26 おちこぼれ
一限目は算術だ。アカデミーでは魔法以外の一般教養も習得する。将来、研究者か軍人になる魔道師でも、音楽、舞踏、美術、文学、各種儀礼の作法を修ることは大切なことだ。特に一年生の間は、そういった講義がかなり多い。逆に、二年、三年と、学年が上がるにつれ徐々に専門的な講義が増えていく。騎士科の学生と別々に授業を受けることも多くなるだろう。
ところで、スレンに算術の素養があるかという問題だが、それはアターシアがサポートしたかどうかが結論だ。もともとスレンは両手の指の数、つまり十までしか数えられなかった。それではとても授業についていけないだろう。アカデミーでは一般教養についても、魔力操作同様、アカデミーに入学する前にあるていど家庭教師から手ほどきを受けていることを前提として授業が進められる。もちろん授業は低レベルに合わせて進められるが、せめて三桁の足し算くらいはできないと話にならない。ではスレンはアターシアからそこまでの算術を教わったのか。
結論から言えば、それは否だ。とても五週間ではそこまで辿り着くことはできなかった。
アターシアは、自分の研究時間のみならず睡眠時間までもを割いてスレンに必要な常識や教養を身につけさせた。彼女の多大な自己犠牲によって五週間という短期間でスレンは人間になることができたが、その基準は妥協に妥協を重ねて設けられたものだった。最悪、魔法のことさえ隠し通せれば、多少の悪評はやむなしと、アターシアは考えたのだ。なぜなら、スレンの無学が露見してもアカデミーにおちこぼれがひとり増えるだけだからだ。スレンの使う魔法の異常性が発覚するわけではない。
「どうした?」
黒板に書かれた数式を見て硬直するスレンに、アルトセインは訝しげに尋ねた。
「い、いや、なんでも!」
如何にピュアなスレンといえども知らないことを恥じる気持ちはあるようだ。これもアターシアの躾けの賜物なのだろうか。けれど、なんでもないわけがない。スレンは数式が理解できないのではなかった。彼は、つらつらと並んでいる数字自体がわからなかったのだ。人里に降りて、文字というものの存在を知った。だが使う機会がなかったので、別段必要のないものなのだとスレンは思っていた。知らないのだから使う機会がないのは当然のことなのだが。
運良く設問の回答者に指名されず、何事もなく――何も理解することもなく、一限目の終わりを告げる鐘が鳴った。
失意の算術が終われば次は二限目。アルトセイン曰く、同教室で行われるのはアグニア語の授業だそうだ。アグニア語とは、シフォニ王国以前にこの地にあったアグニア国の言語だ。この地にあった国の言葉なのにも関わらず、ほとんど別言語なのは、アグニア国が魔道師たちによる革命によって建国された国であり、アグニア語が、その魔道師たちが魔法を独占しようと画策するなかで生まれた言語だからだ。
慣例として、魔法関連の書物はすべてアグニア語で記されている。魔道師にとってアグニア語とは、母国語よりも大切な言語なのだ。とはいえ母国語がわからなければアグニア語とて習得しようがない。
テキストを開いて見ても、どれがシフォニ語でどれがアグニア語なのかすらわからない。ただ、算術と違うのは、教師が口述することは理解できるということだ。だから真剣に前を向く。授業を真剣に聞いているものだから、目が合った先生はスレンを指名した。
「ではスレンさん、次の文章はどういう訳になりますか?」
冷や汗が背中を伝う。体は硬直しているのに心臓は痛いくらいに内側から体を殴りつけている。本当は簡単な問題なのだろう。隣のアルトセインはなんでもない表情で黒板を眺めているのだから。別言語とはいえ、所詮どちらも表音文字。どのアグニア語がどのシフォニ語に対応するかがわかれば、あとは少し頭を捻ればわかる程度のものだ。しかしスレンでは答えられない。答えられるはずがない。なぜならアターシアは、文字を教えることも放棄したからだ。平民の識字率は低い。商人であれば書面にて契約を交わす際に必要になるので習得するが、それ以外の職業――農民、職人、兵士、下級の使用人――彼らは、よくて自分の名前を書ける程度だ。であれば、スレンが読み書き未習得でも問題はないはず。いや、問題はあるが少なくとも違和感はないだろう。彼にとっては苦難以外のなにものでもないが、アターシアにとっては、それはアカデミーに編入してから改善すれば済む話だった。
