45 それはそれ、これはこれ
「フィールド……なに?」
嬉々として使用人たちに旅の支度を指示しながらアターシアは、驚きのあまり目をパチパチさせているスレンに答えた。
「フィールドワーク。原色地へ行くわよ。そうね、今度は東、ラベンヘイズに行こうかしら」
答えを得たスレン。意味はわかったが、訳がわからなかった。
「ちょっと待ってアターシア! おれ、謹慎なんじゃないの? おとなしくしてろって、言われたばかりなんだけど」
スレンが訴えると、アターシアは忙しそうに研究資料を鞄に詰め込む手を止めて、事もなげに言ってみせた。
「それはそれ、これはこれよ。せっかく時間ができたんだから、あの五週間を取り戻さなくっちゃね。それに謹慎のことなら大丈夫よ。別に遊び歩くわけじゃないんだから。後見人の研究に同行するだなんて、これ以上殊勝な謹慎態度はないでしょう?」
「でもそれって、謹慎してたとは言わないんじゃ……」
謹慎という言葉には、言動を慎むという他に、外出を控えるという意味もある。この点、スレンの言い分はもっともなことだった。だがアターシアは「それはそれ、これはこれ」という手前勝手な理論を覆すつもりはないらしい。
出立の準備もせず、いつまでも苦言を呈し続けるスレンに、アターシアは少し苛立った様子で、
「あんた、いつの間にそんな常識人になったの」
と難癖をつけた。
「おれ、また怒られるの嫌だよ」
結局、それに尽きるのだ。しょぼくれたスレンに、アターシアは笑う。
「大丈夫よ。私が良いって言っているんだから。もし誰かから怒られたら、後見人に無理やり連れて行かれたって言えば良いのよ」
そう言われてしまえば断る理由がなくなってしまう。ミルレットの件といい、ままならないことばかりだと、肩を落としたスレンは辟易としながら準備のために自室へ戻るのだった。
□
街道を行く馬車は揺れる。当然、なかのスレンも揺れていた。彼にとって何度目かの馬車だったが、相変わらず好きにはなれない。自分の足で走ったほうが速いのだから。遅い上に揺れる。小窓から覗いている街道沿いの長閑な田園風景が唯一の慰み物だ。
「何見てるの?」
視界外からかけられた声の方を見ると、向かいに席に座るアターシアが。アキュナは隊列の護衛をしている。
「前に、カロア村に来たときは、アターシアとアキュナ、それにヨルヤとスレーニャの四人だけだったよね」
なのに今回は、馬車一台と荷馬車が二台の大所帯だと、スレンは問う。自分たちが乗る馬車の他に、使用人たちの乗る荷馬車、護衛の冒険者たちが使う荷馬車だ。護衛も馬だけで四騎、隊列を囲むように布陣している徹底ぶり。
「あの時は今回以上の規模だったわよ。夜だったし、あんたが見てなかっただけじゃない」
「でも、部屋を借りたのは四人分だけだった」
「公爵家のヨルヤを野宿させられないでしょ。集落のない道中ならまだしも」
「ふーん。でも護衛はこんなにいらなかったんじゃないの?」
「盗賊はあんたが全滅させたけど、危険な野生動物や、稀に出没する魔獣は危険だわ。あと、護衛は私たちのためじゃなくて、同行する使用人たちのためのものよ。私の護衛はあんたとアキュナだけ」
なるほどと納得しつつもいまいち釈然としないスレン。自分もアターシアの護衛だというのならば、どうして一緒に馬車に乗っているのだろうか。荷馬車ならば、なにかあればすぐに飛び出せるが、こうガッチリと扉が閉められている馬車では、いざという時に身動きが取れないではないか。
その疑問は、アターシアの次の言葉で氷解する。
「さて、それじゃあ、いくつか質問に答えてもらおうか」
とても、とても満足そうなアターシア。
「研究?」
「そう。フィールドワーク、研究旅行。もちろん道中も無駄にはしないわよ」
