43 してぃーがーる 3
拒否権がないからといって、すぐに「はい、やります!」とは、なるわけもなく、私は腕組みをしているハンスさんの前で黙りこくってしまった。
「なんだ、不満か?」
不満ではなく、不安なのだ。レエラさんはこの店のステージに何十年も立ち続けてきた人気歌手。一日とはいえ、その代役を任されるなんて、ついこの間まで貧しい農民だった私には荷が重すぎる。
それに、どうして私なんだろう。レエラさんが褒めていたってハンスさんは言ったけれど、私がレエラさんに聞かれたのはせいぜい鼻歌程度。それに指摘されてからは一度も歌っていない。ハンスさんが私を乗せるために吐いた嘘なんじゃないのかと、勘ぐってしまう。
ジロリと、ハンスさんのことを上から見上げて、私は重い口を開いた。
「……どうして私なんですか」
「俺だって聞きてえよ。だがステージを空けるわけにはいかねえんだ。じゃあお前、他に誰か心当たりあるか?」
その言い方は流石にズルいです。
一番後輩の私が、誰かを指名するなんてできるわけがなかった。
「……もう、どうなっても知らないですからね」
これでも「もう! どうなっても知らないですからね!」と、威勢よく言っているつもりなのだ。
「とりあえず、今日はレエラの代わりをするだけでいい。一応客にはレエラは来れなくなったと伝えておくから、そう多くは入らんだろう。所詮代役と思って、気楽にかまていろ。それから、今日はその制服じゃなくて、いつもの普段着のほうが良いな」
私は着替えるために今一度控室へ戻るが、重圧に足取りは重い。緊張に身は硬くなり、不安で胸がぐるぐるしている。もう何回ため息を吐いたろうか。
「レエラさん、こんな私がちゃんと歌えるように見えるんですか?」
などと一人きりの控室で愚痴をこぼすありさま。
こんなところ、スレンには見せられないな……。
自然に出てきたのは恩人の名前。いいえ、恩人というだけではない。もしかしたら……
私は思い出す。「マリ、おれはマリの傍にいるよ」そう言った彼は年下なのに、とても格好良かった。家族を失い、たった一人になってしまった私にアレはずるいと思う。だったら――
「どうしてあの時、うんって言わなかったんだろう私」
もしもスレンの申し出を受けていたら、今頃はふたりで穏やかな毎日を送っていたのだろうか。しかし、すぐにその幸せな夢想を私は掻き消してしまう。
いいえ、あのスレンだもの。きっと穏やかなだけじゃすまないわ。困難や苦悩が多い波乱に満ちた人生になっていたかも。でも、彼とならそれも楽しめたのかしら。
なんて、スレンと一緒だったなら、どんな人生でも幸福な未来に思えてしまうのは、甘いのだろうか。
「スレン、どうしてるのかな」
出会ってほんの数日で別れ、そして再会の後も、鐘ひとつ分も一緒にはいられなかった。けれど、まぶたを閉じればはっきりと思い出せる。
「私、たくさん覚えたんだよ」
あのときは別れの歌だった。だけどもしも今度。もしも今度があるのなら、次は別れの歌ではなく、再会を喜ぶ歌を聴いて欲しい。そしてその時、レエラさんがみんなにそうしているように、スレンを笑顔にさせられたらどんなに幸せなことだろう。
コンコンと控室の扉が叩かれ、ハンスさんがその厳つい、しかし心配そうな表情の可愛らしい顔をのぞかせた。
「なんだ、大丈夫そうじゃないか」
「へ?」
「緊張してたみたいだからよ」
はっとして、私は両手を広げてみた。そこにはもうすっかり節くれていない、女の子らしい指があった。それは震えず、ちゃんと私の命令に従って拳を作ってくれる。
またスレンに助けられてしまった。
「もう出番ですか?」
「ああ、みんな待ってるぜ」
ハンスさんの、まるでお嬢さまにするようなエスコートで、食堂へと続く廊下を歩く私。トクン、トクンと、相変わらず鼓動はうるさいけれど、あまり不安はない。
そしてすっかりランプの灯りが満ちた店内には、いつもどおり満席のお客さまが……。
は? 満席?
彼らの視線は、まるで登場した歌姫を歓迎するようにこちらに向けられていた。
ちょっとハンスさん? ちゃんとレエラさんはお休みだって言ったんですか?
