参
その夜、紺は眠りにつく前までずっと乙一郎とのやり取りを思い起こしていた。胸の奥にぽぅっとぬくもりが残っている。それを大事に抱くようにして紺は置屋の布団の上で目を閉じた。
実家で起きた押し込みのことをもし何か思い出したなら、それをまた乙一郎に聴いてもらうところだが、生憎と思い出せるとは思えない。これまで思い出したことなど何もないのだ。きっと無理だ。
それに、思い出しても今さらで、黄泉の客となった家族も帰らない――
紺は眠っていた。そのはずが、起床するにはまだ暗い時分にハッと目を覚ました。何故ここで目が覚めたのかもわからない。けれど、目覚めた途端に頭が痛んだ。あの時、殴られた傷はもう癒えた。傷跡も残ってはいないのに、そこがいつまでも痛むようだ。まるであの頃に戻ったかのようにして。
紺は横になったまま頭にそっと触れた。あの時、殴られた後は頭がぼうっとしていた。けれど、殴られる前はどうだったのだ。幼い上に悲しみのあまり、色々なことを突き詰めて考える気力もなかった。
紺は姉と同じ部屋で寝起きしていた。あの時、姉はどこにいたのだろう。
――あんたは隠れていなさい。
急に、紺の頭に蘇ったのは、姉の声。姉芸者ではない。実の姉の紅だ。見目は特別美しいというほどでもなく人並であったものの、芯の通った聡い姉であった。
ああ、違う。姉がどこかへ行ったわけではない。紺が隠れたのだ。押し入れの中に。
ガタガタ、ゴトゴト、押し入れの向こうで荒い物音がした。悲鳴らしきものは近くではしなかった。それは、紺が怯えて耳を塞ぎながら縮こまっていたからだ。どれくらいかそのままでいた。
カタ。押し入れの戸が、開いた。
――お紺お嬢さん、よかった、こんなところに。もう安心でございますよ。
――本当に、もう出ても平気なのね。
――ええ。かくれんぼはお終いです。
暗かった。見えなかった。
けれど、押し入れから四つん這いになって這い出てきた紺に何かが振り下ろされたことだけはわかった。
それが最後だ。
紺は身を起こし、口を押えながら震えた。
「そ、染吉――」
奉公に上がって二年目くらいであったが、物覚えがよく、機敏で父も母もよく褒めていた。丁稚奉公はつらく、逃げ出す子供も多いものだが、染吉はきっと立派に勤め上げ、手代、それから番頭にまで行きつくだろうと言われるほどにできた子供であった。自分よりも幼い紺のこともよく気遣ってくれ、紺も懐いていた。
その染吉が紺を殴ったのだ。しかし、昔のことであるから、紺が勝手に勘違いしてそれが真であったかのように錯覚しているだけなのかもしれない。そう考えた方が帳尻が合う。
まだ子供だった染吉が強盗の手先のようなことをすると考えるよりは、ずっと。
それから数日、紺は座敷には上がれなかった。頭が割れるように痛く、吐き気がした。
あんなものは違う。違うはずだ。
染吉はあれからどうしたのか。紺は騒動の後、染吉には一度も会っていない。それどころではなかったのだ。生き残った染吉は憐れにも気が狂ってしまって、まともな受け答えもできないと伝え聞いただけである。
しかし、これが何を意味するのか、紺には判別できなかった。床に伏し、これを独りで抱えている苦しさといったらなかった。
乙一郎に会いたかった。あの目に見つめられながら話したい。この苦しさを聴いて、受け止めてほしかった。
三味線の音ではない。紺の声を、想いを聴いてほしい。他の誰でもないあの男に。
ようやく床を抜けた紺が見番から聞いた話によると、乙一郎は何度か紺を呼ぼうとしたそうだ。伏せっているからしばらく待ってほしいと伝えたとのこと。乙一郎が紺に会いたがってくれたと思うと、疼いていた胸がほんの少しの間、痛みを忘れた。
紺がその顔を見られたのは、翌日のことだった。
「お紺さん、伏せっていたそうじゃねぇか。もういいのかい」
そう言って、紺のことを案じてくれる。それが堪らなく嬉しかった。
「お待たせしてしまってあいすみません。あたしはもう平気です。ただ――」
撥を握った拳を膝に添え、紺は乙一郎の目を見た。珍しく乙一郎の気が張っているような気がした。乙一郎には紺の気持ちがすぐに伝わる。