思わず溜め息を吐きそうになるスレンだが、研究に協力することが、自分に求められる役割とあればそれには答えたいと思う。
「それで、何が聞きたいの?」
「新しいことはあまりないんだけど、あんたもここでの生活にだいぶ慣れてきたみたいだから、確認の意味も含めて、もう一度聞いておきたいことがあるの」
確かに、とスレンは相槌を打つ。アカデミーで教わる魔法は、アーグ教という宗教に深く関わっている。呪文は、もともと神への祝詞だったし、そもそも魔法とは神の加護を得て発現させるものだ。信仰とは、アーグ教とはなんぞやと、それを知る前と後とでは、同じ質問でもまた違った答えになるのではないか。旅先、盗聴の心配をしなくても良い今、無詠唱だの自然界の魔力を使うだの、普段できない内緒話をするには絶好の機会だった。むしろこれが今回の主なる目的なのでは? と、スレンが疑うくらい嬉々としてアターシアは口を開いた。
「まず最初。あんたには信仰がないのよね?」
「ないね。一応、食事のお祈りなんかはしてるけど、神さまに祈ったことはないよ」
と、しかしスレンは思い出す。
「あ、でも、魔法実技の時、呪文をちゃんと唱えたら、うまく魔法が使えたんだ。信仰がなくても加護がもらえるのかな」
スレンは口元に拳を当てて考え込む。神さまは実在するということなのだろうか、と。相対するアターシアは目を丸くして、そして、無意識の内に破顔した。そうだ、こういう会話を求めていたのだと、彼女は歓喜していたのだ。
「自然界の魔力を使うときは、呪文がなくてもバッチリなんでしょう?」
「そりゃ、属性そのままで使えるからね。でも自分の魔力を使うやりかただと、属性を変えるために加護をもらわなきゃならないんだ」
思い出したようにスレンは続ける。
「自分の魔力を使うやりかたでも、力を強化する魔法は呪文を唱えなくても使えるし」
「自己強化の魔法なら魔道騎士たちが使っているわね。けれど、やはり呪文は唱えなくちゃだめだわ」
「属性の変換がないのに?」
「魔法の発動自体に加護が必要――」
――だもの、と言いかけたアターシアは、スレンを見てとっさに末尾を変える。
「――と、されいるもの」
と、されている、ね。アターシアは思考する。
スレンの話を勘案すれば、ひとつの仮説を立てることができる。呪文には魔法の発動に必要な効能は無いというものだ。ということは、呪文から魔法の発動に関する部分を取っ払っても問題はないということだ。さらに突き詰めれば、呪文の改変が可能なのであれば、他の部分でも――それこそ属性の指定に関する部分でも、本質さえ掴んでいれば既存の定型文を言い換えてしまっても、問題はないということにならないだろうか。
「そうだよね……そもそも詠唱学なんて言って、ちょっとずつ変化してきたんだから」
詠唱学の発展によって何度か更新されてきた呪文だが、それは、偉い神官や魔道師たちが顔を突き合わせて何年間もの協議の末になし得た偉大なる成果だ。今のアターシアにしてみれば、偉い学者だとか、何年間という期間だとか、そんな要素は関係ない。言い換えることができるという結論だけが重要だった。
野営地に到着したアターシアは、使用人たちに野営の準備を指示すると、いそいそとその場を離れた。付き従うはアキュナとスレンのふたり。スレンが、馬車のなかでのやりとりをアキュナに話すと、彼女は心配そうにアターシアに尋ねた。
「貴女だってアーグ教徒でしょう」
とても敬虔とは言い難いが、それでも信仰に逆らうようなことは、けっして褒められたことではない。
ずんずん進むアターシアは、ぴたりと足を止める。そしてくるりと振り返り、
「それはそれ、これはこれよ」
と、あっけらかんと言い放ったのだった。