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狐芸者  作者: 五十鈴 りく


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2/4

 その二日後、乙一郎は本当にまたやってきた。

 あの日と同じで、紺だけを座敷へ呼びつける。困った客のはずが、見番は断りもしない。やはり金離れがよいのだろう。玉代や祝儀を弾んでいくのなら文句のつけようもないのか。

 乙一郎が所望するのは、相変わらず紺の三味線だけ。


 紺の音を重いと言った。恨みつらみを込めて弾いていると。

 ――乙一郎の言葉は正鵠を射た。紺の三味線は、紺の怒りの表れなのだ。


 厳しくも優しかった両親、姉、奉公人たち。何不自由ない暮らしがすべて奪われた。

 寝間の布団は血を吸ってひどい有様であったという。惨たらしいことをする。人の心があれば、そんなことはできない。押し込みは人の所業ではない。最早畜生にも劣る外道なのだ。


 紺の音色は、奪われた命と暮らしを思い、その理不尽さに怒るからこそ出るものだった。力強く、しなる弦を叩いて叩いて、それでも癒えない心が悲鳴を上げる。自らをも痛めつけるように弾き続ける。


 この撥が刃であったなら。目の前に押し込み強盗がいたならば、紺は躊躇いなく刃を突き立てる。それができないもどかしさを三味線が紛らわせてくれるのだ。

 だから、紺の音は重く、鬼気迫る。

 聴いていて心地よくはないだろう。酒席宴会には合わぬ音だろう。

 それなのにどうして、乙一郎は紺の音を聴きたがるのやら。


 茶々を入れることもなく、それは真剣な目をして紺を見ている。それだけは三味線をかき鳴らしながらも感じ取れた。あの目は嫌いだ。笑っているようで、笑っていない。あんなのは偽りだ。奥が見えない。黒い沼のようで不安になる。


 弾き終えると、汗が一気に噴き出す。それは力を出し尽くしたせいばかりでもない。どこか冷や汗にも似たものが混じっているように思えた。手足が軽く痺れてもいる。

 そんな紺の心を知ってか知らずか、乙一郎は柔らかく微笑みながらうなずいた。


「今日も見事だった」


 本心からの賛辞ではない。少なくとも紺にはそう思えた。

 乙一郎は得体が知れない。越後屋などという屋号はいくらでもある。どの界隈にたなを構えているのか、何を商う店なのか、その越後屋の中でどういう立場なのか――名乗っただけで詳らかにはしていない。


 この場で問うことも出来よう。けれど、紺はそれをしたくなかった。

 座敷は現世(うつしよ)を忘れてひと時の夢を見せる場である。生々しい憎悪を抱えた己が言うべきことでもないが、あれやこれやと詮索するほどの野暮はない。


 訊ねたくない理由わけはそればかりではなく、知りたくないというただそれだけのことであったかもしれない。知っても、ろくなことはない。暴いても、紺の手に負える相手ではないと思うのだ。

