91 獅子と山羊の半身、毒蛇の尾
スレンが塔の屋上に立った時、すでにジフの姿はなかった。かわりに床の扉が開け放たれており、覗き込むと螺旋階段が下へと続いていた。それほど高い塔ではない。だが下階にジフの姿はないのは見てすぐにわかった。塔の鋸壁から身を乗り出しても、そこには飛び降りるには高すぎる垂直の壁があるだけ。いくらジフが超人じみているとはいえ、実際には超人ではないし、スレンのように魔法で空をと飛べるわけでもない。ならば螺旋階段を下ったと考えるのが妥当だろう。わざわざ呼びかけ、誘うような視線をよこしたのだ。この期に及んで逃げるようなことはしないだろう。スレンは螺旋階段を駆け下りた。
階段の下には何もなかった。扉は前後左右に四つ。とりわけ左右の鉄扉は頑強そうで、大きさもスレンの身の丈の三倍はあるだろうか。前方の扉も木製だが大きく、人ひとりではとても開けられないだろう。だが進むしかない。スレンが前の扉に歩み寄り、強化した両手を扉に押し当てたその時だった。
「ふぉふぉふぉふぉ。よう来たのう」
不意に老人の声ががらんとした塔内に響き渡った。スレンは咄嗟に振り向く。見上げた先、螺旋階段の踊り場のような場所で、小さな扉を背に、魔道師の老人が嘲笑を浮かべながらスレンを見下ろしていた。
「ヘズモント!」
怒りを吐き出すように老人の名を呼ぶスレン。お前があのとき邪魔をしていなければ! 思い出されるのはエルベストルの廃城。
ヨルヤの手を取り、講堂の出口を駆け抜けようとしたあの時、ヘズモントの作り出した石壁がスレンたちの行先を塞いだ。足止めされたスレンは奪い返したヨルヤを再び奪われてしまった。
ジフもエンハスも、スレンにとっては同じ敵だ。だが、彼らとヘズモントでは決定的な違いがあった。
ずっと味方だと思っていた。信じて――いや、疑いすらしなかった。それなのに奴は、裏で自分たちを何度も殺そうとしていた。その事実を知った時、スレンは初めて人を憎悪した。
スレンの激情を一身に受け、ヘズモントはなおも嗤う。
「お前だけは許さないぞ!」
「ふぉふぉふぉ、まあ落ち着け。前の相手は儂ではないわ」
見よ、とヘズモントは杖で左右の鉄扉を指す。それを合図にしてギギギギギィと重たい音が両側から鳴った。咄嗟に身構えるスレン。開いた扉の暗闇からは獣の低い唸り声が聞こえた。ズシン、ズシンと地響きのような足音とともに姿を現したのは、獅子と山羊の半身に毒蛇の尻尾をもつ巨大な化け物だった。背丈はスレンの倍以上、尾の長さも含めれば全長は塔の高さよりも高くなるだろう。それが左右から二頭。ヘズモントは得意げに嗤った。
「流石にそろそろ己の価値を示さんとのぉ。というわけで今回は魔人ではなく合成魔獣キマイラじゃ。楽しんで殺されよ」
鉄扉の暗闇からは酷い血生臭さが漂ってくる。エルベストルの魔人の材料を考えれば、今回のキマイラの素材も自ずと知れるだろう。食べるためにしか殺してこなかったスレンにとっては顔を背けずにはいられない、反吐が出るとはこのことだ。
そう思えば凶悪な牙を剥き出しにして威嚇してくる獣も哀れに見えた。
スレンは剣を握る。キマイラの相手をする前にやらなければならないことがあったからだ。脚力を強化し、跳躍する。そして高みの見物を決め込んでいる老人に迫ろうとした。だがキマイラはそれを許さなかった。毒蛇の尾が、まるで意志を持っているかのようにスレンに襲いかかる。獣特有の靭やかな動きはスレンに回避を許さない。毒蛇の尾は、羽虫を叩き落とすように軽々とスレンを殴打する。
「ふぉふぉ、相手はキマイラだと言っとろうに」
「ヘズモント!」
