肆
本当に、それから乙一郎は顔を見せなかった。先に断ってくれたからよいようなものの、何も言われていなければまた不安になっていたことだろう。
あの去り際の言葉が紺にはわからぬままであった。いい報せがあると言ったけれど、それは一体何なのか。そんなものよりも、紺はただ乙一郎に来てほしかった。早く顔を見せて声を聞かせてほしかった。
長く会わないと想いが募る。募った想いが音に出る。
「このところ、あんたの三味線の音が変わったようだ。情夫でもできたのかい」
その日は屋形船で、馴染みの客にそんなことを言われた。お座敷遊びに慣れ、耳の肥えた旦那だ。ニヤニヤと笑っている。
「そんなんじゃありませんよ」
と返すものの、紺の様子には以前ほどの硬さはなかったかもしれない。どうしてこうなったのか、紺にもよくわからなかった。ただ、乙一郎という男と出会い、それで紺の固まっていた心が揺さぶられたのだ。
紺の音が変わったと、乙一郎以外にもわかるほどの変化なのだ。照れ臭くはあるものの、以前よりも紺自身が心地よく三味線を弾けている。乙一郎が言ったように、恨みつらみをぶつける弾き方は救いではなく己の傷を抉っていただけなのかもしれない。そのことに気づかされた。
会いたい。会って、紺の三味線を聴いてほしい。言葉にすることができない想いを音色に変えて届けたい。
乙一郎がやってきたのは、最後に会ったあの日から二十日ほど過ぎた頃であった。
相変わらずの涼やかな出で立ちでいつもの小料理屋の座敷に座っている。ただ、あまり内面がわかりやすく出ることのない乙一郎にしては機嫌がよいと感じた。
「旦那、何かいいことでもあったんですか」
挨拶もそこそこに訊ねた。すると、乙一郎はニヤリと笑った。その笑顔はいつもとはどこか違って見えた。何がどう違うのか、それが判然としないもどかしさを紺は抱えてしまった。
「次にお紺さんを呼ぶ時にはいい報せがあるって言っておいただろう」
「ええ、まあ――」
乙一郎は紺に酌を頼むでもなく手酌をしようとしたが、紺は素早く乙一郎のそばへ行き、徳利を奪うように持った。乙一郎はフフ、と軽く笑って紺の酌を受ける。それを飲み干すと、乙一郎は短く言った。
「捕まえたぜ」
え、と紺は声を漏らし、目を瞬かせた。そんな紺に乙一郎は笑顔を絶やさずに続ける。
「お紺さんの実家に押し込みに入った賊をな、捕まえたぜ。元丁稚の染吉――今は代治郎って名乗ってやがったが――狂ってなんぞいなかったな。むしろ並より切れ者だ。お紺さんが思い出してくれなかったら決め手に欠けたままだった。本当に助かったぜ」
染吉を捕まえたと。あれは紺の思い違いではなく、本当に染吉は賊の手先であったのか。
呆然とする紺を置き去りに、それでも乙一郎は語る。
「長年あちこちを転々と押し込みに入っては皆殺しを繰り返す賊があってな。それを辿っていくと、お紺さんの実家に辿り着いた。けどな、あの時はお紺さんと染吉の二人が生き残った。他の事件はすべて皆殺しだ。だからお紺さんの実家のことは繋げて考えちゃいなかったんだが、見方を変えてみれば、もしかするとこの事件が最初だったんじゃねぇかって思えてな」
「さ、最初とは――」
紅を引いていなければ、紺の唇は今、真っ青であったのではないだろうか。血の気が失せても化粧がそれを覆い隠している。乙一郎は神妙にうなずいた。
「お紺さんの実家は染吉が手引きしたわけじゃねぇ。けど、染吉は賊と出くわした時、仲間に入れてくれと頼んだ。そこから奴は賊の仲間となり、今となっては頭として率いるまでになった。お紺さん、お前さんの実家が始まりだったのさ」
「そんな、染吉はまだ子供だったんです。子供が押し込みの仲間になりたがるなんてっ」
徳利を握り締めた指が白く色を失くす。酒が中から飛び出てしまいそうなほどに震えた。その手元を乙一郎は憐れんでいるような目で見ていた。
「奴はずっと笑っていたよ。その方が楽しそうだったから、とな。あれは人の皮を被った化け物だ。狂っているってんなら、最初から狂っていやがったんだ。ただ――」
そこで言葉を切ると、小さく息をついた。目は優しく細められる。そこにはどんな意味があっただろう。
「お紺さんが生き延びたのは、奴がまだ人を殺めたことがなかったせいばかりじゃねぇのかもな。ほんの少し残っていた人の心が、お紺さんのことを殺し損ねたんじゃねぇか。お紺さんとはよく遊んだって奴も言ってたぜ」
「そ、染吉は――」
それしか言えなかったというのに、乙一郎は察した。軽くかぶりを振る。
「もう生きちゃいねぇよ」
数え切れぬほどの悪行の末に潔く散ったと。人の命を容易く奪ったように、自らの命にも執着は薄かったのだろうか。