 この男こそ狐狸妖怪の類ではないか。そうだとしても紺はすんなりと呑み込める気がする。


「何が見事なものですか。あたしの音は恨みつらみの詰まった卑しい音ですよ」


 だからもう、来なくていい。紺の三味線を聴きになど来るな。

 あの目が嫌いだ。紺の心の奥底を見通そうとするあの目が、どうしても恐ろしい。

 だというのに、乙一郎はフッと笑う。


「この間のことを怒っているのか。初見の客が知ったような口を利くなってな。悪かった」


 そう素直に謝られても困る。紺は乙一郎に気づかれぬよう、袖の下で手にした撥をキュッと握り締めた。

 ただ――と乙一郎はつぶやいた。


「お前さんの何がその音を出させるのか、少ぅし気になったのさ」


 この場に紺の生い立ちなど関りがない。どんな来し方も行く末も、今というこの場とは繋がらない。


「あたしはね、三味線を弾く道具と一緒なんですよ。難しいことはわかりゃしません」


 語りたくないとばかりに言葉を切る。乙一郎は並の男よりも勘が鋭い。それが読めないはずもなかった。


「そうかい。語りたくねぇことを訊いちまったようだ。じゃあ、語らねぇ代わりにもう一曲弾いてくんな」


 怒ったふうではない。顔は微笑んでいる。

 紺は所望されるままに三味線を鳴らした。ぼんやりとした輪郭のない乙一郎の思惑に対する苛立ちも、その音には含まれていたかもしれない。


 ベベン、と最後の余韻が残る中、乙一郎はもういいとは言わなかった。軽口を叩くでもない。ただじぃっと紺を見ていた。紺は、その目を見たくなかった。口も利きたくなかった。もう一度、一から三味線を弾き始める。それでも、乙一郎は止めず、ただ紺の音色を聴いていた。


 それは根競べのようであった。

 いつも以上の激しさを増す音。紺の棹を操る指先が、もう無理だと休みたいと悲鳴を上げていた。それでも、曲半ばで挫けるような無様はさらしたくないのだ。

 激しく弾くせいで弦が伸び、音が悪い。それでもせめて曲が終わるまではと耐えたけれど、次の曲に向かう気力はもうなかった。

 はあ、はあ、と荒く息をして、三味線にしな垂れかかる紺に、乙一郎は微かな笑い声を立てた。


「そんなにも熱く弾いてくれるたぁ、ありがてぇこった。ただし、次からはやめときな。それから、他の男客にもな」


 ろくに喋れもしないほど息を切らせてどうすると、紺自身も思う。愚かだ。けれど、乙一郎といると、心がかき乱されて己を保てない。こんなことは初めてなのだ。


「あい、すみません」


 かすれた声で謝ると、乙一郎は立ち上がった。紺が体を強張らせて身構えた様子を見遣り、仄明るい行灯に照らされた乙一郎は、ゾッとするほど魅惑的な笑みを浮かべた。


「今日はこれで帰る。お前さんは自分の値打ちがよくわかっちゃいねぇな。男と二人、そんなにも息を乱して、肌を染めてちゃ危ねぇよ。芸者は客に転んじゃならねぇからな。手ぇつけたくならねぇうちに帰らぁ」


 カッと、紺の顔がさらに火照る。乙一郎は悪戯っぽく目を眇めてみせると、それから障子戸を開けて出ていった。足音は微かで、それを聞きながら紺は襟をかき寄せるようにして握った。


 あの男は嫌いだ。敵わない。唯一の取り柄であるはずの三味線をもってしてでも紺に酔わない。平然と己を律し、そこにいる。わからない男だ。



     ❖



 乙一郎が来ぬ数日、紺はそれまでと同じように他の芸者と同じ席に呼ばれ、三味線を弾く。その調子に合わせて芸者仲間が躍り、紺は弾きながら唄った。唄いものの時は程よく力が抜け、三味線の音も和らぐ。これくらいがいいのだと思うものの、紺には物足りない。


 そう、乙一郎が最後に来てからすでに五日。

 前に来た時は二日だった。二日後に来たのだ。

 今度は五日経っても来ない。紺のあしらいに腹が立ったのかもしれない。客に対するにしては無礼であった。けれど、それは最初からだ。紺は端から媚びたつもりもない。

 もう来るなと、そう願ったはずなのに。

 待ってなどいない、と己の心に何度も確かめる。


 紺の三味線と、芸者仲間の踊りに客がやんややんやと喝采を送った。愛想程度に笑ってみせるものの、心は乾いていた。賛辞の数の多さだけでは少しも心が揺さぶられることがない。

 それならば、何故、乙一郎だけは違うのだ。あの男の一挙手一投足に弄ばれているような気になる。些細なこと――首を傾げる仕草、くせのある微笑、首を反らせて酒を飲む喉の動き、ひとつひとつが、今でもまさにそこにいるかのようにして目に残っている。声も、いつまでも通り過ぎていかない。