紺は守られている。今、紺の心が暗く渦巻く地の底へ引きずり込まれずにいられるのは、乙一郎がこうして紺のことを気に留めてくれているからだ。守られていると、紺は感じることができた。紅を引いた唇を開き、紺は深く息を吸って語り出す。
「あたしは思い出そうとするあまり、勝手にお話を作っちまったんじゃないかって思うような莫迦なことを、まるで見てきたみたいに感じるんです」
乙一郎は形のよい眉を顰め、真剣な目をして先を促す。
「そいつぁ一体どういうことだい」
他の誰かにはこんなことを話せない。けれど、乙一郎ならば、そんなものは悪い夢だから忘れてしまえと言ってくれるのではないか。紺がそれを望んでいただけなのかもしれないが、そう思っていた。
だから、言ったのだ。
「あたしと一緒に生き残った丁稚の染吉が、あたしを押し入れから見つけ出して殴った――そんなこと、あるはずがないのに。染吉は恐ろしさのあまり気が狂ってしまったっていうのに。どうしてあたしはそんなわけのわからないことを思い込んじまったんだか――」
あれから、紺の思い出の中の染吉は残忍な笑みを見せるようになった。前髪の、幼さの残る顔が歪むのだ。そこに紺が懐いていた利発な染吉の俤はない。
長いこと会っていないからだろうか。そのせいでこんなひどいことを考えてしまうのか。
紺が苦しくなって胸元を押さえると、乙一郎の落ち着いた声がした。
「そうか」
短く言い、神妙な顔をしてうなずいた。紺は乙一郎のその反応に肩透かしを食ったような、なんとも言えない心持ちがした。戸惑いが顔に出ていただろう。目を瞬かせている紺に乙一郎はようやく優しい笑みをくれた。
「よく思い出したな、お紺さん」
「い、いえ――あれは、あたしの思い違いで――」
途切れ途切れにつぶやく。けれど、乙一郎はゆっくりとかぶりを振った。
「いいや、それは本当に起こったことだろうよ。そう考えれば何かと辻褄が合う」
辻褄が合うとは何だ。紺と染吉だけが生き残ったことか。
子供だった染吉が押し込みの手引きをしたとでも言うのか。気が違ったなどというのは振りだけだと。そんなことがあるだろうか。
「お紺さん、その丁稚の染吉、見てわかる特徴はあったかい」
特徴と言われても、ほっそりとしていて年の割には背が高く、顔立ちは穏やかでこれといって目立つところはなかった。そもそも、子供の頃の染吉しか知らぬのだ。前髪も落とし、名も改めていれば、紺はもう染吉と会ってもそれと気づかぬことだろう。
けれど――
紺は染吉に懐き、よく遊んでもらっていた。遊びすぎて疲れたと言っては染吉に負ぶってもらっていた。その時、いつも目に入ったのは、染吉の左耳の裏の黒子だ。鏡でも見えないのだから、自分ではそんなところに黒子があることも知らぬのではないだろうか。
「ひ、左耳の裏に黒子があったくらいしか覚えちゃおりませんが」
「いや、助かる」
乙一郎はニッと獲物を前にした獣のようにして笑った。
その目は、いつもの沼のように奥の深い目とは違った。ギラギラと光り、火が灯ったようだ。そこにあるものは、なんだろうか。あれは、紺と同じではないのか。恨みつらみを音に乗せ、叩きつけるように三味線をかき鳴らす紺と同じ、今にも爆ぜてしまいそうな心が目に表れている。
この男は、一体なんなのだろうか。それを改めて考えた。
紺にわかるはずもない。
「お紺さん、悪いが今日はこれまでだ。また来るが、今度は少ぅし間が開くかもな」
「え――」
取り繕うこともできず、紺は素の声を漏らしていた。早々に座敷を去るとは、何か気障りだったのだろうか。紺の不安を乙一郎は察し、白い足袋を履いた足で流れるように歩むと、紺のそばに膝を突き、懐から包んだ祝儀を紺の手前に差し出した。
「なあ、お紺さん、楽しみに待ってな。今度俺がお紺さんを呼ぶ時には、きっといい報せがあるぜ」
「それは、一体――」
ニヤリ、と笑って乙一郎は去った。
取り残された紺の耳には別の座敷の賑わいが聞こえてくる。これもまた、夢だろうか。
今日、乙一郎がここにいたことが幻のように思えてくる。この祝儀も木の葉に変わってしまうのではないか。それくらい、狐につままれたようであった。




