44 呼び出し
スレンたちの偽装は完璧だった。いや、完璧だと、スレンたちは思っていた。出入り口の書架をずった跡も消したし、埃の上を歩いたときにできた足跡も消した。もちろん、不気味な研究室で触った場所も元に戻した。秘密も守られている。
ならば今、スレンがアターシアに連れられて彼女の師であるヘズモントの研究室へと向かっているのは何故だろうか。
また別の案件だろうか。だがスレンの暗い顔は、その希望的観測を否定していた。
スレンは、すでにアターシアから要件について聞かされていたのだ。
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それはスレンたちが不気味な研究室を発見して、ほんの三日後のことだった。スレンは、アターシアの研究室に呼び出されていた。
「あんた、王女殿下と組んで何やってるのよ。それにヨルヤ・ファーロラーゼまで」
スレンが研究室に入り、後ろ手に扉を閉めるなり、出し抜けにアターシアに叱りつけられた。だがこれには反論せざるをえないスレン。
「ちがっ、おれは巻き込まれたんだ!」
スレンの必死さが効いたのか、アターシアは意外にも素直に、さもありなんという表情を浮かべた。
「ただ、しでかした事実は変わらない」
これには反論できない。
「だから、あんたにはアカデミーから罰がくだされる」
「罰?」
「そう。それを今から受け取りに行く。ついて来なさい」
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と、こんな経緯があって今に至る。
スレンが案内された部屋の前で立ち止まると、アターシアは高級感ただよう複雑な細工のなされた木製の扉を叩く。入室の許可を得たことでアターシアは扉を開けるが、スレンの足は酷く重かった。過去、自分たちと同じように、ある生徒が研究室のことを探っていたらしい。そしてその少女は何者かによって殺されてしまった。そんな話を聞いていれば、それは足も重くなろう。なにせこれから罰を受けるというのだから。まさか殺されるなどということはないだろうけれど……。
半ば戦々恐々としつつも、スレンはふかふかの絨毯に一歩、足を踏み入れるのだった。
そこはアターシアの研究室よりも薄暗く、しかし整頓されていて落ち着いた雰囲気が漂っていた。窓の雨戸は閉じられている。なるほど、まだ昼間だというのに薄暗いのはこれのせいだろう。
部屋の中にはふたり。ヘズモントと、そして彼の護衛騎士だ。
「ラハベリクという。こやつのことは気にせんで良い」
この部屋にあって騎士は彼一人。護衛のためとはいえ武装した明らかに物々しい存在にスレンが目を奪われていると、執務机に座る老人に長椅子に座るように促された。
なにやら作業をしている老人をしばらく待つスレンとアターシア。やがて老人が「よっこいせ」と難儀そうに向かいの長椅子に座ると、スレンは丸くなりかかっていた背筋をピンと伸ばした。
「さて、儂はそこの、アターシア・モールの師であるヘズモント・レンネタークじゃ。話くらいは聞いておるかの?」
スレンは首を縦にふる。
「ふむ。これでもアカデミーでは一応、要職についておってな、お主の後見人の師ということもあって、罰を下すついでに顔くらいみてやろうと思って来てもらったのじゃ」
この部屋に入る前からわかっていたことだが、改めて罰という言葉をきくと、いささか反応が敏感になってしまうスレン。緊張を解そうとしたのか、ヘズモントはそんな少年に、好々爺然とした笑みを見せた。
「罰と聞いて臆したのか? 聞いていた話とはずいぶんと印象が違うのぉ。アターシアに何を吹き込まれたのかは知らぬが、そう身構えるでない」
何も吹き込んでなど、とでも言いたげなアターシアの苦い顔はふたりには見られない。だがヘズモントの後ろに立つラハベリクにはしっかり見られていたようで、彼女は羞恥のあまり慌てて取り繕ってみせた。
「最初に沙汰を言い渡す。二週間の謹慎じゃ」
「謹慎?」
「おとなしくしておれということじゃ」
スレンは納得できなかった。イケナイことをしていたのはあの研究室の持ち主であって、自分たちはそれを発見しただけだ。それなのにどうして自分たちは罰を受けなければならないのか。
「あの……」
「なんじゃ」
眇めるように片眉を上げるヘズモント。
「おれたち、怒られるようなことは何も……」
スレンの言葉は、他のふたりにとって予想外のものだったのか、アターシアは訝しげな表情を浮かべ、ヘズモントは不思議そうに首を傾げた。
「お主はあのふたりと出会って間もないからのぉ、巻き込まれただけなのやも知れぬが、それでもあのような忌々しい研究に加担した罪は免れ得るものではない」
まさに青天の霹靂。寝耳に水。
ミルレットと……もしかしたらヨルヤも、つるんで自分を騙したのか? あの研究室の所有者は彼女たちだった?
しかしスレンには信じられなかった。あの不気味な研究室を発見した時のふたりの表情に、不自然さは少しも感じられなかった。ふたりが自分を騙そうとしているだなんて考えすらしなかった。驚愕と、恐怖と、嫌悪と、そして少しの好奇心が混ざった言動。あれが嘘であるならば、スレンは人間になることを諦めなくてはならない。あるいはそれほどまでにふたりの仮面は完璧だったのだろうか。
「まさか、あのふたりが、そんなことあるはずないっ…………です」
「あの研究は異端そのものじゃ。発見したならばアカデミーの報告すればよい。なぜ秘匿したのか」
「そっ、それは……」
関わることを恐れたからだ。真の所有者からの報復を恐れたからだ。
「研究が危険なものだとうことは自覚しておろう。ましてふたりとも王位継承権保持者。ふたりからの報告があれば、アカデミーは威信をかけてふたりを保護したじゃろう」
ヘズモントの口から語られるアカデミーの見解は、一分のつけ入る隙きもない。浅学な自分では、どれだけ言葉を尽くしても覆すことは叶わないだろうと、スレンは巨大な壁を前にただ立ち尽くすばかりだった。少なくとも今、この瞬間は、納得できなくとも従わざるをえない。抵抗を諦めたスレンがため息をつくと、ヘズモントはせめてもの励ましにと、ふたりの処遇について語ってくれた。
「まあ、ふたりともまだ若い。過ちを認め、正しき魔道を志すには遅くないじゃろう。じゃから、ふたりにも謹慎という緩い処罰がくだされただけじゃ。もっとも、王位継承権保持者をふたり同時に裁くなぞ、いくら魔道の権威とはいえ、アカデミーには気が重い話じゃからな」
言葉を尽くすヘズモントだが、スレンはもはや上の空だった。ミルレットとヨルヤのふたりに真偽を問いただす。それだけが彼の頭の中を支配していたのだ。ただ、それが叶うのは早くても二週間後。居ても立ってもいられないスレンだったが、いくらヘズモントの研究室からの帰り道を早歩きで辿ったとしても、やきもきする気持ちを誤魔化すことすらできやしない。
いや、違う。早歩きはスレンの意思ではなかった。彼はただ、前を行くアターシアに追随しただけ。早歩きをしていたのはアターシアの方だ。
彼女は自身の研究室に戻るなり、開口一番に言い放つ。
「さあスレン、準備なさい。フィールドワークに行くわよ!」
それはそれは、眩しいくらいの満面の笑みだった。