私がジロリとハンスさんを睨むと、ハンスさんは笑顔を引き攣らせて、まるで仕方がなかったんだとでも言いたげに首を横に振った。確かに、お店のお客さんを確保するのは大切なことだけど、レエラさんが来れないと知れば、結局がっかりされてしまうというのに。溢れそうな溜め息を飲み込んで、私はステージまでの道を歩く。そして意を決して……というよりも破れかぶれに伏し目がちだった視線を上げた。
うっ……
そりゃあ、たじろぎもするよ。だって、カロア村の人口より多いんじゃないかと思ってしまうくらいの人たちが目に飛び込んできたのだもの。
「マリちゃんっ」
そんななか、声をかけてくれたのは近くの席に座っている常連のおじさんだ。
「がんばんなっ」
今度はどこか別の場所から。
私は客席を一望する。すると驚くことに、誰一人として不満そうな、もしくは訝しげな顔すらしていないのだ。あまつさえスプーンから手を離して体ごとこちらを向いている。声をかけてくれたおじさんの隣の人も、そしてその隣の人も。そうやって目があうたびに私の鼓動は早まっていく。さっきまでの《なんだかやれそうな気》はどこへいったのだろう。手はかじかんだように冷たくて、握りしめると震えているのがわかった。
「マリ」
突然後ろから声をかけられて、振り向くと伴奏の方々が座っていた。リュート、ハープ、クルムホルンの三人。足元には太鼓にハーディ・ガーディも置いてある。曲の途中で持ち替えるのだ。レエラさんが歌手になる前からここで演奏している人たちで、みんなおじいちゃんだ。
「ははは、緊張しているね」
「レエラが初めてステージに立った夜を思い出すなあ」
あまり話す機会がなかったのに私の名前を知ってくれていることに驚いた。
「ほら、音楽は楽しまなくちゃな」
そうは言っても……。
パチリとウィンクしてみせるリュートのおじいちゃんに、私は苦い笑みを返すばかり。
「どうしても駄目だったら、最初は目を瞑っていても良いんじゃないか?」
「目を?」
「そうさ。目の前の客をじゃがいもだと思えってったって、無理な話さ。だったら見なけりゃいい」
そんなアドバイスに相槌を打つように、隣のハープのおじいちゃんが「レエラも最初はそうだったなあ」と思いを馳せていた。
そうか、そうだよね。あのレエラさんだって、最初があったんだよね。
そう思ったとしても緊張が解れるわけもないので、私は素直に目を閉じてみることにした。
「しっかり、僕たちの音だけをよく聴いて」
そしておじいさんの息を吸う音が聞こえ、一拍の後、クルムホルンのか細い音色が音楽の始まりを告げた。
『黄金色の穂』
私はドキリとした。
これは収穫を迎えた小麦を刈入れる時の歌だ。土の神クベーと風の神フィーロを讃える農民たちの歌だ。カロア村でも囃子に合わせて歌いながら、みんなで鎌を振るったものだ。つまり私にとって、とても馴染み深い歌ということ。ただこれは、いつもとは違う選曲で、きっとおじいさんたちが気を回してくれたのだろう。
村ではリュートの伴奏しかなかったので、それに比べれば少しばかり賑やかだけど、聞き慣れたメロディーが私を懐かしい気持ちにさせてくれる。
胸に手を当てて、大きく深呼吸をする。そして、小麦畑の向こうにいる人たちにもちゃんと聴こえるようにと、私はもう一度大きく息を吸った。
ここまでいろんなことがあった。ようやく落ち着いた暮らしを手にすることができたけれど、心はずっと中途半端なままだった。わかってる。それは中途半端な別れ方で村を出てきたからだ。
村長さんたち、無事だそうでよかった。
アニムから来たお役人さんに、自分の身柄を引き渡すことで騒動を治めることができた。自己犠牲だなんて思ってはいないけれど、ちゃんと役目を果たせたのかはずっと気になっていた。ミザリさんに調べてもらって、カロア村の無事を確認できたときは、本当に安心したな。
だからって農民の私が、こんな大都市の町娘になりきれるわけがなくて。だからずっともやもやしたまま暮らしていたのだ。
ここは私のいる場所なんだろうか。お世話になりっぱなしのミザリさんには申し訳ないのだけど、それでもやっぱり、商館での暮らしも、酒場での仕事も、どうにも落ち着かなくて、けれど他に行くあてもなくて……そうだ、私はずっと不安だったのだ。
故郷を思い出す歌。何度だって口にした歌。ここは大都市で、酒場で、だからレエラさんが歌っているところは見たことがない。歌ったってお客さんは誰も共感しないから。だからこの曲を聴くのはいつ以来だろう。歌うのはもっとだ。
まさか演奏のおじいさんたちが知っていただなんて。
私たちの歌を知っていてくれたのがとても嬉しかった。そして緊張している私を見て、最初の曲に選んでくれたことが嬉しかった。そして、
私、ここにいていいんだ。
心から、そう思えたのだ。
歌が終わり、私は瞑っていた目を開ける。村ではみんなの合いの手が返ってきたけれど、ここでは温かい拍手が私を包んでくれた。人前で歌ったのはこれが二度目。一度目はたった一人のために。こんなに大勢の前で歌ったのは初めてだったから、私は驚いて何度も何度もお辞儀を繰り返してしまった。




