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八月二十日

 朝食、昼食が終わると、先生がやってきた。僕は、少し興奮気味に昨日の夢を簡単に話した。恥ずかしかったので女の子の話はしなかった。

「ついに体験しましたね」

 先生はうれしそうにニコニコして言った。

「でも、急に足が動かなくなって、体が重くなったと思うとベッドに引き戻された気がします」

「君の見ているダイバーダウンはまだ浅瀬に顔だけ沈めているみたいなものです。いつも身体と意識が繋がろうとしているので、目が覚め始めると、夢の中の身体ではなく現実の身体を動かそうとし始めるのです。でも現実はベッドの中なので動かせない。それが夢に反映されて身体が重く感じるのですよ」

 僕は、手のひらを見ながらグーパーグーパーと動かしてみた。これが現実の手。でも夢の中では夢の手。

「どうすればいいか? 深く深く潜っていくのが一番ですが、いろいろコツもありますので、今日はそれを試してみましょう」

 先生が教えてくれたコツは二つある。

 一つ目は、落ち着くこと。興奮すればするほど、無意識の海から浮かび上がって顔を出してしまう。つまり起きてしまうという。では、落ち着くためには? 自分が興奮してきたと思ったら、目をつむることがいいそうだ。夢の中で目をつむるというと変な気がするけど、目をつむって何も見えない状態にすると確かに落ち着く気がする。そして、目をつむったまましゃがんで足元の地面を触ることで落ち着けるのだそうだ。手で地面を触れて、その手触りに集中すると今自分がいるダイバーダウンの世界を維持することができると。

 二つ目は、信じること。ダイバーダウンの世界は夢よりも現実に近い世界。自分の良心に従って、これからこうしたい、こうなるはずだということを信じ切ること。良心に従わないと、心が興奮してダイバーダウンの世界を維持できなくなるという。


 *


 昼下がりの気だるい時間。何もない、誰もいない病室で、僕は窓の外を眺めていた。昨日は夢の中であの辺りに立っていたんだなと思い出しながら。記憶は残酷だ。あれほど鮮明で感動的だったダイバーダウンの世界は、もう色()せてただの思い出になっている。

 遠くで鳴くヒグラシの声を聞きながら、だんだんまぶたが重くなってきたのを感じた僕は、もう一度ダイバーダウンを体験したいと強く思い、枕元に置いてあるアイマスクをつけて布団をかぶった。

 眠かったと思う。だけど、寝てはダイバーダウンに入れないという強い思いがあったので、(まぶた)の裏で展開する風景と、闇と光の繰り返しを眠らずにじっと見つめていた。


 いつのまにか体が重くなって動かなくなってきた。耳鳴りが始まる。意識はしっかりしている。大丈夫、金縛りだ。自分に言い聞かせると、なんだか楽しい気分になってきた。この先にはダイバーダウンが待っている。いいようのない期待が心臓をバクバク動かし始めた。

 落ち着かないと。

 僕はいつの間にか病室の床の上に立ち上がっていた。立ち上がっていたことは気づかずに。先生に言われたとおり、目をつむったまましゃがんで床を触った。ひんやりとしたすべすべの床の感触を手指で感じながら、自分がベッドから抜け出していることに気がついた。おそるおそる目を開けると、ベッドの足が目に入ってきた。

 自分はただベッドから抜け出して床を触っていたんだと思った、が、すぐに違和感を覚えた。「偽りの目覚め」と「アイマスク」。アイマスクは外していない。これは偽りの目覚めだ。

 僕は立ち上がって病室を見回してみた。ベッドには僕が抜け出したあとが、しわになって残っていた。ベッド脇の時計の秒針がゆっくり回っている。

 すごい。何もかもが現実と同じだ。これが夢とはとても信じられない。

 すこし日が暮れてきたような物寂しい明るさを感じ、窓から外を眺めた。

 ぎゅーと木々の影が伸び、窓から中の病室にも侵入してくる。僕は窓の近くまで歩いて、グラウンドに目をやった。

「あっ」

 僕は小さな喜びの声をあげた。グラウンドには学生服を着た長い黒髪の女の子の後姿があった。すごく遠くに見えた。

 僕は目の前にある窓を開けた。不思議だった。窓枠に手を掛け、何の躊躇ちゅうちょもなく勢いをつけて窓からジャンプした。体は空中を浮かび、そしてゆっくりと降下していく。そしてひざを曲げながら着地。太ももに小さな衝撃を感じながら立つと、僕は彼女に向かって走り出した。

 僕の目は彼女の後姿だけを捕らえ、周りの景色は目に入っていなかった。実際、夕日で薄赤い空間を走っていた記憶しかない。

 遠くに小さく見えた彼女の後姿が、どんどん近づいてきて、ついに手が届くところまで走った。

 普段は絶対そんなことはできないとふと思ったが、僕はそのままの勢いで、彼女の肩に手をかけ、無理やりこちらに振り向かせた。

 彼女のびっくりした顔がこちらに向けられる。僕は彼女のことを知っている、と急に思い出した。そのまま彼女の大きな瞳を見つめた。


 僕は、水の中に仰向けになって沈んでいた。ゆらゆらゆれる水面みなもの光を見ながらだんだんと沈んでいく。水面の光がだんだんと遠く小さくなっていく。とても心地いい……


 そのまま目が覚めた。

 アイマスクをゆっくりはずして枕元の時計を見ると、十四時を表示していた。

 彼女の顔が急速に記憶から遠ざかっていく。あぁ、もう思い出せない。

 結局、日記を書いている今は思い出せていない。

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