 嫌いなのだ。あの目が、嫌だ。

 もう、このまま二度と来ぬつもりなら、紺と乙一郎が会うことはきっとない。


「――お紺ちゃん、どうしたの」


 席を退けた後、障子戸を閉めてすぐに芸者仲間に言われた。


「なんでござんしょう」


 苦笑した。とぼけたつもりではない。本当にわからなかった。

 姉芸者は頬に手を添え、ほぅ、と息をついた。


「このところ、少ぅし変よ」


 紺が目に見えて変だと言うのだ。それが紺には屈辱であった。おかしいと覚られるほどに乙一郎に翻弄されている己が情けなく、身体中をかき毟りたくなるような衝動が湧いた。それでも、紺は精一杯の笑みを浮かべた。


「あら、あたしならなんともありゃしませんよ」

「そうかしら」


 まだ何か気がかりな様子の姉芸者であったけれど、なまじ付き合いが長いだけに、紺の頑なさも知っている。問い詰めるようなことは言わなかった。




 そうして、その翌日、呼ばれたのだ。乙一郎に――

 もう、ないものと思いかけていた。ひと月ふた月足が遠のいてから再び来る客もいる。たった五、六日開いたくらいで何故そう思ったかもわからない。


 乙一郎はまた小料理屋に紺だけを呼んだ。そうして、三味線を所望する。

 けれど――


 紺の手が震えた。間が空いたせいで多くを考えた。そのせいで弾くのが怖かった。乙一郎は耳聡く紺の音から心を読む。そんな男に、今の己をさらけるようなことをするのが怖くなったのだ。

 気を強く持って、いつもの紺の音を出せばいい。恨みつらみを叩きつければいい。

 じっと、あの沼の闇に似た目が紺を見ていた。この目が見ていると、紺は平素の自分ではいられぬのだ。


 それでも己を奮い立たせ、紺は撥を握る手を動かそうとした。しかし、その途端にあろうことか撥を畳の上に落としてしまった。はたり、と落ちた撥を紺は慌てて拾った。この醜態を乙一郎がどんな顔をして見ているのか、顔を上げるのが恐ろしかった。撥をつかんだ手首をもう片方の手で握り締め、震えを止めようと歯を食いしばる。

 そんな紺に乙一郎の声がかかった。


「お前さんにだって弾きたくねぇ日もあらぁな。今日はいいぜ、弾かなくて」


 労わるような声だった。妙な情けをかけられたことが紺の矜持を傷つける。


「じゃあ、三味線しかないあたしに旦那はどうしろって言うんですか」


 そう言って、紺は乙一郎を睨んだ。子供じみた八つ当たりをしまったと、すぐに恥ずかしくなって顔を背ける。うっすらと目が潤んだ。

 乙一郎はそんな紺に向け、猪口を差し出す。


「じゃあ、とりあえず酌をしてくんな」

「――あい」


 酌くらいならば、と紺は三味線と撥をそろえて畳に置き、しずしずと乙一郎の横に膝を突いた。しかし、これほど近づいたのは初めてのことである。酌くらいと思ったものの、徳利を手にした紺を、すぐそばで穴が空くほど眺めている乙一郎のせいで、ただ酒を注ぐことがひどく難しく感じられた。


 乙一郎の大きな手に収まっている猪口に徳利の口が当たり、カタカタ、カタカタ、と微かな音が鳴る。それが紺の緊張を如実に表しているようでいたたまれなかった。耳まで赤くなってしまっているのではないかと気が気ではない。


 無言で酌を受けていた乙一郎が、なみなみと注がれた酒をクイッと飲み干す。もう一度注ぐべきかと思ったが、乙一郎は膳の上に猪口を戻した。空手になると、またじっと紺を見つめ、そうして言った。


「お前さん――お紺さんが語らねぇとしても、人気者ってぇのは誰かれ構わず噂の種になっちまうんだよな」

「え――」


 初めて名を呼ばれ、息が止まりそうになる。それにもまして、乙一郎の言葉は剣呑であった。紺が身を硬くしたせいか、乙一郎はふと表情を和らげる。


「いや、お紺さんは小せぇ頃、実家に押し込みが入って一家皆殺しにされて、末っ子のお紺さんだけが生き残ったってな」


 そのことかと、おかしなものだが紺は安堵した。その話ならば見番にしてある。芸者仲間も知っている。特に秘密にしてあるわけではない。紺自身があまり語りたくないとしても、他人の不幸は人の口の端に上がってしまうものなのだ。


