63 ニーザ平原の戦い
国境都市セリクシアにもモール商会の支部はある。国境沿いに位置する都市だけあって、今度の戦争に関する情報は、今まで立ち寄ったどの都市の支部よりも詳細に集められていた。曰く、イニピア軍はすでに進軍を開始。予定通りニーザ平原を目指しているとのこと。シフォニ王国軍も戦支度を整え、数日以内にニーザ平原西端に布陣するべく出発する予定らしい。モール商会セリクシア支部では、戦後需要に備え酒と包帯をしこたま仕入れている最中なのだそうだ。
数日間の野宿に耐えられる準備をすませた三人は、避難を装い都市を出発。街道をしばらく西に進んだ後、北へ折れてニーザ平原へと向かった。
そして五日後。様々な時代の様々な身分の戦士たちの白骨死体が転がる戦場に、ついに両国の軍勢が姿を現した。
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ニーザ平原は北部が森に隣接している平坦な地形で、あまり高低差はない。会戦をするにはもってこいの場所となっている。だから度々戦場として選ばれてきた。錆びついた剣や白骨死体がそこら中に転がっているのはそのためだ。白骨死体といえば原色地だが、両者の決定的な違いは、死体が盗賊や野生動物に荒らされているか否かだ。原色地のそれとは違い、ニーザ平原の死体は装備品が綺麗に剥ぎ取られているうえに、骨もバラバラに散らばっていて、どれがどこの誰の骨か判別することはできない。数多くの武勇伝と、同じくらい多くの怪談が生み出された悍ましい草原に、シフォニ・イニピア両軍は対峙していた。イニピア王国軍約一万五千に対し、シフォニ王国軍約二万。数の上ではシフォニ王国軍が優勢だった。
スレンたちは平原を臨む森に身を潜めていた。
戦場を俯瞰しているわけではなく、横から見ているので、両軍合わせて三万五千と言われても、そんなにいるようには見えない。けれど戦列からまばらに旗が掲げられていることから、見かけだけではなく、しっかりと厚みのある方陣であることが窺えた。
戦力の九割以上が民兵であれば、前列も後列もみんなが恐怖に震えている。そんな自分を鼓舞するように、馬上の騎士の号令に合わせて声を上げた。盾を持っている者は武器で打ち鳴らし、無いものは軽鎧を叩いて音を鳴らした。ひとりでは虚勢を張っているようにしか見えなくても、万を超える軍勢とあればそれは自分たちを奮い立たせるだけにとどまらず、敵を威嚇するのに十分な迫力を演出することができる。
「はじまるわよ」
空に轟く両軍の怒号に圧倒されていたスレンは、冷静なアターシアの声に呼び覚まされた。
「よく見なさい、動くわ」
アターシアの言ったとおり、すぐに戦場は動き出す。先に前進したのはイニピア軍の方だった。盾や鎧を打ち鳴らす音に加え、前衛数千人の大行進はあまりにおどろおどろしい音を戦場に響かせる。
想像を絶する光景を前にスレンは酷い頭痛に苛まれた。戦争の発端はたったひとりの死だ。それはただのきっかけに過ぎなかったのかもしれない。けれど、その裏に何があろうとも数万人が殺し合う理由になり得るだろうか。なり得たからこそ、今まさに殺し合いが始まろうとしているわけだ。その事実にスレンは怒り震えた。そして絶対に止めてやると決意を新たにする。人間とは、社会とは、こういうものなのだと、言われるがままに納得してきたスレンだったが、この時初めて社会に対して思想というものを持つに至った。それは感情に身をまかせただけの稚拙なものなのかもしれない。道理も論理もあったものではない。酷く原始的で恐ろしく短絡的で、しかし呆れるほど純粋な思想だった。