指名され、しかし答えられないスレンは立ち尽くす。そして嘆いた。嗚呼、席が一番前なら良かったのに、と。そうすれば全生徒の視線を集めている事実を知らずにすんだのに。振り向いてスレンに注目している生徒たちのなかに、スレーニャを見つける。眉をひそめているが、心配しているのか哀れんでいるのかは不明だ。
押し黙るスレンを不思議に思った教師が首を傾げ、
「どうかしましたか?」
と、問いかける。どう答えるべきだろうか。いいや、そんなのは決まりきったことだ。
森での生活は、良く言えば穏やかで、何の心配も不安もないものだった。しかし逆に言えば、起伏の乏しい単調なものだと言いかえられるだろう。対照的に、魔法都市アニムでの生活はスレンにとって多くの刺激を与えるだろう。
「文字が……わかりません」
そして今、羞恥という感情をスレンは手に入れた。
□
スレンにはアターシアを責めることなどできなかった。早くアカデミーへ編入したいと願ったのは誰でもない自分なのだから。とはいえ、本来必要な何を自分は持っていないのか、それくらいは教えてほしかった。
「――ということがあったんだ」
研究棟へと帰宅したスレンは、いの一番に今日のアカデミーでの出来事をアターシアに報告した。そこで安堵の息を吐いたアターシアに、内心苛つきながらも、スレンはさらなる教えを請う。
「アターシア、おれに文字と算術を教えて欲しい」
すると彼女は、そんな顔をしなくてもいいのにと誰もが言いたくなるほど面倒臭そうな顔をした。少し考えた後、アターシアは冷静な口調で話しはじめた。
「あんたねえ、アカデミーに何しにいこうと思ったの? 遊びに行くつもりなら、今すぐ辞めさせるわよ。タダじゃないんだから」
具体的にそう思っていたわけではないけれど、楽しそうなところだとしか思っていなかったスレンは、ギクリと息を呑む。図星だと悟ったアターシアは、ため息を吐いてさらに言葉を続けた。
「知ってるでしょう。アカデミーは魔道師や騎士を育てる場所だってこと。あんたたち生徒にとっては勉強する場所なの。読み書き計算がわからないのなら、だったら勉強するしかないでしょう」
そんなことを言って、自分が面倒くさいだけなんじゃないのかと思わなくもないが、スレンとしても、ようやく研究を再開できると喜んでいたアターシアの邪魔はしたくない。けれど取っ掛かりがなければ独学は困難なのも事実。億劫だがアルトセインに相談してみようとスレンが思っていると、アターシアから思わぬ情報が舞い込んできた。
「図書館に行ってみたらいいんじゃない」
「トショカン?」
初めて聞く言葉だった。
「中庭の真ん中にある新しい建物よ。本がたくさん置いてあるから、もしかしたら文字の勉強の役に立つものがあるかもしれないわ。中に入るとすぐ正面に司書――管理人がいるから、挿絵付きの辞典があるか聞いてみなさい」
なるほど、絵と照らし合わせれば覚えるのも幾分楽だろう。算術はともかく、読み書きができないままでは、座学のほとんどが無意味なままになってしまう。
「わかった。行ってみる」
知らないところへ行くときは誰かと一緒だった。アカデミーではアターシアと、ルニーアクラスの教室へはミミと一緒だった。けれど、明日はひとりでトショカンへ向かうことになる。
スレンは胸中にもやもやしたものを感じた。
知ってる。これは不安だ。
カロア村へ行った時も、フィアレンゼへの旅路も、ひとりで行動することは少なくなかったけれど、こんなに不安にかられたのは初めてだ。
一方で、文字を知ることを楽しみだと思う自分もいた。アターシアの研究室にも、アカデミーの教室にも、文字がたくさんあった。それを全部読めるようになれば、きっと世界が変わる気がする。
部屋に戻り、ベッドに横たわったスレン。今日はあまり身体を動かしていないのに、どうしてか酷く疲れを感じていた。だから、服を脱ぐのもままならないまま、あっというまに意識を手放してしまった。