの声が漏れ出た。俺も疲れていて風呂に入れば同じような声を出す。

 緊張感が途端に和らぐ。たとえ幽霊だとしても、それほど悪いことをしてはいないはずだ。こちらを襲ってくることはないだろう。


 足湯をしている俺の横で、そのなにかはじっくりと温まってから、再びひたひたと足音を立てて出ていった。ちらりと後姿を見たが、頭に角が生えているわけではなく、顔全面が毛に覆われているように見えた。


 俺も湯船から上がり、風呂場から出る。

 火の焚かれた囲炉裏では串に刺さった鮎が焼かれていた。

俺への風呂の代金だろうか。


バックパックから手拭いを取り出して足を拭い、スマホを充電し、乾いたズボンを穿いた。風呂掃除をしたのもあって、腹は減っている。

 ありがたく俺は鮎の串焼きに口を付けた。


「美味い」


 大きめの鮎には内臓が少し残っており苦みもあったが、自分の舌には合った。

 体が温まり、腹も満たされた。

 外は静まりかえり、割れた窓から月明かりが差し込んでいる。

 座りながら少しだけ眠った。

 


 目が覚めたのは、日が高くなってからだ。

 窓やガラスの引き戸から燦燦と太陽光が差し込んでいる。

 俺はバックパックを背負い、靴を履いて表に出た。


 草木が生い茂る坂を抜け、小川で水をペットボトルに入れる。

 小川を下っていけば、鮎を狙う釣り人に会えるだろう。

 

 俺は道なき道を進み、小川を下り、大きな川へと出た。

さらに川をくだっていくと、ようやくアスファルトの道路が出てきた。ガードレールがあり、自動車が何台も通り、街並みも見えてきた。

 もし妻が警察に捜索願を出していたら、いろんな人に迷惑をかけていただろう。

 ただ、車を停めた駐車場がわからない。街並みも見たことがない。

 ひとまず、町を行く壮年の女性に道を尋ねてみた。


「道に迷ってしまって、ここはどこですかね?」

「んあ? イブスキよ。どっかあきたとな?」

 そう言って女性は遠くの看板を指さした。

 看板には「フラワーパークかごしま」「指宿温泉郷」と書かれている。充電が済んだスマホの電源を入れて、地図アプリで位置を確認すると、俺は鹿児島にいた。

 しかも遭難した日から2日も過ぎている。廃屋に泊ったのは一泊のはずだが、どうなっているんだ。


 ひとまず近くの温泉施設で、警察を呼んでもらい、事情を説明した。


「奥多摩からだと海を渡らないと九州まで来れないと思うんですけど……。いや、そういうことじゃないか。もし、捜索願が出されていたら、見つかったと報告してください」


 妻に連絡を取ると、呆れていた。


「どこにいるの?」

「指宿って知ってるか?」


 妻は捜索願を出していて、車も家に戻っていたが、まさか夫が鹿児島の指宿にいるとは思わず、奥多摩周辺を探していたとのこと。当たり前だ。


 飛行機で羽田空港に向かい、妻が運転する車で家に帰った。


「随分、遠くまで気晴らしに行ったのね」

「ああ、どうやって行ったのか覚えてないんだ。奥多摩で遭難してさ、次の日には指宿だ。2日も経っているのに。まるで神隠しにでもあったみたいだ」

「変な女に捕まったんじゃないの?」

「それだったらもっといい格好してるよ」

「それもそうね」

「なんか精神的にまいってるのかもしれない。仕事先にも謝らないとな」

「そうよ。皆、心配してくれてるわ」


 仕事先には、すぐに連絡をして事情を説明し謝った。


「心療内科を予約する。海を渡ってるのに記憶もないなんて、よほど疲労が溜まってるんだ」

「仕事、辞める? 辞めてもいいんだからね。私が働いてもいいんだし」

 

 工務店の仕事だが、確かに監督を任されることも多くなった。それで、無意識のうちにストレスが溜まっていたのだろうか。コロナ禍の時は、それほど心労がなかったが、突然、動き出して身体が戸惑っているのかもしれない。


「うん、少し件数を減らしてもらうよ。給料も減ると思うけど……」

「わかった」


 家に帰り、妻の作ってくれた生姜焼き定食を食べて、ようやく落ち着いた。

 

 心療内科に行き、話を聞いてもらって、薬を貰った。睡眠薬が要らないくらいには眠れている。

 

 翌日から仕事に復帰。工務店に努め出してから7年になる。同僚は皆、いい人たちなので責任のある仕事は受けず、量も減らしてもらった。


「大丈夫か?」

 社長が昼休みに聞いてきた。

「今のところ大丈夫です。でも、1日記憶がないって怖いですよね。あ、一応、警察で薬物検査もしましたから、大丈夫ですよ」

「あ、おう。さすがにそんなことする奴だとは思ってないけどな。無理だけするなよ」

「はい」

 年の近い社長は、働き盛りの俺が突然行方不明になって驚いた様子だった。

「ほら、甘いものでも食べてさ。忘れな。ちょっと仕事入れすぎて疲れてるのよ」

同僚の事務員のお姉さま方も心配してくれた。

「そうだといいんですけどね」


 ほどなく、俺は通常の仕事に復帰していくことになる。

 ただ、時々、あの日一緒に風呂に入ったなにかの正体は気になった。ネットで奥多摩周辺の古民家宿を探してみたが確認できなかった。


 ちょっとだけ俺のことがネット上で話題になって「会社員が神隠し」などと騒がれたようだ。



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