スレンは上空に向けて両手を掲げた。集めるのは土属性と火属性の魔力。膨大な魔力の濁流が上昇気流のように大地から立ち昇る。急激に魔力を失っていく大地から虫たちが群れをなして逃げ出した。捕食者たる蟷螂や蜘蛛も、それらを天敵とする飛蝗や蝶も、この時ばかりは隣り合って争うことはない。戦場から突進してくる虫たちに人間たちは驚き慄くばかり。靴を履いては大地の様子もわかるまい。軍馬でさえ蹄鉄を履かされていては怯えて前足を踊らせる程度だ。そこはかとない不気味さを感じ取りはしても誰も真相に辿り着くことはできなかった。空が奇妙な光に包まれるまでは。
戦場となるニーザ平原の上空に突如として現れたのは赤と茶の光。焦点が合うように徐々に光は形を明確にしていく。やがて、その場にいる誰も見たことのない幾何学模様が空一面に広がった。
空を指差し、何だあれはと驚く声が両陣営から上がった。そしてその幾何学模様を突き破って、真っ白に燃え盛る巨大な岩石が姿を現した。
ラベンヘイズでジフに襲われた時、燃える岩が出現したのはただの偶然だった。大地には土属性が豊富で、さらにその場所が火属性の原色地付近だったことが重なっただけだ。だが今回スレンは意図してそれを生み出した。
昔、ズウラから聞いたことがある。空に流れる光の線の正体は、白く輝くほどの炎を纏った巨大な岩なのだと。
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スレンが、今よりもずっと小さかった頃だ。
「ねえ、ズウラはその流れ星を見たの?」
四つん這いに身を乗り出し、丸い瞳を輝かせて話の続きをせがむスレンに、ズウラは呆れたような笑みを浮かべ答えた。
「そうだね。あれは真夜中のことだった。鈴虫たちの歌声に耳を傾けていると、突然鳥たちが喚き散らすように鳴き始めたから、何事かと思って顔を上げたんだ。すると雲が真っ赤に燃えていて、そのおどろおどろしい雲の中から光が突き破ってでてきたんだ。まるで昼間のように空が明るくなって、太陽が落ちてきたのかと思ったくらいだったよ。それなのに、不思議なことに森はすごく静かだったんだ」
「鳥や虫たちは?」
「さてね、どこかへ逃げたのか、それともじっと隠れていたのか。とにかく風の音も聞こえないくらい静かだった。けどね、それは一瞬のうちだけさ。静けさに空恐ろしくなって辺りを見渡した瞬間、ものすごい音が森を揺らしたんだ。今まで聞いたことのない、まるで空が引き裂かれるような轟音だったよ」
「それでそれで??」
「ふふ。光は空を流れ、やがて辺りに青黒い夜が戻った時、また一際大きな音がして、光が大地に落ちたのだということがわかった。私は慌てて駆けつけたよ。そしたら大地に丸い穴が開いていたんだ」
「穴? それだけ?」
がっかりしたように身体を起こすスレン。しかし、すでにスレンはズウラの術中にハマっていた。
「穴と言っても、お前が黄昏の森と呼んでいるここよりもずっと大きな穴だったよ」
そんな大きな穴など見たこともないと、スレンは再び目を丸くした。
「それに抉られた土で周囲が盛り上がり、その丘を超えてようやく穴を見ることができたんだ。裾は崖のように切り立っていてね、中心には光の正体が燃えていたよ」
「何? 何が燃えていたの?」
「岩さ」
「岩?」
「そう。お前の知ってるあの岩だ。だがね、とても大きな岩だったよ。後ろの千年樹の幹よりも大きな岩だった。それが真っ黒に焼け焦げていたんだ」
「まさかそれが流れ星の正体? 空に岩が浮かんでいるの??」
昼間は燃えていないのだろかと、その次の日、スレンはずっと空を見上げていた。
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結局、空に浮かぶ岩を見つけることはできなかったが、流星が地面に落ちると、とても大きな穴ができることがわかった。それをジフに襲われたラベンヘイズであの燃える岩を見た時、思い出したのだ。
岩がなければ作ればいい。スウラの話しに聞いた通り、思わず目を眇めるほどの炎を纏った巨岩。それが五つ、両軍のちょうど中央に落下した。