無詠唱を使えようが極大魔法を使えようが、身体強化を使えようが、打たれ強くなるわけではない。剣を尾に突き立て、しがみついていなければ、スレンは石壁に叩きつけられて死んでいたかもしれない。危ないところだったと自覚すれば、もうよそ見をすることはできなかった。
いくら図体が大きいとはいえ、獣の疾さは人間のそれとは比べ物にならない。如何に元野生児のスレンとて、それは例外ではなかった。むしろ山育ちだからこそ、理解できたことかもしれない。
だから目一杯の魔力を使って身体能力を強化する。キマイラの鋭い牙も、毒蛇の牙も、かするだけでも致命傷になりかねない。すべてを躱し、そしてこちらは致命傷を与えなければならない。リーチも体力も腕力も遥かにスレンは劣っている。だがスレンはちっとも焦ってはいなかった。当たらない方法は躱すことだけではないからだ。
スレンは風属性の魔力を集めた。石壁には土属性の魔力が詰まっていて風属性の魔力は通ることができない。だから魔力の通り道といえば開け放たれた天井の扉や、ヘズモントの後ろにある小さな扉くらいだ。そこから悍ましい量の風属性の魔力が塔内に流れ込んだ。
「なんじゃ?!」
背後からの異様な魔力の流れに驚くヘズモント。
「魔力じゃと!?」
ズシンと塔内に響き渡るのは、防壁に弾かれた毒蛇の尾。風属性の魔力の流れの先にスレンの展開した風の防壁がある。ヘズモントは刮目し、声を震わせた。
「ま、まさかお前!!」
次に背中を通ったのは水属性の魔力。そしてスレンは無数の氷柱をキマイラに浴びせた。まるで効果がない様子に、スレンは火属性の魔力を集めた。
「っ!!」
スレンの放った業火は二頭のキマイラを包み込む。その火力は熱気でヘズモントのしわくちゃの頬を焦がすほどだ。背中を通った火属性の魔力量を鑑みれば妥当な威力。
「お前、まさか、自然界の魔力を使っておるのか?」
炎が晴れ、だがキマイラは健在だった。人間であれば火傷と痛みで悶え苦しむだろう。だが生への執念は獣をさらに凶暴化させる。
「メエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!」
沈黙を保っていた山羊の半身が咆哮を上げた。伸び上がるように立ち上がり、蹄をガツガツと踏み鳴らし、スレンを威嚇する。そして繰り出される大質量の踏み降ろしにスレンの防壁はあっけなく弾け飛んだ。
素早く足元に潜り込んだスレンはそのまま背後に滑り込み、厄介な毒蛇の尾を切断する。流石にのたうち回るキマイラ。それに気を取られたのが、もう一頭の致命的なミスだった。
スレンを捉えていたのが耳ではなく、目だったなら、そうはならなかったかもしれない。スレンの作り出した四本の氷柱が、健在だったキマイラの両目に突き立てられた。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
だがまだ尻尾の毒蛇に目がある。毒蛇が股の間をくぐり、スレンを捉えようとするが、そんな体勢で飛び回るスレンに対応できるはずもなく、スレンの影を捉えた次の瞬間に、腹部に痛みが走り、それに気を取られている間に、蛇も切断されてしまった。
トドメをさすと、ヘズモントは思っただろう。だが、両方の毒蛇を切り落とした今、スレンがもっとも優先したのはヘズモントの殺害だった。
まるで優雅に階段でも登るようにヘズモントの立つ踊り場へ跳躍するスレン。
ヘズモントが何か発しようと口を開いたが、声になるより先に、スレンのエストックが彼の胸を貫いた。
「カハッ」
喀血し、魔道師のローブに斑模様が滲む。
崩れ落ちる老体から剣を抜き取ったスレン。気味な笑みを浮かべたまま絶命したズモントの顔を一瞥した後、悶え苦しむ二頭のキマイラに向き直る。
「今、殺してやるからな」
その声は、なんとも憐れみ深いものだった。