「そのことでござんすか。まあ、このご時世、取り分けて珍しいこともありませんでしょうに」


 いつもよりも騒いでいた胸の鼓動が、次第に静まっていく。この話をする時はいつもそうだ。不憫だ、憐れだという顔で話を聴こうとする者に対し、紺はいつも冷めてゆく。

 乙一郎は、軽くうなずくような仕草をした。


「よくあると言えばよくあるな。押し込みなんて輩は一網打尽にしょっ引いてもらわなきゃ、俺たち江戸庶民はおちおち暮らしていけねぇや。お紺さんの実家に入った賊は、捕まったのかい」

「いいえ。逃げおおせましたよ。皆、殺されちまいましたし、生き残ったあたしはなぁんにも覚えちゃいないんですから、捜しようがなくて」


 徳利を手に、紺は言った。手の熱が酒をぬくめてしまいそうだったけれど、何も持たずにこの男の隣にいると、どうにも心もとない気持ちになる。

 そんな紺の心など知りもせず、いや、知ってのことか、乙一郎は紺を見ていた。


「覚えちゃいねぇと。小せぇ頃だったからかい。それとも、恐ろしかったからかい」

「さあ。わかりませんねぇ」


 やっと一端の芸者になった今、歳月の重みを感じる。押し込みは遠い昔だ。恨みつらみは消えぬとしても、それをぶつけたい相手の顔かたちを思い浮かべることはできない。そもそも見ていないのだから、それも当然だが。

 奉公に来てくれていた丁稚も生き残ったものの、恐怖のあまり気が狂ってしまったという。

 ふぅ、と乙一郎は息をつく。


「お紺さんの音は、昔の苦しさから来るもんだろうな。なあ、苦しいだろうが、思い出してみな。そうして、昔と向き合ってみると、苦しみの後に何かが得られるかもしれねぇ」

「本当に、何も覚えちゃいないんです」


 それしか言えることがない。何故かそれが寂しかった。

 あの時はこうだった、怖かった、痛かった、そう涙を浮かべてしな垂れかかって気を引くようなことは紺にはできない。

 けれど、乙一郎はそんな紺を労わってくれるのか、そよ風のような優しさを見せる。


「また来るから、お紺さんがその時のつらさを吐き出してぇなら、俺でよければいくらでも聴くぜ。話くれぇは俺にだって聴けるからな」


 そう言ってから、おどけた仕草で軽く両手を上げた。


「もちろん、お紺さんが別嬪だからって弱みにつけ込んだりはしねぇから安心しな」


 そんな程度の言葉は今まで数え切れぬほど受け取ってきた。他の男なら、それで殺し文句のつもりかと冷淡に構えていられた。

 それなのに、乙一郎に言われると初心な小娘のようにして頬を染めてしまう。

 嫌いなくせに。嫌いだったはずなのに。あの目が見ている、そう思うと心の臓がうるさく高鳴るのだ。

 紺はろくに乙一郎の顔も見られず、伏し目がちにつぶやいた。


「――あの、やっぱり今日もあたしの三味線を聴いてくださいな」


 三味線を弾く自分が、きっと一番見栄えがするのではないかと思った紺は、芸者というよりもただの娘でしかなかったのかもしれない。それでも、乙一郎はどこか嬉しそうな声の響きで答えた。


「ああ、聴かせてくんな」


 紺は三味線のもとに歩み、座して構え、深く息を吸って弦を(はじ)いた。

 今宵の音は、いつもと違う。この音は、乙一郎が引き出した音だ。切なく夏夜に響く。

 乙一郎はそんな紺を見つめていた。その目は穏やかであるように感じられた。


 たった半時足らずのことで、紺は乙一郎と心が通ったような気になっていたのかもしれない。そうして、それが音に出る。微笑んで、心地よく紺の音を聴いていてくれるのなら、乙一郎はまたここへ来てくれると紺は思った。それを待ち遠しく思いながら数日を過ごすのだと、今この時から己の心の先が読めた。

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