紺は片手を胸に添え、鈍く鳴る心の臓を撫でるように動かした。夏とは思えぬほどに体が冷えた。これが乙一郎の言う朗報なのか――
心がまるでついていけなかった。
けれど、ひとつだけ。気づきたくもないのに、気づいてしまった。そろりと乙一郎を見遣ると、その顔からは笑みが消えていた。それでも穏やかな目をしているのは、賊を捕まえられたからか。
「旦那――いえ、乙一郎さんは、最初からあたしが押し込みに襲われた家の生き残りだって知っていたんですね。だからあたしの音は恨みつらみを叩きつける音だなんて――」
知っていて知らない振りをしていた。自然に紺から話を引き出そうとしていたのだ。
この男は嘘つきだ。
乙一郎はばつが悪いのか、指で頬を軽くかいた。
「ん、まあ、な。いきなり本題に入っちゃ、お紺さんは何も話しちゃくれなかっただろう」
そうかもしれない。昔のことに触れる者に気を許したりはしなかった。その点、乙一郎は巧みであった。巧みに紺の心へ入り込んだ。
紺は手にしていた徳利を膳に戻した。そうして、改めて乙一郎を正面から見据えた。
「乙一郎さん、お前さまは一体どういう方なんです。越後屋さんってぇのはどこのお店なんですか」
挑むような紺の目を、乙一郎はふわりと笑って躱した。
「聡いお紺さんならもうわかっているんだろうな。察しの通り、俺は店者なんぞじゃねぇ。必要があれば時折こうしてそれらしくしてみるだけだ」
何も察してなどいない。ただ、乙一郎は紺と同じだと漠然と感じた。
昔の傷を抱え、消えない恨みを抱いていた紺と。悪党を憎み、滅べと刃を突き立てるような激情が内に眠っている。
しかし、この男は果たして〈善〉なのか。その線引きが紺にできようはずもない。
ただ、わかることは、今日を境に乙一郎は紺の前に現れるつもりがないということ。
「乙一郎さん――」
この名は、この男を示すものであるのだろうか。それすら不確かだ。
それでも、この名でしか呼べぬのだ。紺は精一杯の熱を込めて名を呼び、乙一郎を見つめた。
恨みはもういい。染吉のこともただ悲しいだけだ。
もう忘れてしまいたい。
忘れさせてほしい。
それでも、乙一郎への想いは捨てたくないのだ。
「またあたしに会いに来ておくれになりますか。あたしは、お前さまのことが――」
最後の願いを込めて乙一郎を見つめると、紺の目からはハラハラと涙が零れた。こんなにも己が弱い女子だとは知らなかった。
乙一郎は眉根を寄せ、そうして嘆息した。それから顔を上げると軽く笑う。
「なあ、お紺さん。俺は客なんだ」
「あい」
「お紺さんは芸者だ。不見転なんぞするもんじゃねぇよ」
客と枕を交わすような芸者は、仲間内から恥さらしと爪弾きにされ、その土地にはいられなくなる。そうだとしても、紺は乙一郎と二度と会えないよりは繋がりがほしかった。どんな覚悟であってもできる。
それを乙一郎はわかっていて、あえてわからぬ振りをするのだと思えた。
「お紺さん」
紺が手の甲で涙を拭うと、乙一郎の顔が近づいた。
「仕合せになりな」
慈しむような柔らかな眼差しであった。けれど、そこに慕情はない。
仕合せになれと。仕合せにしてやるとは言ってくれない。
思えば、この男は紺に指一本触れなかった。それは最後まで変わらぬことだった。
去りゆく背を追えないのは、やはり紺の手に負える相手ではないと痛いほどにわかってしまうからか。
最初から、乙一郎の描いた筋書き通りにことが運んだに過ぎない。
紺はそれでも芸者である。
三味線を弾かねば食ってもゆけない。けれど――
紺が奏でる音は腑抜けた音であった。置屋で、ひとつの調子をただひたすらに弾いてみる。新造が弾く菅掻よりも拙い。
以前のような、恨みを込めた音はもう出ない。もう生きてはいない染吉に怒りなどぶつけようもない。愚かだとは思うが、生まれつきか真っ当な心根を持てなかった染吉を憐れに思う気持ちもある。
そうして、乙一郎を想って弾くこともできなかった。あの男は、あの場限りで作り出された幻だ。その幻に焦がれた己がただただ虚しく、惨めであった。
乙一郎は、紺の家族の仇討ちをしてくれた。無念のままに死んだ家族は感謝しているかもしれない。
しかし、乙一郎は紺から音を奪った。
晴れた恨みの末に、紺の手には何も残らない。この空虚は音を濁らせる。
紺は撥を添え、三味線を横に置いた。
憎しみが晴れれば、人は仕合せになれるか。
――いいや、そんなことはない。
乙一郎はそれを知らない。恨みつらみが紺の生きる張り合いであったと。
代わりとなるものを得られなかった紺は抜け殻である。
それでも、仕合せになどなれるだろうか。
「ねえ、乙一郎さん――」
二度とはまみえぬ相手に問いかける。
――両国柳橋。
この界隈には狐芸者と呼ばれ、評判を取った芸者がかつて、いた。
〈了〉




